携帯電話のある時代

バブルの名残が色濃かった90年代前半。携帯電話は巨大で高額でした。肩掛け式で数キロの重量、何より通信費がバカ高い。「どこにいても即会話ができる必要があるなんてシチュエーションって会社の社長くらいだよね~」なんて揶揄されたものです。当時のステータスはポケベル。初期の頃は単にベルが鳴るだけで公衆電話を探して走り回りましたっけ。そのうち、かけてきて欲しい電話番号が表示されるタイプが登場しました。番号を見てかけたくなかったら「すみません、地下街にいました」なんて言い訳したものです(地下は電波が届かないので鳴らなかったのです)。
そのうち、簡単な日本語のメッセージが表示される今のメールの先駆けのような機能が付いてるタイプも登場しました。

あれから20年。誰もが携帯電話を持っていて、どこにいても捉まえることができる時代になりました。でも、これって本当に便利なのでしょうか?僕は却って不便になったような気がしてなりません。
以前、テレビのバラエティー番組か何かでやっていたのですが、原動機が付いた自転車(原付ではない)でペダルを漕ぐのを原動機がアシストするやつがあったら便利かという検証をやっていました。
原動機が低速で回っている間は確かに楽ちんそうなのですが、回転が速くなってくると強制的にペダルも速く漕がざるをえなくなって最後は乗っていた芸人さんがギブアップしていました。
今の時代はこの原動機付自転車に似ています。より便利に、よりスピーディーにを追求するあまりとっくの昔に使う人間の方がそれに付いていけなくなっているんじゃないでしょうか。気が付くとスマホを使うのに費やしている時間は膨大なものになっていて、人がツールを使うのではなくてツールに人が使われている今日この頃。
ちょっと一休みした方が良いんじゃないかなと思ってしまいます。
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アニヲタ

何年か前、我が家で電車男がブームになったことがあります。ストーリーが王道のラブストーリーだったこともあって、十代の娘達もいたく気に入り、早く続きを見せろとせがまれました。それでも、主人公のヲタクキャラは彼女たちの肌に合わなかったようで、「キモい」、「彼氏にするのは無理」、「現実にはこんな話はありえない」と散々な言われようでした。
この作品に限らず深夜アニメやそれを熱心に鑑賞するヲタクな人達に対する彼女たちの反応は冷ややかなもので「キモい」の一言で一蹴されておりました。ところが……

長女が最近アニメにハマっているらしい。発端は「進撃の巨人」。ま、大ヒットしているのは「おもしろい」からなわけで、あの作品にハマるのはまだわかるのです。ところが、それを発端に過去の名作アニメを漁り出して深みにハマっている模様。とらドラ!、グラナド、かみちゅ、狼と香辛料……当たるを幸い、まるで節操のないチョイスで休日は朝から晩までアニメ鑑賞。この前、横浜に遊びに来た時に近所のツタヤに行ったら1時間以上アニメコーナーの前から離れませんでした東京駅に行った時も、「ついでだからアキバに寄ってく?」と訊くと散々迷った挙句「今日はやめとく」との返事。アキバでアニメ漁りをしている自分を想像してしまって、なんとかプライドが踏みとどまらせてくれたようですが紙一重な感じでした。

僕はアニメ作品に対して特に偏見はありません。名作と呼ばれるシリーズには呼ばれるだけの理由がありますし、少なくともどんなにふざけたストーリーでも、作り手は鑑賞者を楽しませることに真剣です。
なので、彼女がそう言った作品に触れることは寧ろ喜ばしいと思っています。小説でも映画でもアニメでもそれを鑑賞して心を震わせる体験をすることは何より人として成長するための大切な糧となると思うんですよね。

運動不足

昨年、メタボですよと指摘され会社の保健指導プログラムを半年間受けました。
これは半年後の目標体重、腹囲を設定してセンセと一緒にそのために日々することを考え実践するというものです。週に2回の禁酒。週末のジョギング。これで半年で5kg痩せると心に決めたのですが……。結果は0kg減。太りもしなかったけど痩せもしなかった。禁酒もジョギングも守ったわりには結果が出せないというのは空しいものです
で、つらつら原因を考えたのですがやはりこれしかありませんね。

『運動不足』

僕はほっておくと一日中でも机に向かって微動だにしなくても苦痛にならない性分です。運動量が限りなくゼロに近い生活を何日でも送れてしまいます。なので、ほっておいてはいけないのですね。たぶん。
遅まきながら気付いた運動不足。さてさて、どうやって解消したものか……いっそ、椅子を仕舞ってしまって寝る時以外は立っている生活にしてみましょうか?(をい)

親日

近頃、海外の人達の日本に対する反応を書き込む掲示板を読むのがマイブームです。

「美しい自然がある」
「なんて礼儀正しいんだ」

まあ、このあたりはよく耳にするのでそれほど驚かないのですが……

「バスが回っている。なんて技術なんだ」

タイトルを見て、ん?なんのこっちゃと思ったのですが、

「日本は道路にターンテーブルを埋めやがった」

あ、転車台(てんしゃだい)のことですね。って、それほど驚くテクノロジーなのかしらん。

「日本人は小さな空間を最大限に生かす天才だな」(いや、それほどでも
「エレベータ式の駐車場があるというのはジョークじゃなかったのか?」(立駐は僕が小学生だった昭和四十年代には既にありました

