リピートを鑑賞

乾くるみ原作のドラマ『リピート』の第一話を観ました。以下、ネタバレを含みますのでご用心を。
年末に番宣をやっていて、面白そうだったのでチェックしておりました。乾くるみは過去に何作か読んだけども可もなく不可もない作家という印象だったのですが、イニシエーション・ラブにハマってしまいそれ以来のファンです。ドラマ視聴にあたりお正月には原作を予習しておきました(僕は小説を先に読んでおく派なのだ)。
ホームページなどの事前情報からもかなり小説と設定を変えてきていますね。変更点は大きく2つ。一つはキャラクター設定、もう一つはストーリー展開の配分。
キャラクター設定については主要人物が10人から9人に変更されています。原作はクリスティーの「そして誰もいなくなった」に拘って10人となっていましたが展開上9人でも問題はありません。ただ、削られた一人がある役割を担ったキーパーソンだったのでちょっと意外。確かに彼がいるとストーリーが複雑化するし全6話に収めるため単純化を目指したのかなと理解。次に原作は男9、女1という男女比に対して男6、女3。これはドラマ的な(絵的な)配慮でしょう。ただ、増えた女性に手塚理美と安達祐実というベテラン個性派の女優を持ってきたあたりスタッフの気合を感じます(演出的には手塚は悲劇性の強調、安達はクライマックスの謎解きの切れ味要員かな)。そして登場人物のキャラ設定も少しいじられていますね。老年の会社社長が借金苦のサラリーマンに、中年サラリーマンが専業主婦に、ベンチャー企業の社長がカフェのオーナーにという感じ。総じてキャラクター設定の変更は原作で感じた「いらない人」感、「誰だっけ」感を廃し、よりはっきりとしたキャラ立て(=役割付け)を目指していると見られそれに成功しているように感じます。その上で、主人公を男性から女性(原作の紅一点)に変えたところも面白い。この方が男性ファンも食い付くし、女性視聴者の共感も得られ易いという読みかな。
ストーリー展開の配分は原作でも賛否両論が分かれたところです。この物語はざっくりいうと特定の過去日に戻ってやり直そうとする人々の群像劇という一面があるのですが(ミステリーなのでもう一面あります)、原作は過去に戻るまでが半分、過去に戻ってからが半分という配分なのです。僕はさほど思わなかったのですが、「戻るまでが長すぎる」という意見をネットで散見しました。で、ドラマでは第一話の終盤でいきなり過去に戻ってしまう。つまり、全6話中、1:5の配分としスピード重視を狙ってきましたね。ま、3話も「過去に戻るぞ、戻るぞ、戻るぞ」と言いつつ戻らなかったら今日日の視聴者は付いて来ないでしょう。
1話を観る限りテンポもよく、情報もスムースに入ってきて良い感じ。加えて適度の緊張感が途切れずラストの引きも良く、サスペン性も及第。良い滑り出しだと思います。

つくづく、ドラマ制作のチーム力って凄いなとあらためて思いました。原作はデビューから6年目の作品。作者自身まだストーリー構築にはこなれていない感もあり、余剰が目立つんですよね(いらないキャラクター、いらないプロットなど)。けど、作家は個人プレーですからそれを手直ししてくれる人がいません(編集はアドバイスしてくれるでしょうし、校閲は文章の直しは手伝ってくれるでしょうけど)。今回その原作を俎上に載せて、「本当に見せるべきものは何か?」を複数のプロたちが徹底的に議論し合い骨子を残してほとんど別物と言っていいほど新たな物語を再構築した感があります。
残り5話も視聴させて頂きながら、プロの目で見てあの物語のどこをどう直すべきだったのかを勉強させてもらおうと思います。
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虚実混同

