古びない芸能

とある落語家がこんなことを問われたそうです。
「古典落語ってのは今の時代に合わない、古い噺なんじゃないですかね?」
すると彼はこう答えました。
「古典ってのは古いって意味じゃない、古びないって意味でさ。だから、江戸の昔に作られて今でも生き残ってる」
一片の真理だと思います。けど、その古びないものに固執してきたことが落語の衰退の一因だったんじゃないかとも思うんですよね。
昨年オンエアされた「昭和元禄落語心中」を鑑賞してそんなことを思いました。戦前から戦後復興期にかけて若手のホープとして活躍した二人の噺家を軸に物語は展開します。方や豪放磊落で親分肌な芸風の助六。彼は実生活が落語の登場人物そのもののような男でなりは汚い、酒癖が悪い、女にはだらしないし、師匠連とはしょっちゅう衝突するという困ったちゃん。けど、高座に上がると客たちを笑いの渦に巻き込んで一番の喝采を浴びる天才肌。方やその助六のしりぬぐいばかりさせられている生真面目な菊比古。彼は日々、芸の研鑽に余念がないがその陰気な顔立ちと張れない声が災いして助六に比べると人気はいま一つ。けれど、艶っぽい女性の演技に開眼して、廓噺、艶笑噺で頭角を現します。
戦後復興が進む中、対照的な二人を悩ませるのは一つ。落語の行く末でした。古典芸能を究めようとする菊比古に対して、時代に合わせて客の喜ぶ噺を模索する助六。二人は反目し合うのではなく、たがいの主張を認め合いながら10年後、50年後、100年後の寄席をどうやったら守っていけるのか、残していけるのかを熱く語り合います。

僕は高校の頃、古典落語にハマりまして、ネタ本などずいぶん読み漁りました。受験生という制約があって寄席に行くなんてことはできませんでしたが、テレビの落語特番なども観ました。あの頃、桂三枝は創作落語に力を入れていたのですが、正直僕はあれが嫌いでした。舞台を現代にしてしまうとどうにも噺が浮ついて薄っぺらく聞こえてしまう(師匠すみません)。見たこともない江戸の町が舞台だからこそ落語という話芸は活きてくるんじゃないのかというのが当時の持論だったのですが、今振り返ってみると聞いたことのあるネタの古典は耳に心地よく、聞いたこともない新作には拒否反応を起こすただの懐古趣味だったのかもしれないと思ったりもします。
僕自身は噺ができるわけでもなし、一人の客として応援することしかできない身ですが、落語がこれからも多くの人に愛されるよう願ってやみません。当世人気を博している深夜アニメの中でも上々の評判を獲った本作。これを機会に落語に対する認知が広まって、一つ寄席に行ってみようかしらんという人が増える効果を期待してやみません。
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半歩先行く演出

2017年 春アニメの『月がきれい』がマイブーム。中学三年生の日常と恋愛を描いたお話なのですが、主人公二人の初々しい仕草や表情が見ていてむずがゆくなるくらい甘酸っぱい作品です。ネットの評判も上々のようでファンとしては嬉しい限り。
で、前の木曜日に3話が放映されたのですが見ていてふと気づいたことがあります。
「この演出って、君の名は。に似ている」