僕たちが当たり前と思っていることが当たり前じゃないと感動されるのはなんだか新鮮です。

「自動販売機が壊れてることがまずないんだ。それにお金を入れたのに何も出てこないなんてことは一度もなかった」
うーん、外国ではちょくちょくあるんですかね。
「コーンスープが缶に入って自販機で売られているだぜ。しかも熱々なんだ」
これはかなりカルチャーショックだったみたいです。今では、おでんやラーメンの缶詰もあるのですが、それを見たらどんな感想が書き込まれるんでしょうね。

「『道で財布を落としたら後ろを歩いていたおばあさんが『落ちましたよ』と拾ってくれた』というのがニューヨークで一番受けたジョークだった。みんな大爆笑さ」
いや、それって日本人の国民性を表すエスニックジョークではなく、普通に街で見かける光景です。でも、彼らには信じられないみたい。

あまりベタ褒めされるとこそばゆい感じですが、多くの外国人が日本に住んでみたいと思ってくれるのはすごく嬉しく感じます。反面、僕たちが当たり前と思っていることが実はひどく特別なことであると再認識させられて、実はすごく幸せな暮らしをしているんだなあとしみじみ思いました。

本日は多忙なり

今日で期限が切れるから定期券を買いに行かなきゃいけない。
ゴキブリの駆除薬を置いてから半年経ったのでそろそろ交換しなきゃ。
図書館に本を返しに行かないといけない。
焼売を作って、ふき味噌を作って、シーフードカレーを作って、貝ひもの佃煮を作って、掃除をして、洗濯物を取り込んで畳んで片付けて……
僕の週末はなぜか平日よりよほど忙しかったりします。で、思ってるそばからやることを忘れてしまうのでEXCELで一か月分のカレンダーを作って思い付いた時に「この日にすること」を書き込んでいってる次第。もし、このEXCELくんを失くしたら……考えるだけでぞっとしますね

ロケ地巡り

久しぶりに映画「コクリコ坂から」を観ました。初見の頃は宝塚に住んでいたので出てくる風景には特に思い入れがなかったのですが、横浜に住む今はなぜか懐かしい気がするから不思議です。

映画やドラマで地元がロケ地に選ばれるとなんだか嬉しくなりますよね。その反面、「それはないだろう」とか「ありえねぇ」という感想が飛び出すことも多々あります。
神戸を舞台にした大林宣彦監督の「漂流教室」は冒頭から仰け反ってしまいました。主人公の少年が自転車で通学している!! はい、あり得ません。神戸は坂ばっかりの街なのでどう間違っても土地っ子は自転車通学など考えません。しかも、その通学路たるや家を飛び出して坂を下り、海岸線を横切ってそれからまた坂を上るって、あからさまに神戸の街の情景描写でしかないじゃないですか。神戸はどこへ行っても南北が坂、東西が平地の街ですから下って上るくらいならまっすぐ東に向かいます。しかも、最後の登り坂はまさかの僕の中学時代の通学路。あの坂はふもとに「20%」と標識が出てるんですよ~(標識の意味は100メートル進むと標高が20メートル上がりますというほとんど階段のような坂なのです)無理過ぎです。
あるいは神戸を舞台にした柴田恭兵主演「べっぴんの町」。今、車で中突堤あたりを走っていたと思ったら次のシーンでは六甲山のてっぺんってどこでもドアを使ったんでしょうか
春休みに娘が来た折にドラマ「流星の絆」のロケ地に行きたいというので逗子にある公園に向かいました。主人公たち(兄二人妹一人の三兄妹)が小学校時代に寝転んで流星を観察したなかなかムードのある場所です。地図ソフトを頼りに向かったのですが目的地周辺に着いたにもかかわらずそれらしい公園がない!! 目の前にあるのは高い崖だけ…………って、公園はこの崖の上かよ。それから約1時間ハイキングコースになっている山道を登山する羽目になりました。

思うに、スクリーンの向こうの風景に憧れてロケ地巡りなどするもんじゃないのかもしれません。それはせっかくかけてもらった魔法を解いてしまう禁断の呪文かもしれませんから。馬車がカボチャにもどらないように。御者がこまねずみに戻らないように。憧れの風景はスクリーンの向こうに残したまま。それに手を伸ばさないのが賢明な気がした一件でした。

