いまさら翼といわれても読了

米澤穂信の古典部シリーズ第六段「いまさら翼といわれても」読了。短編集です。
2012年に京アニによるアニメ化後、1作目になります。とにかく寡作な作者さんなのでファンはずいぶん待たされた感がありましたが、その介あった一作と感じました。寡作ではなく遅筆と書きづらいのは1本、1本がよく練られていて、これは時間がかかっても仕方ないよなと感じさせられるからです。
アニメでは原作からそれなりにキャラ設定が変わっていたのでちょっと心配だったのですが、杞憂に終わりました。原作のテイストは原作のままアニメの影響を受けることなく実家に帰ってきたような安心感がありました。以下、ネタバレを含み作品に触れますので未読の方はご注意を。
特に気に入ったのは「わたしたちの伝説の一冊」と……思ってたのですが、最終作にして表題作も良かった。何より謎が魅力的。ヒロインの失踪、彼女の出番までのタイムリミットはじりじりと迫ってくるなんてのはワクワク、ドキドキしますね。その彼女の居場所は地方都市、神山市(高山市がモデルです)のどこかというとんでもない広範囲。それを居ながらにして推論だけで答えにたどり着く折木奉太郎君の安楽椅子探偵ぶりには舌を巻きます。少しネタを明かすとヒロインは誘拐されたわけでなく自らの意思で疾走していたのですが、その動機はどきんとさせられるものがありました。このシリーズ、大きな転換期を迎えた気がします。ラストどうなったかが明確に示されないリドルストーリーになっているところも憎い演出。これは次回作をお楽しみにということかな。
で、改めて一番お気に入りになった「わたしたちの伝説の一冊」。こちらはメインキャラクターの一人、伊原摩耶花が巻き込まれる漫研のいざこざの話。古典部シリーズの大前提をかいつまんで申しておきますと神山高校にある古典部という部活の4人の部員たちによる群像劇、伊原摩耶花はその4人のうちの一人なのです。本作では彼女が掛け持ちをしている漫研が描きたい派とただ読みたい派に分裂して一触即発状態。摩耶花自身はお互い勝手にすれば良いというスタンスなのですが、いつの間にやら描きたい派の急先鋒に祭り上げられている状況。そんな時、描きたい派の一人から漫研として同人誌を出そうと持ちかけられます。実績を作って描きたい派の存在意義を認めさせる作戦みたいですね。ところが摩耶花のまとめていたアイデアメモがただ読みたい派に持ち逃げされる事件発生。それを追って行った先で待っていたのは4月早々に部を去った河内亜也子先輩だったことから物語は急展開します。河内先輩は漫画がとても描ける先輩で摩耶花をしてその作品に比べたら自分のは100枚落ちると言わしめる人、さて一連の騒動はなぜ起きたのかと解決編に入ります。探偵役が登場せず犯人自らが明かしていくというスタイルがちと物足りなかったけど伏線は見事でした。
「なんで、あんなに早く部活をやめたんですか」
と問い詰める摩耶花。読みたい派のストッパーだった河内先輩が抜けたことで読みたい派が暴走を始めたんだと。
「あんたのせいよ」
と笑う河内先輩。2月に漫画雑誌の投稿欄に摩耶花のペンネームを見つけた先輩は自分は何をやっているんだろうと気付かされたのだとか。確実に実力を付けてきている後輩。ぬるま湯のような部活に使って描くのを怠けている自分。このままではいけないと思って部活を辞めたというのです。そして、先輩は「あたしと一緒に描こう」と提案されます。くだらない派閥争いのためだけのお遊びみたいな漫画を描いている場合じゃない、今はプロを目指して本気で描くべき時だというのです。
私にもあんたにも才能がある。それは吹けば飛ぶような才能かも知れないけれど、それすら持ち合わせていない人は大勢いる。描きたくても描く能力がない人が大勢いる。なら、わたしたちは自分の才能をないがしろにしてはいけない。「自分の才能に仕える」覚悟をすべきだと先輩は焚きつけるのです。才能に仕えるという言葉が胸に突き刺さりました。才能を持つ人間はそれを自覚しそれを活かす義務がある。それが才能を持たない人間へのせめてもの誠意なのだと突きつけられた気がします。これって、古典部シリーズの三作目「クドリャフカの順番」のアンサーじゃないですか。あの作品の中で「描ける技術を持っているのに描かないなんてもったいないじゃないか」親友の才能に嫉妬しながら吐露する怪盗十文字のセリフは持たざる物の焦燥であり呪詛でした。それに対して河内先輩は持つ者の矜持と覚悟で応えたことになります。そして、先輩と摩耶花に取って伝説となった一作を一緒に越えようというのです。ようやく、クドリャフカのほろ苦い結末から11年の時を経てようやく、雪解けを迎えた気持ちになれました。自分もがんばらないとな。
で、なぜ、ノートを持ち逃げするなんて乱暴な手段を取られたかってのは……ぜひ本作をお読み下さい。
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真実はいつもいっぱい