かつて、おしんという伝説的な高視聴率ドラマが放送されていた頃、おしんの姑役だった高森和子さんは日常生活で苦労されたそうです。ドラマの中でおしんを苛め抜く姑というキャラの印象が強烈過ぎたみたいで、街で買い物をしていても他の客から冷たい目を向けられるのは日常茶飯、中には面と向かって説教を始める人もいたとか。いやいや、役がそういう役なだけで、高森和子さんがそういう性格なわけじゃないからと擁護してあげたくなりますよね。おしんは海外でも大反響を呼んだようで、カナダでは放送局に「これをおしんちゃんに渡して、生活の足しにしてもらって下さい」という手紙を添えて、お金や食べ物が送られて来たなんて嘘みたいなホントの話があったそうです。いやいやいや、彼女は架空の人物なので。
良くできたドラマ、迫真の演技に時に我々はそれが虚構であることを忘れてしまっていることがあります。夢中で応援したり、一緒に泣いたり、笑ったり。かくいう僕もそういう傾向は強いかな。役者の名前はなかなか覚えられないクセに顔と役名はすぐに結びつくという。
で、ふと我に返ってリアルとして観てみるとドラマの中の立場とリアルでの立場が逆転してることがあったりするのです。例えばこんな感じ。
高校生の主人公男子の成長物語の冒頭、クラスで気になっている女子に勇気を奮って告白するもこっぴごく振られるなんてシーン。成長物語では最初主人公がどれだけダメダメかを観客に分かり易く伝える必要がありますのでこれなんかはありがちな演出だったりします。で、ドラマの中では主人公の立ち位置はクラスのカーストの底辺、根は暗いし、スポーツも勉強もダメというしょぼいキャラです。一方、彼を振った女子はクラスの中の人気者、スポーツも勉強も得意で狙っている男子も多いという役どころ──僕なんかはそういう設定がリアルとしてすっと受け入れてしまうんですよね。
でも、監督の「カット」が入った途端に、主人公のダメダメ男子は多くのスタッフから「おつかれさまです」って言われたり、付き人がいそいそと飲み物とタオルを持って駆けつけたりします。一方、彼を振ったハイスペック女子は「失礼します」と言ってスタジオを去っていく、そう彼女の出番はここまで。この後の主人公を励ます美味しい役どころはメインヒロインが持って行ってしまうのです。
そんなことに気付いてしまうと、今度はついつい「あ、今この人けちょんけちょんに叱られてるけど、芸歴は先輩だからあとで楽屋で逆の展開やってるんじゃないかな」とか変な見方をしたりします。ま、それもドラマの一つの楽しみ方なのでしょうけど、やっぱり観ている間は物語の世界に没頭したいな

電車男の幻想と現実

久しぶりに懐かしいDVDを引っ張り出して来て鑑賞。
『ドラマ版 電車男』です。
初めて見た時は嫁や娘達と一緒で、娘達は大笑いしてましたっけ。嫁はクールな人なので「こんなこと現実にあるわけがない」と端から否定的。いや、実際あの書き込みがどこまで本当だったのかはわからないけど電車男とエルメスの進展が注目を浴びて2ちゃんねるが大いに盛り上がったのは事実なんですよ。
改めて観てみてもよくできているドラマです。笑わせどこ、泣かせどこのツボをきちんと押さえていて鑑賞者をぐいぐい牽引していく強い力を感じます。その力の源は主人公の電車男とエルメスではなく寧ろ、彼らを応援する脇役のネットの住民たちなんですよね。このドラマは情けないヲタク君がとびっきりの美人と恋人同士になるサクセスストーリーではなく、彼を励ましたり叱ったりしながら自分自身も成長していくネットの住民たちによる群像劇と捉える方が正しい気が僕はします。よく高橋留美子の名作と比較されて「平成のめぞん一刻」と呼ばれたりするのもうなづけます。もし「めぞん一刻」に一之瀬さん、四谷さん、あけみさんが登場しなかったら、ひどくつまらない話になっていたと思うのです(単に五代、三鷹、響子さんの三角関係ラブストーリーですよね)。電車男もネットの住民たちのさまざまなつぶやきが鑑賞者を引っ張っていく牽引力となっていて、いつしか鑑賞者自身までネットの住民の一人になって電車男を応援している気分になれるのです。

なぜ、自分はあのドラマに出てくるネットの住民たちに惹かれるのか考えてみました。たどり着いた結論はちょっと意外なのですが「彼らが無責任だから」というものです。誤解を生みそうな単語を使ってしまいましたがここでいう無責任はネガティブな意味ではなく電車男と彼らが赤の他人であり、彼らは電車男に対してなんら責任を負うことがないというほどの意味です。
責任を負わないが故の揶揄や叱責、責任を負っているわけではないのにかけられる叱咤激励。赤の他人であるにもかかわらず、まるでわがことのようにお節介を焼く彼らに感動してるんだなぁと気付きました。
更に突き詰めて、なぜ彼らはわがことのようにお節介を焼いたのでだろうと考えてみました。それは彼ら一人一人も様々な屈託を抱えていてそんな屈託から抜け出したいと日々考えていたからだと思います。電車男の恋は彼らにとって一つの幻想でした。自分以上にヘタレなヲタクがとびっきりの美人に恋をした。もし、この恋が叶ったらどうしようもない日常から変わっていけることもあるんだと信じられるかもしれない。そんな幻想でした。だから最初はからかい半分、遊び半分だった彼らが電車とエルメスの距離が少しずつ少しずつ縮まるにつれ真剣になっていったのです。最初は掲示板の中の幻想に過ぎなかった電車男の恋がどんどん現実味を帯びていきとうとう本当に結ばれた。もしかして、自分も変われるんじゃないのか? 電車男の魅力とは幻想を現実のものにしたいと願う多くの人の夢なのかもしれません。

