錯覚を利用した演出

以前、「ミステリーの書き方」という本を読んだことがあります。
多数の人気作家によるミステリーを書くヒントや作法を綴った指南書なのですが、その中で東野圭吾さんが書かれていた日常生活に向ける視点が面白かったです。日々の生活を送る中で「お、これはネタになるんじゃないか」と思えるものを探す目線を持ちましょうということなのですが、具体例としてこんなエピソードを挙げておられました。
評判になっていた映画「タイタニック」をレンタルして鑑賞した。あるシーンでヒロインが一つ前のシーンと微妙に体型が違うことが気になった。どうしてだろうと考えていて、「ああ、撮影した時期が違うんだ」と気づいた。お、これってネタになるんじゃね? とメモを取ったというものです。
映画の撮影期間が何ヶ月にも及ぶことも必ずしも一つ前のシーンの続きで撮っているわけでなくシーン毎にバラバラに撮影されていることも周知の事実です。けれど、実際に鑑賞する時は物語の時系列に情報が提供されるので観客はひと続きの場面として錯覚しちゃうっていうのはありそうな話ですよね。うん、ミステリーに使えるかも。
この錯覚を逆手に取った演出の例を僕は一つ知っています。大林宣彦監督の「ふたり」。
ヒロインの石田ひかりは中学三年生から高校生までを演じるのですが、中高一貫校らしく最後まで同じ制服なんですよね。最初に登場した時は制服が少しだぶついている感じがしていてまだ板についていない印象。それがラストシーンではぴったり合っていて、ああお姉さんになったんだなと伺えます。
けど、冷静に考えると2年以上かけて石田ひかりが大きくなるのに合わせて撮影なんてことはあり得ませんから、あれはきっと制服を2着用意したのでしょう。最初のシーンはサイズが大きめの制服を。ラストシーンではぴったりサイズの制服を。物語を追って彼女の成長を見守ってきた観客は服が変わったとは思わず彼女が成長したのだと錯覚を覚えるという仕掛けです。
映画ならではのトリックですが、こういうのはまだまだありそう。今ちょっと考えているのはサイレント映画ならではのトリックってないかしらん。というものです。すぐに思いつくのは音声がないことを活かしたトリックですけど目のこえた読者にはすぐばれそう。音声がないことはミスリードに使いながら実はモノクロであることがトリックになっていたとかできないかしらん。
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マグニフィセントセブンを観て来たよ

マグニフィセントセブン
久々の洋画鑑賞。「マグニフィセントセブン」を観てきました。
リメイクなのですがタイトルを聞いてもピンとこない方もいらっしゃるかも。オリジナル作品の邦題は「荒野の七人」。こっちの方が通りが良い気がするんですけど、今作は英題そのままらしいです。オリジナルが作られたのは今から57年前の1960年。ユル・ブリンナーが主演でした。タイトルから想像が付くかもしれませんがそもそも「荒野の七人」自体、黒澤明の「七人の侍」のリメイクなのですが、アメリカで大ヒットを飛ばし、その後続編が2回作られています。余談ですが、「荒野の七人」は年末に必ずと言ってTVでやっていたらしく、再放送回数の記録を持ってるそうですよ。
で、今作。年末にネットで予告を見かけてからずっと気になっていました。かなり出来が良いらしくてちょっくら見てみるかと決めた次第。
結論から言うと、「荒野の七人」を初代「ゴジラ」に例えればこっちは「シン・ゴジラ」と思えばだいたい合ってます。「荒野の七人」は「七人の侍」のオマージュ満載で人間ドラマもかなり重視していたのですが、今作は迫りくる強敵と如何にして戦うかに重点を置いていてストーリーはごくごくシンプルな作りになっていました。その分、アクションシーンの迫力は「荒野の七人」を凌駕する勢いでしたね。7人のガンマンが個性派ぞろいなのは同じなのですが、前作が何気にジェントルマン揃いだったのに対して、人を殺すことを躊躇わないダークさとで良い意味で下品さを兼ね備えた男達でした。アウトローとしてはこっちの方がリアリティがあったかな。
前作ファンからすれば賛否両論分かれるところだと思うのですが、シン・ゴジラを叩きまくったオールドファンもいましたし、致し方ないことかな。ただ、僕はこれはこれでありだと思いました。前作と優劣を競おうという気負いがなく(オマージュ的なシーンは皆無です)、ただ面白いものを作ろうと取り組んだスタッフに好感を持ちました。