名探偵コナンの決め台詞「真実はいつもひとつ」というのを聞く度に違和感を感じます。理系の自分から言わせれば事実はいつもひとつだけど、真実は観測する人によっていくつもあるものじゃんと思ってしまうからです。
たとえば、殺人が起きて犯人が明かされたとします。

BさんがAさんをナイフで刺したことが原因でAさんが死に至ったのは『事実』です。

つまり『事実』の解明は客観的な視点から観測し因果関係を明らかにする科学的手法が取られているのです。

当初、BさんとAさんはCさんと三角関係にあり、痴情のもつれから殺人に至ったと思われていた。しかし、AさんはCさんの父親のことで彼女を脅迫していた。追い詰められたCさんを見かねたBさんが凶行に及んだのです。これがこの事件の真相です。

これがいわゆる『真実』というやつだと僕は思っています(言葉の定義だけの問題かもしれませんが)。たとえば、探偵がこんな風に解説したとしても、それを聞いて依頼人が納得したとしてもそれは主観に過ぎません。別にBさんの脳みそを解剖して確かめたわけではありませんので本当にBさんがそう考えていたかどうかは本当は分からないことなのです。
「いや、単にAが持っていた限定物のウォッチを盗もうとしたらあいつに見つかってさ。もみ合ううちに刺しちゃっただけなんだけどね。ま、いっか」Bさんが心の中で舌を出していてもそれは誰にも分りません。

ミステリーの中で探偵は二つの仕事を負います。まずは事実の解明。いつ、だれが、どこで、何を、どうやって行ったかを明らかにする。これが探偵の第一の仕事です。いわゆる5W1Hのうちの4W1Hがこれで解明されたことになります。では、残る1Wは何でしょう? そう、WHY(なぜ)=動機です。探偵の第二の仕事は依頼人の主観に立って納得のいく動機を示唆し、それが『真実』だと宣言することです。
こう書くと『事実』と違って『真実』は如何にも胡散臭く聞こえます。事実その通りで動機の解明なんてものは単なる後付け作業で胡散臭いことこの上ありません。でも、この探偵の第二の仕事にこそ作家の技量が問われると僕は思うんですよね。
5W1Hのうち、WHY以外はいわゆる『事実』というやつで五感で確認できる現象と言うものに属します。そこには人間の感情は一切さしはさまれません。ところがWHYだけは人間心理そのものの解明で、それをどう紐解くかによって、依頼人=読者の感情を揺さぶり得るのです。
いくら秀逸なトリックを用意しても、驚天動地のサプライズエンディングを用意しても、WHYの解明を疎かにするとその小説は内容の薄い絵空事めいてしまいます。逆にトリックは平凡でも、それをなした心理の解明が秀逸であれば読者の心を揺さぶることが可能です。
凡百の小説より奇なる『事実』を用意して驚かせるのがミステリーという小説ジャンルの趣向です。けれど、ミステリーが単なる推理クイズと一線を画するのは犯人が心に秘めた『真実』の解明にこそあると僕は思います。願わくば、残虐な殺人が繰り返されたとしても最後に一縷の希望の光を遺し、読者に生きる希望を与える小説であらんことを。これこそ僕がミステリーに期待する役割です。
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
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