二夜連続「オリエント急行殺人事件」

三谷幸喜の「オリエント急行殺人事件」二夜連続のお正月ドラマ。ようやく観ました。
一夜目は原作に限りなく忠実にということでしたが、原作と言うよりは映画版の見事な再現でした。カメラアングルからキャラクター設定まで凝りに凝った再現度。特にポワロ役の野村萬斎さんのあの仕草としゃべりはお見事というしかありません。

が、……。ネットのレビューを見ると、野村萬斎の演技はかなり不評だったみたい。
スーシェの猿まねとまで書かれていてをいをいと思いました。
あれはアルバート・フィーニーと田中明夫のオマージュでしょ。スーシェと一緒にするんじゃないよ、にわかか?

結局、自分的には大満足の第一夜だったのですが、公平な目で見ると映画版に対する遊び心満載にするあまり未見の人が楽しみづらい(なんでそういう演出なのか、なんでそういう演技なのかわからない)作りになっていたのかもしれません。
リメイク作品を評する時、「前作もそうだったから」と言うのは卑怯でしょう。演出の責任は今作のスタッフと役者が背負うべきです。見方を変えると中学の頃にワクワクしながら観た映画版の演出や演技も今の時代ではウケ難いのかもと思い至りちょっと寂しい思いをしました。

二夜目は世界初。犯人視点からのドラマ。って、てっきり被害者の佐藤浩市視点かとなぜか思い込んでしまいました。誘拐犯の方じゃないって
こちらは三谷ワールド全開。重苦しい話なのに適度にコミカルであっというまの3時間でした。普通観客は舞台(寝台車)の上にいる役者のお芝居しか観ることができないのに楽屋裏(寝台車に乗り込むまでのドラマ)をたっぷり見せてもらって大満足です。

自分的にはクリスティの中でも一、二を争うくらい好きな作品。こういう形で再現してくれてありがとうと申します。お薦めですよ。

信長のシェフ

遅まきながら『信長のシェフ』を鑑賞。
幕末に脳外科医がタイムスリップして、そこで奇跡のような救命を施す『仁Jin』というドラマがありましたが、こちらはフレンチレストランのシェフが戦国時代にタイムスリップして誰も見たことがないような料理を作って活躍するというものであります。って、どんだけ頻繁に起きてるんだよ>タイムスリップ
医学は門外漢なので素直に「おぉ、すげぇ」とか思いながら観ていましたが、料理は自分がやるからか「ええっ、ありえねぇ」とかツッコミながら観ました。総じて言うと調理時間の矛盾が一番ツッコミどころが多かったかな。原理的には確かにその方法でその料理はできる。でも、そんな短時間ではできねぇよ~とか。その人数分の料理をたった一人で作るのは無理とか……。
特に最終回の菓子対決が謎でしたね。タルトを作ろうとするのですが、なんと主人公は帝の御前で生地を捏ねるところから始めようとするんですよね。パートシュクレの生地は捏ねてから気温の低いところで半日くらい寝かせる必要があります。更に焼いた後一晩置いた方がバターが回って美味しくなります。なので、生地を焼いて持ち込んだ敵方の手法が正解。これは、作者がタルトの焼き方を知らないのか、敢えて主人公はフレンチのシェフなのでパティシエの領域の知識に疎いという設定なのかどっちだろうと解釈に迷いました。

とか、文句を言ってる割には最後まで楽しく見てしまったのは、テンポの良い展開や発想の斬新さ(次々と現代人なら誰もが知っている料理が登場するのですが、戦国時代の人が食べたらびっくりするよなぁと思いながらニヤニヤしたりしました)、底流に流れる「食べることは生きること」という明快なテーマなどにしっかり支えられていたからじゃないかと思います。

とまれ、楽しませてもらいました。観終わったばかりなのですが、続編出ないかなとちょっと期待してたりして…………、って今まさにやってる? あ、失礼しました。すっかり世事に疎くなってる
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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