演技の本質

わりと最近までアニメーション作品において演技は声優さんがやるものだと思っていました。
けど、実は声優さん以上に演技が必要になるものがあったのです。それは、絵。登場人物のちょっとした仕草や表情の変化で彼(彼女)の心境を的確に伝えなければいくら声で演技したって嘘くさくなってしまうことに気付きました。当り前のことだけど目から鱗だったなぁ。
お芝居における演技の役割ってなんでしょう? ストーリーを伝えるだけであれば台本を朗読すれば事足ります。あるいは、観客に台本を配って読んでもらえば下手な棒読み朗読より的確に伝わるかもしれません。けれど、台本はあくまでセリフが書かれた紙に過ぎません。そのセリフを口にする登場人物の感情を観客に伝え、共感させるために演技は必要なのです。ありきたりな表現ですが舞台と客席の一体化を実現するためのツールが演技なわけですね。
ですので、役者は登場人物の喜怒哀楽を的確に観客に伝える任務を負います。けど、これがなかなかに難しい。例えば「泣く」という演技からすぐに連想するのは悲しみの感情表現ですが、必ずしもそうではありません。人は嬉しくても泣きます。驚いても泣きます。涙をぼろぼろこぼしながら怒る時もあります。更に複数の感情がない混ざる時もあります。役者は登場人物の感情に合わせて「泣き分け」をしなくちゃならないのです。
一口に「気持ちを込める」と言いますが、力めば良いわけでもありません。むしろ、それは駆け出しの役者がやりがちなミスで観客をシラケさせる危険が高い演技法だと思います。どんなに激しい演技をしていても演者は常に冷静に冷徹に一人の観客として自分を観察している必要があると僕は思います。達者な方になると迫真の演技をしながら頭の中で「今日の夕飯は何にしようかな」と考えてたりする人もいるというエピソードを聞いたことがあります。彼はその直後、我に返って、今がどの場面で次のセリフが何か全く分からず頭の中が真っ白になったそうなのですが
19世紀までの演技法の主流はシェークスピアの時代をまだ引きずっていて、××な感情は〇〇と表現するという様式的なものだったと聞きます。が、20世紀になってスタニスラフスキーが提唱するメソッド演技法が台頭して来ます。それは一口で言うと「いやいや、日常生活ではそんな動作や表情はしないでしょ。もっと自然な演技をしようよ」と言ったほどのもので、芝居の場が舞台劇から俳優のアップが多用される映画やTVドラマに移行するにつれもてはやされるようになりました。舞台では客席まで距離がありますから、ある程度オーバーに演じないと伝わりにくい表情も映画ではわざとらしくなっていまうという弊害がもあったんでしょうね。
登場人物の感情という目に見えないものを具現化させて観客に共感させる──それが演技の本質です。役者一人一人は思い思いに演じたとしても最終的には芝居として伝えるべきテーマに反すれば演出からダメ出しを喰らいます。一本の芝居(=物語)を通して観客に伝えたいことという大きな絵があって、役者の演技はその絵を構成するジグソーパズルのピースでなければなりません。自分の演技をごり押しして無理矢理ピースをはめ込むのではなく、そのピースの形を見極めて自分の演技のカタチをそれに合わせる。的確な感情表現に加えて役者はそういった任務も負ってるんだと僕は思います。

