ラプラスの魔女

東野圭吾の「ラプラスの魔女」読了。以降、いくばくかのネタバレを含むためご注意を。
作家生活30周年記念の意欲作で僕としては極めて珍しく布団の中に入っても眠たくならずに引き込まれた作品でした(僕は入眠儀式として読書をする習慣があるので布団の中で活字を読むと自動的に眠ってしまうのです。ふつう)。
事故としか考えられない殺人が起きたり、家族を喪った男のブログに作為が隠されていたりとミステリーの要素もあるのですがジャンル的にはSFサスペンスといったところでしょうか。有川浩の自衛隊三部作にも似たとんでも設定がバックボーンになっているのですが、有川作品の軸が比較的ファンタジー寄りなのに対して本作は徹底してサイエンス寄りで論理的(誤解を恐れずに言えば理屈っぽい)というあたり如何にも東野圭吾らしい。
僕はリアルタイムでデビュー作「放課後」を読んで以来の彼のファンで、面白い作家が出て来たなくらいには思っていたのですが、正直ここまで化けるとは思っていなかったな。何より凄いのは彼のリリースする作品の多くがあたかも無名の新人が初めて公募に応募する作品のような渾身の一作でホントに応募したら大賞を獲ってしまうんじゃないかと思わせる力作であること。常に過去の作品を越えて何か新しいものに挑戦していこうとしていること。僕は彼のそんな執筆姿勢が大好きです。
本作も過去の自作を全てぶっ壊したいと思って臨んだそうで、頑張ってるなぁというのが窺える力作でした(だから眠くならなかったんだけど)。けれど、彼が狙った過去の作品をぶっ壊す企みは成功しなかったんじゃないかな。この作品は間違いなくこれまでの彼の全ての作品があってこそ書くことができた作品。今までの執筆経験の上に築き上げた集大成的なものだと思うのです。

ところで、本作は脳外科手術により未来を予測する異能を得た男女がキーパーソンになるのですが、ありがちな結末と違ってラストに二人が死ぬわけではありません。なので、続編を書いてくれないかなと我儘な期待を膨らませているのですがどうでしょう。書くとしたら本作を越えるものを期待されるだろうし、相当体力と気力がいるだろうなぁ
スポンサーサイト

不自由な常識

少し前に読んだミステリーのネタバレをやります。倉知淳の「猫丸先輩の推測」及び「なぎなた」を未読の方はこのブログをスルーすることをお勧めします。
倉知淳のミステリーの魅力の一つは発想の逆転と我々が常識と信じていることの盲点を突いた謎の構成にあると思います。
例えば、寒い冬の夜、主人公の下に毎晩毎晩電報が届きます。「チチキトク スグカエレ」だの「ジッカゼンショウ」だのろくな内容じゃないのですが、実家に確認してみると真っ赤な嘘。コタツから寒い玄関に呼び出された主人公は連夜の電報にうんざりしていると探偵役の猫丸先輩に愚痴をこぼします。すると、先輩は鼻で笑ってこう言うのです。
「お前さんは世界最後の日が来たら一日中、遊園地で遊んでいたいって口かい?」
どういうこと? と、主人公が尋ねると、お前さんが遊園地で遊ぶためには遊園地のスタッフは世界最後の日に働かなくてはいけないということを失念しているだろうと指摘。確かにお前さんは寒い玄関まで呼び出されたかもしれないが、電報を持ってきた郵便配達の人は毎晩寒い夜道を歩かされてるんだよと。恐らく犯人はその郵便配達夫に恨みを持つ人物、手ひどく振られるかどうかしたんじゃないのかなというのが猫丸先輩の推測なのです。
なるほど、事象だけ見ると奇妙奇天烈な事件も見方をちょっと変えれば不思議でもなんでもないという上手な謎の構成に目から鱗が落ちる思いがしました。

