本音をぶつけない

ネットのコラムでこんなのを見つけました。ある男性からの相談。同棲している恋人から結婚の意思を伝えられたので、「君が結婚したいのなら、結婚してあげても良い」と言ったらブチ切れられました。僕は生涯彼女と一緒にいたいと思っているけど、結婚とかそういう縛りはどうでも良い。正直にそれを言っただけなのに彼女の態度はどう思います?
いや、どう思います? と、聞かれれば。あんたはアホかと思いますとしか答えようがないのですが この男性が結婚に対してどういうポリシーを持とうがそれは勝手ですけど。相手が同じポリシーを持っていると無思考で考える(というより信じて疑わないというべきか)のは浅慮も良いところ。ましてや、それをストレートに口に出すのが許されるのは「お前の母ちゃんで・べ・そっ」って言ってられた幼稚園児くらいまでです。つまり、この男性は就学以降全く成長していないんでしょうね。少なくとも人とのコミュニケーションに関しては。
似たような話で職場の後輩が結婚することになって「披露宴に出席して戴けませんでしょうか」と何人かの同僚にお願いして回っていた時のことを思いだします。中の一人(これも僕の後輩)が一言、「うーん、行きたくないから良いや」。…………、なんと申しましょうか。普段の彼の言動から、結婚式なんてただの形骸化したセレモニーと思っている節があったので言動に他意がないことはわかるのですが、ストレートに言ってどうする。そこは無難に「その日はどうしても外せない用事があって」と言うべきでしょと教わらないとそれすらできないんですかね。この後輩はそれ以外でも問題のある言動が重なって職場を辞めていくことになりましたが。

ネットニュースに対するコメントで、「普通××だろ」という言い回しを見かけます。この<普通>って単語はすごく上から目線なニュアンスがあって暗に相手に対して「この常識知らずが」と言ってるようなものだと思うのです。一面識もない相手にそれをぶつけることがどれだけ失礼か発言者はまるで気付いていないようなんですよね。これも「××であることが多いと思うのですが」という言い回しにするのが気遣いってもんだよと教えてやらないと分からないのでしょうか?
人はそれぞれ自分の中に規範と呼ばれる物差しを持っています。その規範は一人一人異なっていて相手が自分と同じ物差しを持っていないと知っていないのは無知か幼稚、あるいはその両方です。ましてや、自分の規範に即して言葉をぶつけるのは暴挙以外の何物でもありません。ぶつけられた相手が十分大人ならやんわりと気遣いをしてその場を収めてくれると思いますがぶつけた相手が気遣いをすることは終にありません。ただ、そういう人は敬遠されていずれ周りに親しい人がいなくなるだけだと思います。本音はストレートにぶつけるものではなく胸に秘めるものと、肝に銘じたいですね。
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縁はありやなしや

お見合いがお流れになった場合、よく「ご縁がなかった」という言い方をします。逆に縁談がまとまると「ご縁があったのですね」なんて言ったりします。良縁、くされ縁、奇妙な縁、私達は遥か昔から人と人の出会いや別れを必然と捉え、「縁」というもののなせる業と考える風習を持っているようです。
けど、非常に無味乾燥な話になっちゃいますが、縁というものを科学的に捉えてしまうと途端に胡散臭くなるんですよね。なぜなら、縁を語る時人は先に結果を見てしまうから。結果を捉えて縁があった、なかったかを判定するからです。科学的思考は原因から結果を予想するものなので思考のプロセスが真逆なのです。縁があるかどうかを判定するのはいつだって結果が出てから。縁のありやなしやの判定は究極の後付け作業なのです。

なら、縁を語ることは非科学的で無意味なことなのでしょうか? 結論から言うと僕はそうは思いません。第一に「非科学的=無意味」という風潮に疑問を感じます。第二に非科学的であると断じるのは早計だと思うのです。現実に、妙に気が合って結婚に至るカップルがいます。あるいは、付き合いたくもないのに妙に絡んでしまう悪友がいたりします。縁があったなかったとでも言わなければ確率論だけでは説明がつかないことは現実に世の中にあるのです。ただ、そのメカニズムは少なくとも現代科学では立証できない。だから非科学的というのは非論理的です。いずれ、縁と呼ばれる因子の正体が解明されれば不思議でも何でもない科学的理論として理解されるようになるかもしれません。で、縁を語ることが無意味じゃないと思う第三の、そして最大の理由は『人の感情を科学で宥めることはできないから』です。
好きで好きでたまらなかった人とついに結ばれることがなかった時、「それはあの時、君がああ言って、彼女がそれをこう捉えて……」なんて巧くいかなかったことを論理的に説明されたらどんな気分になるでしょう? ま、大概は余計に落ち込むか、ぶち切れるのが関の山ですよね。そんな時はただ一言、「縁がなかった」と言えば良いのです。慰めにはならないにしろ気持ちを切り替えるきっかけくらいにはなるんじゃないでしょうか? よくお葬式は故人のためではなく残された人の気持ちを切り替えるために行うものだなんて言われたりします。縁にも同じような効果があるんじゃないかと僕は思っています。
メカニズムは分からないけれど人と人の出会いや別れを司る因子として『縁』という装置があり、その装置に人は抗うことはできない──そう考えれば手の届かなかった人を諦めて前を向くこともできますし、結ばれた相手をありがたいと思い大切にすることもできます。人の感情の前では時に科学は無力です。そんな時、科学になり代わって感情を慰める装置の一つとして『縁』というものがあると考えれば無意味だなどとは言えますまい。

