褒める難しさ

褒めて伸ばす──なんて、言葉が数年前から流行っています。部下などを上手に褒めて、やる気を出させ成長させるといったほどの意味ですが、この褒めるというのが案外に難しい。
先生と 呼ばれるほどの 馬鹿でなし
なんて川柳もあるくらいで、底が浅い褒め方は魂胆を見透かされて却って相手をいじけさせるものです。上手に褒めるコツの一つは論理的であること、第三者が聴いて納得のいく理由で褒めることじゃないかなと僕は思っています。例えば、
「この資料作ったの君か。いや、4ページの表の着眼点が素晴らしいと思った。普通なら売上に影響するのは何月期といった時期だと考えるだろ。ところが、今年の降雨量のデータを重ねることで天気と売上に相関があることを証明して見せてる。普通、IT企業の売上がお天気に関係するかもしれないなんて仮設は立てられないよ。発想力が素晴らしい」
なんてね。この場合、資料に記載された客観的な数字をネタに褒めていて、それが誰にでもできることじゃないというのも説得力があるから響くのです(注:IT企業の売上とお天気は実際にはあまり関係がありません 但し、取引先の業績がお天気に左右される場合は間接的に大きな影響を受ける場合があります)。
この例のように実際、それなりに認めてあげられる仕事をしている部下ならそれでもまだ褒めようはあります。けど、どこをどうみても良い仕事をしてる気がしない部下の場合は更に難しい。
「君、ファッションセンス良いね。この前、クライアントの部長さんが褒めてたよ」「いつも、明るいよね。それだけで職場が元気になる気がして助かるよ」「忘年会の店のチョイスはナイスだね。よくあの店をあの会費で予約できたもんだ」「ビル周りの清掃いつもありがとう。率先してやってくれるから気持ちがいいな」……いやいや、どんどん苦しくなる

ネットの映画レビューを見ていると酷評がちらほら目につきます。どんな高評価の映画でも何人かは酷評が付いていたりするのでちょっと不思議。
「内容が薄っぺらい」「見るところなし。唯一、主題歌だけ良かった」「主人公に全く共感できない」「わかるやつだけわかれば良いと気取ってるやつが作った作品」「脚本がとにかくひどい」「わたしには良さがわかりませんでした」「ストーリーに力なし」などなど
ちょっとうんざりしてしまうのは、主張の多くが主観的で抽象的なものが多いこと。極論を言えば、言葉さえ知っていれば小学生でも書けるようなレビューであることです。だから、単なる悪口にしか聞こえなくて響いてこない。その映画を観るかどうか迷っている時の参考にならないものが多いのです。
かつて、どんな三流映画でも褒めると言われた名解説者がおりました。その方の名は淀川長治さん。多くの人が「これってどこが良いんだろ」と思う作品でも必ず良いところを見つけて褒めるのです。
しかも、それが分かり易い。曰く「脚本のここの作りが巧い」、「ここの演出がこうなってるから凄い」、「あのシーンで主演の○○の表情になんともいえない陰がありますよね」だのすごく具体的なのです。そして、何千本、何万本の映画を見てきた彼の言葉には説得力がありました。聞かされた視聴者はなるほどそういう観方もあったかと目からウロコが落ちたものです。
恐らく彼は褒めどころを探していたわけではないのでしょう。今までに観てきた膨大な映画と引き比べて純粋に目の前の映画に感動していたんだと思います。
上手に褒めるための真髄は相手のキャラクターに、行動に、笑顔に素直に感動できる感性なのかもしれません。
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スマートホン・ライフはじまる