別の作品では若い映画監督がデビュー作を映画館に観に行ったところで謎が生まれます。すぐそばの席に若い娘さんが座っていて結構かわいいのでちょっと気になる。やがて映画はラストシーンを迎えてエンドロールに。真摯な反戦映画のラストに映し出されるのは世界中で勃発する戦争の悲劇のショット。美しい音楽をバックに、これでもか、これでもかと悲惨な写真がスクリーンに現れます。ふと、件(くだん)の娘さんの方を見遣った監督に戦慄が走ります。
笑っている。それはもう、この世の春と言わんばかりの輝かしい笑顔を彼女は浮かべていたのです。
その綺麗な顔と相反する性格の持ち主なのか? 外面菩薩 内面夜叉? サイコパス? 様々な黒い想いが監督の脳裏をよぎります。
種を明かすと彼女は今流れている音楽の作曲者。自分の曲が初めて映画に起用されたのが嬉しくて、いてもたってもいられなくて映画館に足を運んだのでした。「にしたって、その映像を観て笑うか? とんだ自己中なお嬢さんじゃないか」話を聞いた友人は憤慨します。「いや、そうじゃなかったんだ」と監督が最後の種明かし。客電が点って明るくなると彼女は傍らに置いた白い杖を取って立ち上がったんだと。
映画館は映画を観に来るところ──という常識に我々は縛られています。けど、このシチュエーションならたとえ目が見えなくても映画館に足を運んでもおかしくありません。迫力あるサウンドで流れる自分の音楽を今この映画館にいる人達が聴いてくれている。なんという至福。今日は人生最良の日だ。そう思って彼女が笑みを浮かべたことを責められる人は誰もいないでしょう。

この世界に『絶対』という二文字が付く常識など実はありはしません。ほんの少し条件が整えば常識は簡単に覆ります。それでも、常識に縛られずにはいられない我々は、ずいぶんと不自由な生き方をしているのかもしれませんね。

鎖国

僕が子供の頃は親から漫画を読むのを禁じられていました。それ以外にも「8時だよ全員集合」だとか見てはいけないTV番組というのが決められていました。ドリフは別に興味がなかったけど後に漫画は反動が来ましたね。特に小学校高学年くらいから少女漫画にハマりました。
って、これを読んだ人の中には「男の子で少女漫画というのはちょっと」と思われた方もいらっしゃるのでは? そう思った方は、未知の文化を鎖国してしまう気質をお持ちかもしれないのでご注意あれ。
僕が小学生だった1970年代は俗に24年組と言われた昭和24年生まれの少女漫画家達が活躍した時代だったのです。それまでの可哀そうな境遇の女の子がそれでもけなげに生きるみたいな話や恋愛ベタベタの話とはまるで異質なそれこそ人類の根源を探求したり宇宙を舞台にしたような壮大な物語が次々と世に生み出された頃だったのです。それら作品群に触れて人生観ががらりと変わった人も少なくなかったんじゃないかなと僕は思います。かくいう自分も三原順の「はみだしっ子」などには少なからぬ影響を受けました。

ネットのニュースで「ゲーム禁止」あるいは「アニメ禁止」の教育方針を掲げる家庭が話題になっていました。その方針の是非については個々の家庭によって事情も違うでしょうし、子供さんの気質によってどう育つかも違うと思うのでここでは触れません。が、そういった方針を掲げる親御さんってまず間違いなくゲームやアニメに触れたことがないんだろうなぁと思ってしまいます。少なくともお店でデモ画面を見たとか、テレビをつけてみたらたまたまやっていたアニメをちょっと見たくらいはあるかもしれないけれど、きちんと座ってじっくり見たことはないんじゃないかな。そんなプアな情報量で低俗だの底が浅いだのと決めつけて子供から取り上げているとしたら子供さんは本当にかわいそうです。玉石混交感は否めないけれど名作と呼ばれるものは人の人生そのものを揺るがしかねない力を持っているんですよ。子どもにとって一生の宝物になり得るそういった作品と触れ合うチャンスを奪うのはもはや罪だと思うのです。ま、そういう方針で育てられた子供の方がえてして僕みたいに後で反動が来たりするものですけどね。
過日、ネットの小説投稿スレで「深夜アニメは未だに萌えばっかりで低俗極まりない」なんてコメントが投稿されていて目が点になったばかりなのですが、それに同調する意見も散見されて、このスレの住人は江戸時代の人間かよと思っちゃいました(って、江戸時代にアニメはないけど)。