以下、昨年大ヒットした君の名は。のネタバレをいくばくか含みますのでご注意を。

あの作品が多くの観客の心をつかんだ理由はいくつもあると思うのですが、その一つは演出の斬新さじゃないでしょうか? 今我々が目にする映画やドラマの大半は三幕構成と呼ばれる演劇理論に裏打ちされていて開始から大よそ何分経過したらどういったストーリー展開がやってくるか読めるのです。例えば水戸黄門では35分を過ぎたあたりで悪代官と悪徳商人の密談をお銀さんが盗み聞きする。40分頃に立ち回りがあって42分に印籠が取り出される。45分くらいでストーリーのまとめ(別れの挨拶など)があって、ラスト48分で道を歩いて行く一行のカットと分刻みのタイムチャートになっているのを多くの人が知っています。
ま、水戸黄門の場合はそのお約束を楽しみたい視聴者が多くいるようなのであれで良いと思うのですが、単発の映画やドラマの場合、三幕構成通りの演出というのは目の肥えた観客をシラケさせます。
「主人公と反目しあっていたヒロインがそろそろデレるぞ」だとか「そろそろヒロインが攫われて主人公絶体絶命が来るぞ」だとか読めちゃうんですよね。他にも理由はあるのでしょうが、ハリウッドのアクション映画が昔ほどもてはやされなくなったのも、2時間物のサスペンス劇場やワイド劇場が衰退したのもひとえにテンプレのような演出に観客が飽きたからじゃないかと思うのです。
君の名は。の演出が凄かったのは「そろそろこういう展開が来るんじゃないかな?」という思いが観客の頭をよぎる(であろう)直前にその展開を持って来ていたこと。観客が身構える前に大きな衝撃(流星による大災害等)がやってくるので心臓がひやっとなるのです。びっくりして涙が出るのです。そして何よりこの手法はテンポが良くて観客を飽きさせない。三幕構成の演出に慣れている客であればあるほどこれは効きます。
で、月がきれいのネタバレ。3話ラストシーン
主人公モノローグ「I love you.を月がきれいと訳したのは太宰治だったっけ、それとも夏目漱石だったけ?」(視聴者「こいつ、ヒロインに「月がきれい」とか言ってコクる気か?)
主人公「あの……つき」(視聴者「きたきたきた。いや、ぜってえそれ通じないから止めとけ」)
ヒロイン「え、月?」といって空を見上げる「ほんとだ。月、きれい」
(視聴者「うわ、先に言われたし(笑)」
主人公「つき……合って」(視聴者「ちょちょちょちょっと待てぃ。まだ三話だぞ」)
ラブコメでは最終回で主人公がヒロインに告白するのが言わばお約束。それまでにも何度もトライしようとするも、邪魔が入ったり、主人公がヘタレだったりで叶わないのもお約束。なので、多くの視聴者が「どうせ、ギリギリまで盛り上げて告白キャンセルでしょ」と高を括っていたと思うのです。まだ三話だしと弛緩しまくっているところにど直球の告白。君の名は。の演出にも似た観客の予想の半歩先を行く演出に目が離せません。



この世界の片隅に(ネタバレを含みます)

前から観たかった『この世界の片隅に』を観てきました。
カテゴリーを映画雑感でなくアニメ雑感としたのは、この作品が映画作品というよりは紛れもないアニメーション作品でくくられるべきと考えたからです。
ヒロインが絵を描くことが好きという設定を伏線として随所に絵画的な表現が散りばめられ、悲惨なはずの空襲のシーンでさえ美しいと感じてしまわせる制作者のセンスが光ります。しかし、ただ美しいだけでなく、その悲惨さ怖さから決して逃げずに直視する制作者の気概がひしひしと伝わってきます。
脚本も良くできていて、ただ受け身で絵面を眺めているだけではうっかり見落とすような行間の表現がふんだんに仕込まれています(鑑賞には相応の集中力を要しますよ)。
戦争物にありがちな悲劇の押し付けを極力排して淡々と日常を描いているところがまた良いですね。

二十年ほど前に戦時中の神戸に住む人たちの暮らしぶりを調べたくて図書館で古い雑誌をあさったことがあります。神戸市が発行している季刊誌「こうべ」(戦時中の表記は「かふべ」でした)。ちょっとびっくりしたのは昭和14年の巻には「六甲山ドライブウエーが開通したのでみんなでドライブに出かけましょう」なんてことが普通に書いてあるのです。三宮でかかっている今月の映画情報や聚楽館(新開地にあった劇場で「西の帝劇」と呼ばれていました)の劇場情報も今と変わりはないですし、ホントに日中戦争やってた時代なのかなって思っちゃいました。当時はけっこうアウトドア志向が強かったようで市主催で六甲山へのハイキングの催しなどもあったよう。登った先で鶏すきを食べる企画だったようで(今でいうバーベキューみたいなイベントかな)、卵や松茸の価格表が載っていたのですが、松茸より卵の方がずっと高くて笑っちゃいました。当時の物価を知る貴重な資料ですね。昭和19年の巻は残念ながら空襲で焼失したようですが、空襲が激しくなるまでは案外に普通に暮らしてたんだなぁと思ったものです。

今作はそんな戦時下の普通の暮らしを時にユーモアを交えながら丁寧に丁寧に描いています。エンドロールが上がり始めた時の客席の空気がなんとも言えず心地よかった。誰一人、声を発しないのに映画の余韻に浸っているのが肌で感じられるのです。客電が付いてもすぐにはリアクションする人がいなくて、やがておもむろに立ち上がって散り始める。いろいろな映画を観てきましたが客席の空気をこれほどほっこりとさせた作品を僕はあまり知りません(スタンディングオベーションが出た映画は二度体験しましたし、熱狂で客先が熱く感じられる作品は案外あるのですけどね)。
2016年、全国でたった63館、日本の片隅でひっそりと公開された本作は口コミで評判を呼びついに198館に拡張、110万人を超える観客を動員したそうですが、なるほどそのムーブメントの理由が分かる納得の出来でした。

当り前に巧いということ

2012年3月頃。ネットのニュースか何かで見かけたとある記事。
「米澤穂信原作の『氷菓』がアニメ化されます」
彼のファンとしてこれは観ねばと心に誓いました(誓うほどのことでもないけれど)。
制作は……京都アニメーション? 聞いたこともない会社だな。なんか中途半端な地名を冠にしてるし、やっぱりメジャーどころに頼むには予算が厳しいから地方の中小に委託したってところかな。好きな作品なのでひどい出来にならないと良いのだけれど完成度がちと心配。
なんて、放送までは思っていたのですが……。失礼しました。とんでもなく素晴らしい出来でした。よくぞあの分量の原作を毎回24分の尺に収めたものだと舌を巻きました。加えて絵が美しい。活き活きと動く。けっこうやるじゃん、京都アニメーション。
あれから4年半。氷菓を皮切りにどっぷりと深夜アニメ漬けになっちゃったのですが、今振り返ってみると↑のような感想を持っていた当時の自分が初々しいやら、無知さ加減が恥ずかしいやら。京都アニメーション、通称京アニは当時すでに業界の雄。押しも押されぬ大手の制作会社だったのです。ジブリぐらいしか知らなかった自分はたぶん、シャフトといわれようが、ボンズ、IG、どこが来ようが、「なにそれ? 聞いたこともない」と不遜なリアクションをしていたことでしょう。

けど、4年もアニメを観ているとそれなりに知識も豊富になりますし、目も肥えてきます。中には素人目にも「作画がひどいなぁ」と思う作品に出合うこともあります。登場人物の顔が明らかに違う。動きが単調で不自然。中には喫茶店のシーンで一瞬前のカットと座っている位置が変わっているなんてとんでもないのもありました。そういった作品に出合うと改めて思い知らされるんですよね。「当り前に巧い」というのがどれだけ凄いことかって。例えば、今放送中の「舟を編む」にはトラさんという飼い猫が登場します。実に自然に廊下を歩いて来て、腰高窓からベランダに出て行ったりします。その動きはうちの近所で見かける猫とそん色ないのですがよく考えるとこれとんでもない手間とち密な観察力の成果なのです。猫が歩くときには体のどの部分が伸び縮みして重心がどう移動するかを把握した上で、1秒間に24コマの絵を手で描いて動かしているのです。その一瞬、一瞬は止まった絵なのに繋がっていくと自然に歩いたり、走ったり、飛び上がったりしているように見える。見る側からすればたった数秒のシーン。一瞬後にはもう忘れてしまっているようなカット。でも、それ自体が凄いことなのです。だって、自然に動いてなければ気になってすらっと忘れることなんてできませんから。

数年前、入院していた時、デイルームに漫画か美術の専門学校の卒業制作誌が置いてあってパラパラとめくったことがあります。それなりに面白い作品もあるのですが、ストーリーではなく絵に時々ひっかかりがあるのです。なんかバランスが良くない。構図が変。顔の造作が不自然。上手に描けているコマとそうでないコマにバラツキがあって安定感がないんですよね。それを見てしまうと普通に書店に並んでいるコミックスがいかに凄いかを改めて思い知らされました。ページをめくってもめくってもめくっても、絵が安定している。不自然じゃない。それで当り前と思っていたことが如何に凄いか、自分にはとても真似ができない才能の産物かが良く分かりました。

作品の出来不出来を表する前に、素人の作品に触れてみるというのは面白いアプローチなのかもしれません。アマチュア作品を観てしまったら、出来が悪いと思っていた作品でも一定のクオリティをコンスタントに(←ここ重要)クリアしていることがよくわかりますから。

デジタル式演技

アニメ制作の日常を描いたアニメ作品(ややこしいな)「SHIROBAKO」。その第2話に声優さんのアフレコシーンがありました。
演出「そこ、もっと切羽詰った感じがいいかなぁ」
監督「うーん、どうかなぁ。押し殺してるけど、切羽詰った感じ、聞いてみたいです」
声優「わかりました。怒りメインですか? 悲しみメインですか?」
監督「うーん、両方みたいな」
演出「うーん、監督またハードル高いな(笑)」
こんなやり取りの後、声優さんが演技するのですが、ちゃんと指示通りの口調になってて凄いなぁと思いました。
ただ、これって何かに似てるぞとも思ったんですよね。……、そうそう。うちのオーブンレンジ君だ。うちのオーブンレンジ君は実に賢くて、例えば熱燗をつける時でも「弱2」「弱1」「標準」「強1」「強2」の五段階に温めができるのです。つまみを捻って調整すればちゃんと、人肌燗、ぬる燗、上燗、熱燗、とびきり燗に仕上がるという優れもの。気に入ってはいるのですが、長年小鍋に湯煎でつけて来た身としてはちょこっと物足りないというか痒いところに手が届きかねるみたいに思う時があります。
例えば、雪が舞う夜道を駅から歩いて帰って来た日。うんと熱い燗酒が呑みたいなと思ったとします。湯煎でつけるのであれば「よし、このタイミング」というのが身に沁みついているので、そこで徳利を引き上げるとどんぴしゃの熱燗が楽しめるのです。対して、オーブンレンジ君がつけてくれる熱燗はお手軽でそれなりに良い感じに仕上がってはいるのですが微妙にずれて感じる時もあるのです。デジタルは整数が基本。1の次は2、2の次は3になってしまって1.1だとか1.9にはできないのが恐らく物足りなさの原因なのかなと考えます。
僕は長年、社会人の合唱団にいていろいろなタイプの指揮者を見てきましたが、中にデジタル式演技みたいなのを求めてくる人がいます。楽譜を徹底的に分析して小節単位で音色や音量を細かく指示してくるんですよね。それを見た団員が巧いこと言ってました。

「ありゃ、箱庭みたいな演出だな。ここに木を植えて、ここに池を作って、池の水面はこれくらい波立たせて、茅葺屋根には少し苔を生やして……てな具合に音楽を作ろうとしてる」

精緻に拵えられた箱庭は思わずため息がでるほど美しいものです。でもね、やっぱり本物の雄大な景色やのどかな田園風景を見ちゃったら物足りなく感じると思うのです。だって、箱には雑音が少なすぎる。綺麗過ぎるのです。それに比して、本物の風景には雑な色や物や音が満ち溢れているのです。
その雑さは人がどれだけ精緻を凝らしても真似できない類のものです。そして、人はその雑さにリアリティ(本物らしさ)を感じて惹き付けられるのではないでしょうか?
巨匠宮崎駿監督はしばしばプロの声優ではなく役者や役者ですらない人を重要な役に抜擢しることで知られていますが、それを批判するコメントをネットでよく見かけます。「なんでプロの声優使わずに素人を使うんだよ」といった感じですね。確かに訓練を受けたプロの声優の演技は耳障りの良いものです。場面場面で狙いすましたように的確な演技をしてくれます。それに対して監督が起用した人の演技は素人臭さがあるかもしれません。耳障りに感じる時があるかもしれません。でも、僕にはなんとなく監督の意図がわかる気がするんですよね。本物らしさに拘りたい役や場面では耳障りが良いだけのデジタル式演技では綺麗すぎて物足りない。あぜ道を歩いている老婆のような、額に汗を流しながらふいごを踏み続ける女のような、機械油にまみれた袖で頬をこするような泥臭さが欲しい。その声から、草の匂いや、日の温かさ、水たまりに足を浸した時の冷たさが伝わってくるような自然さが欲しい。そう渇望し続けると1と2の間に1.1や1.9の味わいのある素人臭い演技が欲しくなるんじゃないでしょうか。
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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