僕は今現在、電話機を持っていません。職場で支給されたフィーチャーホンで仕事に支障はないし、嫁や娘達とはPCのメールやLINEで連絡を取っているので不自由を感じていないんですよね。嫁は再々、スマートホンを持てと言っておりまして、とうとうとあれの素晴らしさを説いてくれるのですが、いつもにこにこと苦笑いしながら話半分にしか聴いておりません(ごめん)。それって、プロ野球選手に野球の素晴らしさを説いたり、役者に芝居の楽しさを喜々として教えるのとあんま変わんないよと内心思っています。まがりなりにも、僕の職場はIT企業ですからスマホのアプリも作ってます。僕はプログラマーじゃないから直接作る現場にはタッチしませんが、プロジェクトが佳境になってテスターに駆り出されることはあります。朝から晩まで何日も延々とスマホの操作をすることになるわけで、あれがどんなものかは百も承知、二百も合点(言い回しが江戸だな)なのです。
が、時代の趨勢には勝てなかったのか、はたまた働き方改革の一環からか(恐らく後者)、この度、支給されているフィーチャーフォンが一斉にスマホに機種変更されることになりました。今週、僕は通院で休暇を取っていたのですが、納品されたよという連絡を受けているので週明けにはスマートホン・ライフが始まることになりそうです。最初の設定がめんどくさいな……。
新生活が始まるに際していくつか自戒しておこうっと。
電車の中では使わない。電車で移動中は読書をする時間なのです。
NAVIアプリも極力使わない。地図を記憶しておいて、ランドナビゲーションするスキルが劣化するような気がして怖い。
といったところでしょうか。敢えて、歩きスマホはしないなんて書きません。あれは元々マナー違反ですから(使うならじゃまにならないところで立ち止まって使うこと)。職場のエレベータでの使用が厳禁なのも当たり前。あそこは、パブリックスペースではなくオフィシャルスペースでお客様も乗ってこられるのです。スマホをいじっていたらこの社員は仕事してるのかなという目で見られても仕方がない(たまに、いじってる人の画面をチラ見しますが、まず間違いなくLINEなど業務と無関係ないことをしています)。
逆にせっかくのデバイスですから有効活用せねばとも思っています。期待するのはWebブラウジングとアプリかな。GOOGLEのような検索エンジンを始めとしてWebが閲覧できるのはやはりスマホの強みです。あと、様々なアプリが使えるのもスマホの魅力。しょうもないゲームを入れて時間を潰すつもりはありませんが、仕事の効率を上げてくれるアプリも多数あるはず厳選して使おうっと。
元々、職場のメールやスケジュール表はフィーチャーホンでもiモードのアプリで参照できていたのですが、スマホ版はメールに添付されたMS-Officeのファイルが閲覧できるらしい(フィーチャーフォンはテキストファイルのみ閲覧可)。外出が多い仕事なのでこれはすごく助かるかもと思っています。
最後にこっそり個人的なことを書くと運営しているレシピ検索サイトのスマホの見栄えがチェックできるのはすごく嬉しい。娘にチェックしてもらって「普通に見れるよ」と言ってもらってはいるのですが、前から気になっていたのです。
実は今のフィーチャーフォンの仕様にかなり不満があったので今回の機種変は嬉しい限りです。最盛期のフィーチャーフォンの作りは職人技を感じさせるものがありましたが、今の機種はド素人が適当に作ったなというのがわかる代物。キーのストロークが中途半端で入力判定が甘い(効いたり、効かなかったりする)。従来のキーと操作の割当が変わっていて直感的に操作しづらい。で、何よりかな漢字変換が最悪。最初期のドコモの方がマシじゃないのというくらい予測変換しないのです。たとえば「ありませ」まで入れても「ありません」が出てこないダメっぷりなんだよな。
ということで、さようならフィーチャーフォン、こんにちはスマートホン(スマートフォンが正しいと思うのですがみんな、スマフォじゃなくてスマホって言うもんなぁ)。新しい生活が月曜から始まります。

とうに、衣食足りつ

2017年夏アニメの『異世界食堂』を見直しています。
ざっくりいうと、魔法や魔物(異形の者)も存在するファンタジー世界に週に一度、異世界(=現代、日本)の洋食屋に続く扉が現れるというお話です。その扉を通ってやってきた異世界の住人たちはオムライスやエビフライ、ロースカツ、チョコレートパフェなど見たこともない料理に舌鼓を打ち、やがて常連が増えていくという展開になります。ファンタジー世界側の世界観は中世ヨーロッパをモチーフにしていますから文明・文化レベルで言えば数百年のギャップがあるわけで驚くのはまあ当たり前。夢中になって食べる彼らの様子を見ているとこっちまでお腹が空いてきて、「あ、カツ丼食べたい」とか「明日は絶対メンチカツ定食にするんだ」とか思っちゃいます。

過日、『「普通」のハードルは上がったのか』といったネットのコラムを見かけました。昔は磯野家やさくら家(ちびまる子ちゃんの家)、野原家(クレヨンしんちゃんの家)などがこの国の普通だと言われておりましたが、現代ではあの生活レベルを維持できるのは既に庶民じゃない、もしやこの国における「普通」のハードルは上がったのではないかといった程の内容です。付いていたコメントを読むと「いや、多くの人の生活レベルが下がっただけ」だの「その日暮らししかできないような収入とは乖離した世界」だの、まあ例によって政治が悪い、社会が悪いと愚痴のオンパレードでした。けどね、ちょっと待って下さいな。そのコメントをどうやって入力しました? って聞きたい。パソコンだかスマホだか知らないけれど愚痴を言ってるあなたは自分用のネット環境を持っているじゃないですか。異世界の住人たちが見たらそれこそ魔法にしか見えないネットライフをあなたは当たり前のように過ごしているじゃないですかと言いたくなっちゃいます。恐らく、コメントをされた方でとんかつを一度も食べたことがない方やオムライス、エビフライの味を知らないと言う方もまずはいないんじゃないでしょうか。なのに、生活レベルが低いと言いますか?