シン・ゴジラ

前から観ようと思いながらなんとなく行きそびれていた「シン・ゴジラ」を観てきました。
有楽町のスバル座。来週で放映終了じゃん。危なかった。
一言で感想をいうと「リアリティのあるド迫力」ってとこでしょうか。
特に音が凄いのです。ホントにその重量物が落下する、ぶつかるといったような腹に響く音を再現していました。政府の対応も多少の笑いを織り交ぜながらもリアリティに拘った観があり、多くの人が言うように「大人向けの映画」に仕上がっていました。
今年の興行成績ランキング3位。1位は言わずと知れた「君の名は。」です。惜しかったですね。公開が別の年なら間違いなく話題総ざらえだった気がします。(ちなみに、2位はスターウォーズシリーズだよ)
あっという間の2時間。楽しませていただきました。

言ってくれなきゃわからない……のか?

2013年の夏公開作品でしたので、はや3年が過ぎようとしています。宮崎駿監督引退作品『風立ちぬ』。公開早々に映画館に足を運びました。ラストシーンは気が付くと滂沱の涙が止まりませんでした。エンジニアと言う職業を選んだ人間の一人として主人公に強い共感を覚えたことが涙の大きな理由だったのかもしれません。三十年近くもやっていれば作中で描かれたような狂気を孕んだ修羅場を何度も経験しています。普通の生活も家族も顧みず、睡眠すら惜しんで仕事に没頭する日々。それでも、過酷な納期を間に合わせた時の達成感はやりおおせた人間にしかわからないものです。スクリーンの中の次郎はまさに僕でした。
が、反面、僕の娘達がこの作品を見て感動するだろうか? という点については大いに懐疑的な気分になりました。次郎はその時、何を思ったのか? なぜそのように行動したのか? そういった主人公の心の動きや行動原理の説明がギリギリまでそぎ落とされていたのです。まるで小説のように「行間を読ませる」ことをこれほどまでに求める映像作品を僕は観たことがありません。「そんなこと、いちいち説明しなくても察することができるでしょ」不敵に微笑む巨匠の姿が目に浮かぶようでした。126分の長尺。一時も気を抜かず集中力の持続を強いられる作品。エンドロールを眺めながら心地よい放心状態に陥っておりました。
当初、ネットでの評価は酷評に次ぐ酷評でした。「わけがわからない作品」、「自己満足」、「ラピュタやトトロは良かったのに」などなど。僕に言わせればラピュタやトトロは名作だけどそれと同次元で語るべき作品じゃないと思うのですよ。「風立ちぬ」は限りなく文芸作品に近い表現手法を取っていて、ただ口を開けてぼーっと眺めていれば勝手に状況説明してもらえてストーリーが流れ込んでくるようなものではありません。能動的に作品にのめり込んでいかなければメッセージを受け取ることができない、ある種実験的な意欲作だと思います。最後の最後になってなお、従来のアニメ映画の規格で計れないスタイルの作品を打ち出した巨匠に敬意を表します。
反面、「わからない」とか「つまらない」で切って捨てている人が少し気の毒になります。きっと、映画でもドラマでも全部説明してもらえる事に慣れきっていて、想像力を働かせるという訓練ができてないんだろうなと想像してしまいます。だから、敢えて説明を削いでいるのに「説明してくれなきゃわかるわけがない」と怒るんでしょうね。でもね、説明してしまったら解釈はその一通りだけになっちゃうんですよ。観客一人一人が歩いてきた人生は一人一人違っているわけだから、その一通りの解釈に共感できる人もいれば共感できない人もいるわけです。でも、説明を削げば一人一人が自分の人生に照らして解釈できるわけで自分が一番納得のいく答えを掴むことができるじゃないですか。

って、ここまで言わなきゃわからないのかしらん? 酷評している人はそこに書かれている通り「そんなの言ってくれなきゃわからない」で思考が止まっているようですが、もう少し読書の経験を積んだ方が良いと思いますよと思ってしまいます。
あれから三年、少しずつですけど高評価のコメントを散見するようになりました。あと十年、二十年、公開当時あの作品を観て酷評した若い世代が老境にかかる頃にはこの作品の評価ががらりと変わっていることを僕は少し夢見ています。
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
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