もし、無人島に一本だけ映画を持っていくとしたら

ある意味、脳天気な課題です。映画を持っていく前に水とかマッチとか持っていくものあるでしょうって言われそう。ま、そこは衣食住は保証されていて娯楽が全くない島と想像して下さい。
好きな映画にも二種類あると僕は思っています。すっごく面白かったんだけど、一回見たらもういいやって思うものと、何回観ても飽きなくて何回観ても新しい発見があるもの。以前、映画のランキング番組で関根勤がブルース・リーの燃えよドラゴンを三十何回観たとか言ってましたが、誰にでもそんな一本はあると思うのです。昔で言えば、VHSのテープが擦り切れるまで観てしまったお気に入りの一本みたいな。
僕にも何作かそういう映画があります。すぐに思いつくのは「ルパン三世カリオストロの城」。もう何回見たかもわかりません。ただ、セリフを全部空で言えるくらいには観てます。同じ宮崎駿作品ならトトロは何度も観てるかな。ただ、これは僕が二人の娘持ちだということが大きな理由で、娘達がエンドレスで観たがったのでそれに付き合ってたという一面があります
時たま思い出してはむしょうに観たくなる作品にアイヴァン・ライトマン監督の「デーヴ」があります。主演はケビン・クライン。彼は大統領のモノマネを副業にしている職業紹介屋さんなのですが、ある時、大統領の影武者にスカウトされるという話です。ところが、裏で愛人と密会していた大統領がぶっ倒れてしまってなし崩しに続投。政治とは無縁の庶民の目線で政治を変えていくという爽快なお話です。話は凄くシンプルなのですが何度観ても飽きません。
こうやってつらつらと書いてくると、飽きの来ない映画の本質ってなんだろうって考えてしまいます。ジャンル──ではないと思うんですよね。ミステリーものは犯人がわかったらそれでもう観ないだろうなんて思われがちですが、市川崑の横溝正史ものなんかは何度も観ています。恐らく僕の場合は良質のドラマとして仕上がっているかどうかじゃないかな。ミステリーでも抱腹絶倒のコメディーでも手に汗握るアクションでも派手な場面で目を惹きつけるだけでドラマ性の薄いものは一回観て「あー、おもしろかった」で終わってしまいます。ひどい時は館を出る頃には登場人物の名前さえ忘れていたりする。逆にきちんとドラマとして仕上がっているものは結末がわかっていてもまた観てみたくなる──そんな気がします。

で、無人島に何を持って行きたいかという話ですが。……、両手でも足りなくて1本に絞るのはとてもとても無理な相談です。
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今日探偵に逢いに行く

普通こういうブログは後から書くものだとは思うのですが、敢えて先に書いちゃうあたり天邪鬼だよなぁ。
大泉洋主演の『探偵はBarにいる』の第三弾が一昨日から公開されたのでさっそく観に行ってきます。原作は東直己の「ススキノの便利屋」シリーズ。シリーズタイトルから伺えるように原作では主人公は探偵の看板を上げているわけではありません。いつも屯しているススキノの街で何かと頼りにされてその都度、厄介事に巻き込まれていくというスタイル。けど、映画では探偵と公言していますね。原作は全部読んでしまっているのですが、今回は映画オリジナルストーリーということで楽しみにしています。ただ、イントロダクションを読むと全くのオリジナルでもないみたいで女子大生が失踪する経緯はシリーズ第一作の「探偵はBarにいる」をモチーフにしてるように見受けられるんですけどね。
本シリーズの一作目の公開は2011年。神戸のハーバーランドの館で観ました。予備知識なしでふらっと入って観たのですがべらぼうにできが良かった。昔、松田優作が演っていた「探偵物語」(薬師丸ひろ子と共演した映画じゃない方)や「あぶない刑事」、柴田恭兵主演の「べっぴんの町」を彷彿とさせるハードボイルド・テイストが心地よい。公開とほぼ同時に2作目制作が決定したのも頷ける仕上がりでした。その分、2作目には不安があって、だいたいこういうシリーズ物って失速しちゃうんだよなぁと斜に構えて待ち望んでいました。
2作目の公開は2年後の2013年。横浜の館で観ました。忌憚なく言わせてもらうと予想通り、1作めとは比ぶべくもなしという出来。興行収入こそ大コケにはならなかったみたいですが、そこは1作めの七光というやつでしょう。ま、原作の「探偵はひとりぼっち」もラストが呆気なさ過ぎて賛否両論分かれるところ。映画にするにはチョイスした素材も厳しかったかなとは思ったのですが。
なので、3作目制作決定の報を耳にした時も、「これはもしや立ち消えになるパターンじゃないかな」と考えていたのです。案の定、間もなくクランクインなんて噂は立つけどその都度、消滅。やっぱりなぁと思っていたので、4年も経った今年、ホントに公開されると聞いて驚いています