ちょっと想像力をたくましくしてみます。異世界食堂の登場人物達は中世ヨーロッパファンタジー風に騎士や魔道士、商人や獣人といった面々なので料理に驚いているさまを見ても笑ってみていられますが、日本の中世、江戸期、あるいは戦前戦後の設定だったらどうでしょう。落ち武者や農民や浮浪児たちがオムライスやとんかつを食べて涙を流しているのを見ても笑っていられるでしょうか。少なくとも僕は見ていられなくなるんじゃないかな。なぜなら、それは間違いなく過去の我々、ついこの前までの我々の姿そのものだからです。ほんの数十年前までオムライスもエビフライもロースカツもチョコレートパフェも全然「普通」ではありませんでした。磯野家にとってもそれはごくまれに口にするご馳走だったはずです。それが今では「お昼はカツ丼にでもするか」と気軽に言えるようになっていませんか? 食べようと思えば今これからでもお財布を持って出ればオムライスが食べられるくらいの生活を多くの人が送ってはいませんでしょうか?
とうに、衣食足りつ──視点を少し変えてみると異世界食堂の常連たちは我々の生活レベルの高さを改めて教えてくれている気がします。『こんな旨い料理を「普通」だとぬかしやがるのか』、これ以上あんまり贅沢なことばかり言っていると、魔道士や魔物たちにどやされそうな気がしました。

ネームバリューの理不尽

2017年夏アニメに「ニューゲーム(二期)」がありました。
原作はゲーム会社のお仕事を基軸にした4コマ漫画だそうですが、結構リアルでシリアスなお仕事ネタもあり見ごたえがありました。二期というからには一期があったわけで、一期がヒロインの入社初日から始まるのに対して、二期は新作ゲームのプロジェクトにヒロインが参画するところから始まります。しかも、新作ゲームのアイデア出しで先輩達を差し置いて彼女のプランが通り、キャラクターデザインを任されるという大抜擢。キャラクターデザインはゲームの絵柄全般を決める重要な仕事です。例えば、同じ内容のゲームを作るにしても手塚治虫がキャラデをやるのとさいとう・たかをがやるのでは、全然違うゲームに見えちゃいますよね。現実にはそんなことあるもんか、なんてそしりはあるでしょうけれど物語としては胸弾む出だしでした。やがて、そろそろキー・ビジュアルを作らねばという話になります。キー・ビジュアルとは新作ゲームのお披露目に使われる絵。この絵とキャッチコピーだけで、これがどんなゲームなのかを購買層に伝えなければならない重要な商材です。その絵を観て、「あ、これ絶対買いたい」と思わせなければなりません。キー・ビジュアルも当然彼女が描く予定だったのですが、スポンサーから横槍が入ります。「既に何作もヒット作を飛ばしていて名前が売れている先輩社員が描くように」と。それを聴いて一番激怒したのはその先輩社員でした。「そんなことをしたら購買層にはあたしのゲームだと刷り込まれてしまう。(ヒロインの)デビュー作なのに彼女の名前がかすんでしまう」と。けれど、プロデューサーに窘められるのです。「どっちの方が売れると思う?」と。
これがゲーム同好会とゲーム会社の違いなのだと思います。好きでやっていれば良いのと売らなければいけない責任を背負って仕事でゲームを作っていることの差なのでしょう。購買層の心を掴めるのなら理不尽すら呑み込む。その頭の切り替えができなければプロとはいえないのだと思います。結局、コンペ(二人がそれぞれキー・ビジュアルを描いて良い方を採用する)という話になりますがプロデューサーに釘を差されます。「これは出来レースだよ」と。つまり、最初から先輩社員の案が通るのが決まった上でやると。けど、できあがったキー・ビジュアルを見比べるとヒロインの作品は良い出来だったのですが、僕のような素人目に見ても先輩のほうが上を行っていました。「出来レースなんて言わせない。実力で勝つ」という先輩の意地を感じましたね。それから後もヒロインの机にはずっと自分のキー・ビジュアルが飾ってありました。それは彼女の悔しさの証であり、腐らないための戒めであり、更に成長するためのバネだったのでしょう。
芸事の世界に本来年功序列はありません。実力があれば若かろうが主役を勝ち取れます。けれど、集客を考えた時、「無名」というのは恐ろしいものです。これは一種の博打で、良い芝居だったのにまるで客が入らず、興行的には大失敗となるリスクを含んでいます。それで劇団が傾いたりしたら本末転倒も良いところ。だから、既にファンが付いているベテランにどうしても良い役が回されます。無名なうちは実力では勝っていても涙を飲まなければならない局面が往々にしてあります。それで嫌になってしまえばおしまい。それでも倦まずにステップアップしていけば、いつかチャンスが巡ってくる可能性はあります(あくまで可能性ですが)。けど、どうしてもやりたかったあの役はもう回っては来ない。あの日立ちたかった舞台に立てることは永遠にありえない。それはネームバリューの理不尽という言葉と一緒にずっと心に刺さった棘になっていくのでしょう。けど、それをケロッと忘れるようではまた役者に奥行きが出てこない気がします。それぐらいの執念深さがあってこそ役に深みがでてくるのもまた事実なのです。