ネットのかまってちゃん

わりと最近のスラングだと思うのですが「かまってちゃん」という言葉があるようです。
一言でいうと人から注目を浴びたい、自分のことをかまって欲しいという欲求が過剰でそれを行動原理にしている人といったところでしょうか。なので、かまってちゃんの行動の特徴にはこんなのがあるみたい。「ネガティブなワードを頻繁に発言する(周囲が心配してくれることを期待している)」、「自慢話が多い(周囲に羨ましがられたい)」、「虚言癖がある」、「KY発言を頻発する」などなどどれも、周囲の人を振り返らせたいという欲求から来るアクションですね。
それに加えてもう一つ、かまってちゃんの特徴的な行動パターンは「周囲の人のことには無関心」ということ。つまり、人にはかまってほしいけど、自分は周りの人をかまう気はさらさらないという一方通行のコミュニケーションを期待する人が多いんじゃないかなと思うのです。ま、とっても自己中なキャラですね。
リアルに職場にそんな人がいるとめんどくさいことこの上ないでしょうけど、バーチャルなネットの掲示板に出現すると更にやっかいなキャラです。やたらKY発言を振り撒いて周囲がそれに反発すると嬉々として煽り立てる、周囲がスルーすると他者の会話に割り込んででも絡もうとする。場合によってはその人が現れるので廃れてしまったスレッドも沢山あります。
ネット上のかまってちゃんが更にやっかいと書いた理由は彼らは時々、バーチャルとリアルの区別がつかなくなるようなんですよね。まるで目の前に大勢の人がいて自分をのけ者にして会話を楽しんでいるんじゃないかという被害妄想に陥ったりするようなのです。実際には多くの人は実生活の合間にちょっとスレッドを覗いて気が向いたら発言するだけですから自分の発言に反応がなくてもあまり気にしないと思うのですがネットのかまってちゃんは相手の肩口をぐいと掴んで「おい、なにシカトしてんだよ」と言わんばかりに絡んできます。
ネットかまってちゃんの最悪のケースでは西鉄のバスジャック事件や秋葉原殺傷事件のような人の命を奪う行動に出ることもあります。いくらネット上で「人を殺します」と発言していても多くの人は(常識的に考えて)口先だけだろと考えて適当にスルーすると思うのですが、あの犯人たちのスレッドに関わっていた人たちはさぞ後味の悪い思いをしたと思います。
それぞれの事件を振り返っても結局、犯人は『つまり、人にはかまってほしいけど、自分は周りの人をかまう気はさらさらない』言い換えれば自分の命は大事だけど人の命はなんとも思っていない自己中キャラなのがよくわかります。そして、あの事件が最後なのではなく今もこの世界のどこかで潜在的な犯罪者予備軍のかまってちゃんは間違いなくいるのでしょう。そんな彼らの背中を押して犯罪の引き金を引くのはえてしてネット上の取るに足らない一言だったりします。だから、匿名性を良いことに無責任な発言はすべきじゃないと僕は肝に銘じています。

日常が終わる時

なんか不穏なタイトルですが、日々当り前にやっていることでもいつかは終わる時がくるものです。
例えば、お弁当。お母さんが息子、娘に毎日作っていて、時には倦むこともあるけれどこれだって、息子、娘が卒業を迎えれば終わります。僕も今は日々、お弁当を作ってますが退職すればさすがに作らなくなるでしょうね(お昼は作ってる気がするけど)。
仕事にしろ、学校での勉強にしろ、時には疎ましくて逃げ出したくなることもあるけれどいつかは終わります。辞めたくない、まだまだやりたいと思っても容赦なく終わります。そして、一日一日その終わりの日は近付いているのです。落ちた砂時計の砂が元に戻らないようにその日が遠ざかることはありません。
学校で卒業を何度も経験し、そんなことは分かり切っているハズなのに。この日常が永遠に続くように感じてしまうのは学習能力がないというよりは人の性、本性のようなものなのかもしれません。だから、たまにはこうやって立ち止まり、やがて来るその日のことを思い描いて日常の暮らしぶりを省みるのも意義あることなんじゃないかな?

ゴールデンウィークも半ば。長いお休みを堪能しながらあと5日でその休みも終わってしまうと思い至り、そんなことを考えました。

一人ぼっちに憧れて

何かの小説だったかアニメだったかで小さな子供が一人ぼっちで放り出されるのはかわいそうだというセリフがありました(ま、ありがちなプロットかもしれませんね)。それに異論を唱えるつもりはさらさらないのですが、ふと自分の幼少期を変な子供だったかもしれないと思い至りました。
物心ついた頃から僕は一人ぼっちに憧れていたのです。家族を含めて人に対する執着が薄く(というより皆無で)、いてもいなくても構わないくらいに思っていたところがあります。そんなことを口にすれば叱られるだろうなと考えるくらいの知恵はあったのでそぶりにも見せませんでしたがたまにそういう性格が垣間見えるのか奇異な目で見られることはありました。
他人から見れば情が薄いというのでしょうけど、どうにも僕は愛情(家族愛であれ、友愛であれ、恋愛であれ)というものが理解できなくて所詮誰もが一人ぼっちじゃんと思っていた節があります。むしろ、そういった感情をベタベタして気持ち悪いくらいに思っていました。なので、4つや5つの頃には生計の問題さえなければ一人暮らしがしたいと思うようになっていたのです。
あれから50年。そんな感情はおくびにも出さず適当に人に合わせながら生きて参りましたが、近頃になって思うのです。これって本当に自分だけだろうか? 案外、同じようにそういった感情を隠して「愛情は大切だよね。宝物だよね」なんて言いながら生きてる人って他にもいるんじゃないかなとか思うようになりました。半世紀を経てカミングアウトしてみましたが実際どうなんでしょうね^^
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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