鎖国というのは何も江戸幕府の政策だけを指す言葉ではないと僕は思います。その気になれば人はいつだって未知の文化との接触を自ら閉ざして鎖国に入ることができます。ご本人が納得ずくでそうなさってる分には僕は何も言いません。けど、改めて言いますがそれを自分の子供にも強いるのは罪だと思います。

ヒット作症候群

東野圭吾はミステリージャンルの人気作家ですが、実はコメディーも結構描いていたりします。彼のコメディー短編連作「×笑小説(×に1文字入ります)」のシリーズ、歪笑小説は作家業の悲哀をネタに笑わせる短編集なのですが、その中で『ヒット作症候群』という言葉が出てきます。
これは、あるジャンル、あるテイストの小説で大ヒットを飛ばした作家がその後の作品でもずっとその一作を引きずってなかなか自分の殻を破ることができなくなる病(やまい)といったほどの意味です。なるほど、これはホントあるあるだなぁと思っちゃいますが、これって、誰が悪いかって読者が悪いよなぁとも思ってしまいます。
たとえば、渥美清が登場する映画を見ると誰もが「あ、寅さんだ」と言います。ピーターフォークが登場するドラマを見ると誰もが「あ、コロンボ」と言います。いや、渥美さんもピーターフォークもそれ以外にも良い作品に出てるんですけどね。
で、この病はご本人もかなり苦しまれるようで、ピーターフォークはイメージが固定化するのを嫌って、一時期コロンボのシリーズを降板したことがありました(それでも、ファンの声が鳴りやまず。食べていかないといけないこともあってカムバックするのですが心中如何だったのでしょうね)。同様に、マイケル・J・フォックスはバック・トゥ・ザ・フューチャーのインパクトが強すぎて、何時まで経っても高校生くらいの若者役を求められたようです。

どんなヒット作であっても、それは独立した一本であり不世出のものであることを読者や観客は知るべきじゃないのかなと僕は思います。ましてや、以降の作風がそのヒット作とは異なったとしても「こんなの××さんの作品じゃない」だの「つまらなくなったな」だのと軽々しく言うべきではないと思うのです。監督であれ俳優であれ、クリエーターは新境地を開こうと苦闘し続けるものです。真のファンであるならばその産物を揶揄するのではなく温かく応援すべきではないでしょうか。宮崎駿監督が未だに「ラピュタは良かった」、「トトロの頃が最高」などと言われるのを見るにつけしみじみそう思います。
逆にクリエーターの側は「黙って俺の新作を見やがれ」みたいに慢心してはいけないと思うんですけどね。例えば小津安二郎は好んで笠智衆を起用しましたが、ある時、彼の友人が「今作の笠君はイマイチだったね」と言ったら、むっとした顔になって「君は笠のことが嫌いなんだね」と返したとか。いや、そこは貴重な意見として拝聴しておきましょうよ。

近頃、あちこちのアニメ監督にスポンサーが「君の名は。みたいな作品を一つ作ってちょうだいよ」と注文を付けるムーブメントがあるそうです。ヒット作症候群もここまでくるともはやギャグですね。ある監督は「じゃあ、新海監督にご依頼ください」と言ったとか。まさしく、その通りだと思いますが、新海監督も嫌がるだろうなぁ
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
↓こちらもよろしく!!
http://diningg2011.web.fc2.com/index.html

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR