無限ループって……

「何言ってんスか絵麻先輩。怖いのは脚本家になれないことです!」
アニメSHIROBAKO、脚本家志望のりーちゃんのセリフです。自分が書いた台本を声優さんに読まれると思うと怖くならない? と訊かれた時の返事なのですが、物つくりを目指す人間なら肝に銘じないといけない一言だよなぁと思います。
小説家や脚本家なんていうものはなりたいと思った瞬間になってるものだという人がいます。ただ、それで食べられるかどうかは別の話で、食べていくためには寝食を惜しんで努力する必要があります。その努力は、したからといってなれる保証はどこにもない類の努力なのでかなりメンタルがタフでないとやっていけません。けど、メンタルがタフだからと言ってその努力が報われる保証はない。無限ループって怖くね? とでも言いたくなりますよね。
何度自分を焚きつけても執筆から逃げようとしてしまう自分の戒めとして自分宛てにひとこと。

日々の雑事に忙殺されて書かない日が続いている。今日も明日も、「ああ、また書けなかった」と嘆く日々は一見無限ループに見えるかもしれない。でもそれは幻想です。そんな生活が無限に続くわけがない。やがて老いて朽ちれば無限に見えたループは途切れるのは知れ切ったこと。そこんとこ肝に銘じなきゃダメでしょ。ちょっと、セルフ叱責モードのブログでした。
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情報量と構成力

昨年の冬アニメ「昭和元禄落語心中」を視聴。まだ、1話目ですがたっぷり噺も聴かせてくれてドラマ性もある、面白くなりそうな臭いがぷんぷんします。何よりずいぶん長いこと観たと思ったのにそれほど時間が経っていないのに何度も驚かされました。なんでだろうと、つらつら思ったのですが1カット、1カットに込められる情報量がべらぼうに多いんですよね。だから数カットしか観ていなくても何十カットも観た気になる。
この感覚、経験したことがあるなとふと思い記憶をまさぐりました。京極夏彦の処女作「姑獲鳥の夏」。その後、京極のファンになり彼のシリーズ作品はほぼ全部読んでいますが本作が彼との出会いでした。
衝撃的だったなぁ。ノベルスのサイズなのにずっしり重い。普通のノベルスの2倍か2.5倍くらいの厚みのあるメガ本。一見して原稿用紙換算7、800枚はあると見ました。なのに読み始めると進む進む。あっという間に読了。衝撃的な結末の余韻に浸りながらしばし呆然としたものです。
誰かが彼の作品を評して「千枚の長編を数十枚の短編のように読ませる」と言ったそうですが、正鵠を射た書評だと思います。情報量がとてつもなく多いのに、それがすっきり整理されていて読む者の腑にすとんと落ちる。凄まじくそれでいて小気味良いまでの構成力を持った作家だと思います。

下手な作り手が情報量を詰め込むと雑多に詰め込まれたおもちゃ箱みたいになって読み手が咀嚼するのに苦労をかけます。以前、僕が書いた600枚ばかりの短編連作なんかがその悪い見本だったよなぁと反省しきり。だからこそ、「100調べて10で書く」なんて言われたりするのですが、別のアプローチもあるんだよと京極の作品は示してくれました。これでもか、これでもかと情報を詰め込む。ただ、それぞれの情報を提示されるタイミングが緻密に計算されていてすっきりまとまっているので読者が違和感を感じない。誰にでもできる芸当ではないですがそういう書き方もあるんだなと勉強させてもらいました。
昭和元禄落語心中は2話目から過去編、1話の現代編はいわばプロローグでこれからが本編のようです。ずっしりと手重りするのに開けばするすると情報の奔流がなだれ込む、そんな物語を期待します。

完成品の楽屋裏

イマドキの言葉を使うと意識高い系というのでしょうか、半年に一度の部下との面談に臨むと「昇格したい」というオーラ剥きだしで臨んでくる子がいます。うちの会社の場合、担当者がまず目指す役職は主任ということになるのですが、彼らの言い分が面白いくらい画一的で「××さんが主任なのなら僕だってできます」という論旨なのですね。ここでいう××さんは誰もが認めるできない人だったりします
気持ちはとてもわかるんですよ。人事は公平であるべきです。でも、人事制度は公平じゃない。その時々の会社の業績や将来的な展望に合わせて引き締められたり、緩やかだったりします。どの時期に昇格に挑むことになるかは、これは運、不運としか言いようがないと思います。
で、そんな子達に僕はこう返すようにしています。「君が今まで見てきた中で一番凄いと思う主任をイメージしなさい。その人と同じ振る舞いができていてそれでも昇格できなければ、僕は真剣に上と掛け合える」

僕も含めて人は自分に甘いものです。「これくらいできたんだから、もう良いんじゃないかな。もう十分じゃないかな」とすぐ自分の限界に妥協を見出そうとします。
小説を書いている時にもこの傾向は顕著に表れ、長い時間をかけて仕上げた原稿を眺めていると推敲する前から「もう、これが完成品で良いんじゃないのかな」なんてムシの良いことを考えたりするものです。ま、少し時間を空けて読み返せば随所に粗が見えてくるので「あれを完成品というなんておこがましい」と自省するのですが。
で、小説の執筆作業は実はここからが本番なのです。読者的視点に立ってどれだけ完成度を上げていくかが勝負。確かに書き慣れてくると最初から80点の原稿が起こせるかもしれない、けどそこからあと20点引き上げるのは至難の業です。ましてや更に20点積んで120点の原稿にするのはひたすら「自分に甘い自分」との闘いになります。
「もう良いじゃん」とか「これ以上いじると(行き詰って来ると「直す」ではなく「いじる」とか言いだします)逆に悪くなるよ」という悪魔の囁きと闘い、より高みを目指すには特別な意思が必要です。例えば僕はこんな風に自分に言い聞かせるかな。

「この作品と宮崎駿の作品を比べたら完成度はどっちが高い?」

狂気ともいえる執念で一切の妥協を許さない彼の制作姿勢にお前は比肩できているのか? と問われればまだまだ首肯できるわけがないのです。時にネットに投稿して第三者の厳しい意見に晒してみたり、数十枚の短編を書くのに百枚以上のボツ原稿の山を築いたり、あがいてあがいて初めてその作品は完成品と呼んでも差し支えないと思えるようになるのです(それでも、「完成品と呼ぶにふさわしい」とはまだ言えなかったりします)。
主任昇格も小説を完成させることも楽屋裏であがきにあがいて研鑽してこそ得られるもの。宮崎駿の執念をお手本に今日も鉛筆を握ります(あ、未だに僕は鉛筆と消しゴムで原稿を書くのです)。

情報過多な小説

出版不況が叫ばれて久しい昨今。出版社も作家も生き残りを賭けて様々な試行錯誤をしているようです。
そんな努力の一つのトレンドなんでしょうか。そっちが本職なの? と疑うばかりのリアリズムを追求した作品群が生み出されています。例えば警察内部の事情や捜査の進め方を克明につづった警察小説。医療の世界に深くメスを入れた医療ミステリー。銀行業界の非情な内情を克明に描いたドラマなどなど。
そういったリアリズムに関して言えば昭和の昔は一部の小説を除いてもっと大らかで悪く言えば大雑把だった気がするんですよね。だから、高木彬光が書いた「白昼の死角」みたいに詐欺集団の手口をリアルに描いた小説が登場するとホントにこれを出版しても大丈夫か(詐欺の指南書にならないか)と大騒ぎになったりしたのです。それだけ、少数派だったんでしょうね。
リアリズムを追求する作家の対極をなす書き手と言って僕が一番に思いつくのは赤川次郎です。ま、朝起きたら庭に死体が転がっていたなんてミステリーを書いちゃう人ですから かといって、彼の作品群がつまらないかというと決してそんなことはなく、余分な情報を徹底的にそぎ落とすことで読者は物語の本筋のみをまっすぐたどれるようになっていて、すいすい読める快感があります。
リアリズムを追求したければドキュメンタリーを読めば良いじゃんと思っていた頃が僕にもありました。物語にリアリティを持たせるための過剰な情報は言わば小説のぜい肉に過ぎないなんて考えていました。なので、模倣犯あたりから一時期宮部みゆきから離れていたこともあります(悲惨な事件は新聞の社会面で十分。小説にはもっと夢を求めたいと思ったものです)。
けれど、次々に輩出されるリアリティ溢れる小説に触れるうちにわからなくなってきました。だって、面白いんですもん。逆に昔のTVドラマやコントに出てくるような刑事が登場すると「嘘くさい」と感じるようになっちゃってます。つくづぐ、読者というのは贅沢で貪欲ですね。

その昔、紙と鉛筆があれば作家は仕事ができると言われていました。今、小説を書こうと思えばサムソナイトのトランク3杯分くらいの資料を揃えないといけないんじゃないでしょうか? 執筆に過剰な情報は必要か? まだ、しばらくその答えを見出せそうにありません。もしかしたら、答えがないのかもしれないとも思えます。横溝正史の名言にこんなのがありました。

いろいろ咲きて、野は楽し。

そういうことなのかな?

虚構のリアリズム

僕が大学生だった三十年ほど前、日本映画は角川書店が全盛期を迎えておりました。横溝ブームを皮切りに大流行したミステリーブーム。SF、ファンタジー、青春ラブストーリーなど百花繚乱状態でしたね。その勢いに押し上げられて小説もよく売れていたように思います。特にすごかったのは赤川次郎。けっこう長い期間、彼は長者番付の上位にいた記憶があります。
けど、当時から感じていたことなのですが、彼の小説ってリアリティが薄いんですよね。読んでいても街並みが見えてこない、ホテルの中にいても宿泊客たちの賑わいが聞こえてこない。まるで、あからさまな書き割りのなかで芝居をしている感じがするのです。まあ、それが彼の持ち味であり余分な描写をそぎ落とすことですいすいとストーリーを追うことができるスタイルとも言えたのですが。
30年後となった今、小説のトレンドは真逆に向かっているように見えます。例えば、高野和明の『ジェノサイド』。人類から万物の霊長を引き継ぐ次世代の生物がアフリカの奥地で誕生する話なのですが、ジャングルの息苦しくなるような暑さや匂いが伝わってくるのです。彼らを根絶やしにしようとするアメリカが雇った傭兵達の行動が本物さながらなのです。同時進行する難病の特効薬開発(実は陰でその新人類が関与している)が大学で専攻していた僕の目から見てもリアルなのです。どんだけ、掘り下げたんだてくらい調査や取材していることがひしひしと伝わってきました。
今野敏の警察小説。清王朝時代の中国を精細に描いた浅田次郎の蒼穹の昴。ロードレース小説の決定版、近藤史恵のサクリファイス。有川浩の自衛隊シリーズなどなど。ちょっと息苦しくなるくらいリアリティに溢れています。もちろん、一級のエンターテイメント作品に仕上がっているので不満はないのですがふと思うのです。フィクションの世界でリアリティはどこまで追及されるべきなんだろうって。
明治の頃に誕生した近代小説は長いことエンターテイメント性より人間の内面を描くことに傾注していたように思えます。当時は日本独特の小説分野である純文学がもてはやされていました。恐らくその頃は本当に原稿用紙とペンがあれば小説が書けていたのではないでしょうか? それに対して昨今の執筆事情はだいぶ違うようです。浅田次郎がエッセイの中で書いていましたが、ホテルに缶詰めになって執筆する際はサムソナイトのスーツケース3つ分の資料を持ち込むのだそうです。一本の小説ができあがるまでに何十冊もの資料を読み漁るのも当たり前らしい。それはそれで凄いことだし、重厚なエンタメ作品が期待できそうなのですが、リアリティは作者を縛ります。想像力を膨らませて格好良い場面を描こうとしても、「待て待て、リアルではそれはあり得ないぞ」とか思い始めて書けなくなったらつまりません。そのあたりどうやって折り合いをつけているんでしょうね。
アニメSHIROBAKOの戦闘機を描くアニメの制作場面でこんな議論が出てきました。
監督「この雲、良いですね。ぜひ、主人公が帰還するシーンで使いましょう」
美術「いやダメです。彼女たちが飛んでいる高度にこの雲はできません。もっと低い高度でできる雲なんです」
議論の果てで監督が結論を出します。
監督「この雲でいきましょう。格好良く嘘を吐くというのはあっても良いと思います。知らずに描いてしまうのと、知っていて敢えて描くのは違いますから」
僕は小説にはやっぱりリアリティが必要だと思っています。けど、生々しいだけでは小説にならない。現実にはどうかを知った上でその現実を越える虚構を描く、読者を楽しませるために嘘を吐く、時にはリアルや理詰めより外連味を大事にする。そうしてこそ、一級のエンターテイメント作品に仕上がるんじゃないでしょうか。
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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