昨夜、予習を兼ねて1、2を観返しました。で、ちょっと驚いているのは観直してみると2は思ったほど悪くない。お約束というだけで脈絡なく出してきたと思っていたアクションシーンもきちんと練られた構成の俎上にあって収まるべきところに収まっている。この4年で自分の目が肥えたのか、あるいは当時よほど色眼鏡で斜に構えた鑑賞をしてしまっていたのか(だとしたら反省)。とまれ、エンジンはしっかり温まりました。
開演ベルは9時20分の早朝回。どうやら、これがシリーズ最終作になる予感もしているので気合を入れて観てまいります。

錯覚を利用した演出

以前、「ミステリーの書き方」という本を読んだことがあります。
多数の人気作家によるミステリーを書くヒントや作法を綴った指南書なのですが、その中で東野圭吾さんが書かれていた日常生活に向ける視点が面白かったです。日々の生活を送る中で「お、これはネタになるんじゃないか」と思えるものを探す目線を持ちましょうということなのですが、具体例としてこんなエピソードを挙げておられました。
評判になっていた映画「タイタニック」をレンタルして鑑賞した。あるシーンでヒロインが一つ前のシーンと微妙に体型が違うことが気になった。どうしてだろうと考えていて、「ああ、撮影した時期が違うんだ」と気づいた。お、これってネタになるんじゃね? とメモを取ったというものです。
映画の撮影期間が何ヶ月にも及ぶことも必ずしも一つ前のシーンの続きで撮っているわけでなくシーン毎にバラバラに撮影されていることも周知の事実です。けれど、実際に鑑賞する時は物語の時系列に情報が提供されるので観客はひと続きの場面として錯覚しちゃうっていうのはありそうな話ですよね。うん、ミステリーに使えるかも。
この錯覚を逆手に取った演出の例を僕は一つ知っています。大林宣彦監督の「ふたり」。
ヒロインの石田ひかりは中学三年生から高校生までを演じるのですが、中高一貫校らしく最後まで同じ制服なんですよね。最初に登場した時は制服が少しだぶついている感じがしていてまだ板についていない印象。それがラストシーンではぴったり合っていて、ああお姉さんになったんだなと伺えます。
けど、冷静に考えると2年以上かけて石田ひかりが大きくなるのに合わせて撮影なんてことはあり得ませんから、あれはきっと制服を2着用意したのでしょう。最初のシーンはサイズが大きめの制服を。ラストシーンではぴったりサイズの制服を。物語を追って彼女の成長を見守ってきた観客は服が変わったとは思わず彼女が成長したのだと錯覚を覚えるという仕掛けです。
映画ならではのトリックですが、こういうのはまだまだありそう。今ちょっと考えているのはサイレント映画ならではのトリックってないかしらん。というものです。すぐに思いつくのは音声がないことを活かしたトリックですけど目のこえた読者にはすぐばれそう。音声がないことはミスリードに使いながら実はモノクロであることがトリックになっていたとかできないかしらん。