キッチンタイマー・ライフ

嫁によく笑われるのですが、僕の調理にキッチンタイマーは欠かせません。
よし、今から2分炒めるぞと言ってはキッチンタイマーをスタート、唐揚げは3分ねと言ってはキッチンタイマーをスタート。とにかく、次の調理の工程に移る度に時間を計ってベストの状態になる時間をメモしていかないと落ち着かないのです。
今でこそ、火が入っていく食材の状態や色や時には音の変化でタイミングを掴めるようになってきていますし、1分後、2分後どうなっていくかの予測も付きますが、料理を覚えたての頃は勘所がまるでわからず、拠り所になるのは時間だけ。何分炒めたら(揚げたら、茹でたら)良い感じになるのかというのをずっと物差しにしていました。今でもキッチンタイマーを手放せないのはその名残なんでしょうね。そういえば、鯨統一郎のデビュー作「邪馬台国はどこですか」で、邪馬台国の所在を推理する際にこんなことが言われていましたっけ。「魏志倭人伝で信用して良いのは船で✕✕日進んだといった部分だけ、○○里東へなんて箇所は無視すべき、当時の航海技術も測量技術もそこまで発展していなかった。ただ、何度日が昇って、日が沈んだかというのは誰がやっても同じで客観的な尺度となる」──あの作品がミステリーファンの琴線に響いたのはまさにこの一文だったと思うんですよね。そう、時間は客観的な尺度になります。
僕はいつか娘達が料理をするようになった時のために細々と料理の検索サイトを運営していますが、そこに書くレシピにも時間をこまめに書き込んでいるのは、料理1年生の娘達がタイミングをつかみ易いようにという配慮からなのです。

けど、ここまで書いておいてなんなのですが、決まった時間調理しても結果が同じとは限らないのが料理でもあるのです。ちょっとした火加減、混ぜ方などなどで同じ1分でまるで違う料理ができることも往々にしてあります。そう、料理の難しさはデジタル化しきれないところにあるのです。確かに全く同じ分量の食材、調味料を用意し、レシピに書かれていることを忠実に守れば本来の料理に近いものはできます。けど、最終的に本来の料理と同じものを作り上げるためには目で見、音を聴き、匂いを嗅いで判断しなければいけない局面が必ずあるものなのです。そんな料理人の勘と呼ばれる部分をレシピに書くのは至難の業、てか無理。なので、料理人は一代限り、二代目が店を引き継いだらそこからは二代目の味に変わっていくのが世の常なのだと思います。初代のファンからすれば面映いことでしょうけれど、二代目には二代目の良さがあるはずですからそれを楽しめば良いと思うしかないんじゃないかな。
近年、分子ガストロノミーという分野の研究が進んでいるそうです。料理を科学の視点からアプローチするもので、この分野が進化すれば料理人の勘といった曖昧な概念を払拭して全く同じ料理を誰もが作れるようになるかもしれません。それどころか、この学問では遠心分離機や液体窒素なんてものを平気で使ったりしますから誰も見たことがない料理が近い将来生まれるかも。料理人にとっては寂しい話かもしれませんが、そうなったら面白いだろうなと思う自分がここにいます。
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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