マグニフィセントセブンを観て来たよ

マグニフィセントセブン
久々の洋画鑑賞。「マグニフィセントセブン」を観てきました。
リメイクなのですがタイトルを聞いてもピンとこない方もいらっしゃるかも。オリジナル作品の邦題は「荒野の七人」。こっちの方が通りが良い気がするんですけど、今作は英題そのままらしいです。オリジナルが作られたのは今から57年前の1960年。ユル・ブリンナーが主演でした。タイトルから想像が付くかもしれませんがそもそも「荒野の七人」自体、黒澤明の「七人の侍」のリメイクなのですが、アメリカで大ヒットを飛ばし、その後続編が2回作られています。余談ですが、「荒野の七人」は年末に必ずと言ってTVでやっていたらしく、再放送回数の記録を持ってるそうですよ。
で、今作。年末にネットで予告を見かけてからずっと気になっていました。かなり出来が良いらしくてちょっくら見てみるかと決めた次第。
結論から言うと、「荒野の七人」を初代「ゴジラ」に例えればこっちは「シン・ゴジラ」と思えばだいたい合ってます。「荒野の七人」は「七人の侍」のオマージュ満載で人間ドラマもかなり重視していたのですが、今作は迫りくる強敵と如何にして戦うかに重点を置いていてストーリーはごくごくシンプルな作りになっていました。その分、アクションシーンの迫力は「荒野の七人」を凌駕する勢いでしたね。7人のガンマンが個性派ぞろいなのは同じなのですが、前作が何気にジェントルマン揃いだったのに対して、人を殺すことを躊躇わないダークさとで良い意味で下品さを兼ね備えた男達でした。アウトローとしてはこっちの方がリアリティがあったかな。
前作ファンからすれば賛否両論分かれるところだと思うのですが、シン・ゴジラを叩きまくったオールドファンもいましたし、致し方ないことかな。ただ、僕はこれはこれでありだと思いました。前作と優劣を競おうという気負いがなく(オマージュ的なシーンは皆無です)、ただ面白いものを作ろうと取り組んだスタッフに好感を持ちました。

演技の本質

わりと最近までアニメーション作品において演技は声優さんがやるものだと思っていました。
けど、実は声優さん以上に演技が必要になるものがあったのです。それは、絵。登場人物のちょっとした仕草や表情の変化で彼(彼女)の心境を的確に伝えなければいくら声で演技したって嘘くさくなってしまうことに気付きました。当り前のことだけど目から鱗だったなぁ。
お芝居における演技の役割ってなんでしょう? ストーリーを伝えるだけであれば台本を朗読すれば事足ります。あるいは、観客に台本を配って読んでもらえば下手な棒読み朗読より的確に伝わるかもしれません。けれど、台本はあくまでセリフが書かれた紙に過ぎません。そのセリフを口にする登場人物の感情を観客に伝え、共感させるために演技は必要なのです。ありきたりな表現ですが舞台と客席の一体化を実現するためのツールが演技なわけですね。
ですので、役者は登場人物の喜怒哀楽を的確に観客に伝える任務を負います。けど、これがなかなかに難しい。例えば「泣く」という演技からすぐに連想するのは悲しみの感情表現ですが、必ずしもそうではありません。人は嬉しくても泣きます。驚いても泣きます。涙をぼろぼろこぼしながら怒る時もあります。更に複数の感情がない混ざる時もあります。役者は登場人物の感情に合わせて「泣き分け」をしなくちゃならないのです。
一口に「気持ちを込める」と言いますが、力めば良いわけでもありません。むしろ、それは駆け出しの役者がやりがちなミスで観客をシラケさせる危険が高い演技法だと思います。どんなに激しい演技をしていても演者は常に冷静に冷徹に一人の観客として自分を観察している必要があると僕は思います。達者な方になると迫真の演技をしながら頭の中で「今日の夕飯は何にしようかな」と考えてたりする人もいるというエピソードを聞いたことがあります。彼はその直後、我に返って、今がどの場面で次のセリフが何か全く分からず頭の中が真っ白になったそうなのですが
19世紀までの演技法の主流はシェークスピアの時代をまだ引きずっていて、××な感情は〇〇と表現するという様式的なものだったと聞きます。が、20世紀になってスタニスラフスキーが提唱するメソッド演技法が台頭して来ます。それは一口で言うと「いやいや、日常生活ではそんな動作や表情はしないでしょ。もっと自然な演技をしようよ」と言ったほどのもので、芝居の場が舞台劇から俳優のアップが多用される映画やTVドラマに移行するにつれもてはやされるようになりました。舞台では客席まで距離がありますから、ある程度オーバーに演じないと伝わりにくい表情も映画ではわざとらしくなっていまうという弊害がもあったんでしょうね。
登場人物の感情という目に見えないものを具現化させて観客に共感させる──それが演技の本質です。役者一人一人は思い思いに演じたとしても最終的には芝居として伝えるべきテーマに反すれば演出からダメ出しを喰らいます。一本の芝居(=物語)を通して観客に伝えたいことという大きな絵があって、役者の演技はその絵を構成するジグソーパズルのピースでなければなりません。自分の演技をごり押しして無理矢理ピースをはめ込むのではなく、そのピースの形を見極めて自分の演技のカタチをそれに合わせる。的確な感情表現に加えて役者はそういった任務も負ってるんだと僕は思います。
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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