不都合なデータ

世間では学術論文の改竄が取りざたされておりますが、ニュースを見ていてなんだか身につまされるなぁと思います。
僕は大学では有機化学を専攻していて卒業してからはコンピューターの世界に二十数年を過ごしました。バリバリの理系を自認していますし、一生涯科学者であろうと考えています。
残念ながらニュースに登場するユニットリーダーも彼女を吊し上げた理研の方々もその言動を見る限り既に科学者ではないなと感じます。
長いこと実験をしていると不都合なデータが現れるというのはよくあることです。でもそれは、その人が唱える仮説にとって不都合なだけです。自然界にとってみれば起きてしまった事象なのですから当たり前の摂理にすぎません。
科学者たるもの不都合なデータと直面した時は真摯にそれと向き合わなければなりません。その事象が起きた原因を考察し、事象との因果関係を実証するのが科学者の務めなのですから。考えられる原因は例えばこんな風に分類されます。

・単なる手順のミス→ならばミスをした個所を突き止めて同じミスをすれば事象は再現できるはずです。
・仮説は合っているんだけど事象を起こす条件の考察が不足していた→例えば前に実験が思った通りに行った日は雨が降っていたとか。その日の湿度が実験に影響を及ぼすこともあり得ます。
・仮説がそもそも間違っていた→ならばどこが間違っていて、どこまでは合っていたのかを検証しなければなりません。

いずれにせよ、同条件で同じことを行えば何度やっても同じ結果が得られるというのが科学の基盤です。同じ結果が得られなかったときにそれをなかったことにしたのでは、その仮説は単なる胡散臭い与太話になってしまいます。それだけでなく、その不都合なデータにこそGOALに到達する大いなるヒントが隠されていたかもしれないのにそれが見過ごされてしまいます。

誰でも自分の非を認めるのは辛いものです。ましてや気の遠くなるような年月をかけて実証実験を繰り返してきたその科学者の生涯そのもののような学説ならなおのことです。
それでも、起こった事象と静かに向かい合わず、見なかったことにするならば、その人はその瞬間から科学者でなくなってしまいます。
科学する者にとってもっとも重要な資質は英知でも閃きでもなく謙虚さと己の非を認める勇気かもしれません。

ラッシュ

ここ数日なぜか朝の電車が混んでいる。いつもと同じ時間。いつもと同じ車両。なのになぜかギュウギュウ詰め。
昨日なんかリュックを背負った高校生がその背中の荷物に引きずられてあわや客先に頭から墜落しそうになるなんてアクロバティックな光景を目撃しました。
先週はそうでもなかったのにいったい何が起こってるんだ? と首を傾げていたのですがどうやら答えが見えてきました。

『新学期が始まった』

ということのようですね。早く五月になって五月病で学生たちが朝から学校に行かなくなりますように……をいをい。

家族の瞬間

母上の古希のお祝いなどありまして親戚一同が京都に集合。まさかの二週連続関西に戻ることとなりました。
長女襲来、次女の入学式と立て続き、なにもせずにぼーっと過ごす休みが欲しいよ~と切に思う今日この頃です。
しかし、普段は単身赴任で気楽なシングルライフを満喫していますが、他愛のないことで笑い転げてる嫁や娘達を見ているとこれはこれで良いよなぁとしみじみ。
ほんの瞬きほどの時間でしたが家族の瞬間を楽しんでまいりました。

紅の豚の評価

この前、YAHOOの映画レビューで「紅の豚」のレビューを見てびっくりしました。
5段階評価で4.3。ええっ、いつの間にこんなに評価が上がったの? って感じです。
僕はこの作品をリアルタイムで映画館で見たのですが、それまでの宮崎駿作品と作風が大きく変わっていたのに驚いたのと、終わり方がなんだかもやっとしていてすっきりしないなぁという感想を抱きました。
もしかしたら、この作品はウケないかも──というヤな予感は的中して、当時は「自己満足」だの「自分の趣味で作った作品」だのといった声ばかり聞こえていた気がします。中には「こんなのジブリじゃない」という何様やねん的発言もあったりして
それが高評価。レビューの中身を見ていくと「当時は理解できなかったけど中年になった今見直すとその良さが分かるようになった。それだけ俺も年をとったということかな」みたいな感想が散見されました。この映画の封切は1992年。当時のジブリファンの年齢が20年ばかり高くなってようやく観衆が作品に追いついたということでしょうか。

同じく飛行機を題材にした「風立ちぬ」が昨年封切られました。正直、ラストで泣いてしまったのですがネットで見る限り評価は真っ二つ。特に酷評の方はなんだか駄々っ子が「全然おもしろくないよ~」と地団太踏んでいるようなのまであります。でも、そんな意見が出てくるのは分かる気がするのです。
あの映画は世にも珍しい行間を読み続けることを前提に本来3時間以上かかるはずのストーリーを2時間少々に押し込めた作品ですから。

映画は基本的に受動的な娯楽です。2時間シートに座っていれば勝手にストーリーが説明され、勝手に(?)感動させてくれる仕組みになっています。ところが、あの作品に限って言えば能動的に読解力を駆使して行間を読まない限りストーリーの表層しか見えてこないのです。
二十年後、三十年後、紅の豚と同じように「あのころの俺には分からなかったけど……」と呟くファンが増えてくれますように。一ファンとして切に願います。

戦国時代とオールウェイズと

先週帰省した折に久しぶりに馴染みの焼き鳥屋に顔を出しました。懐かしい顔がいて話が弾んだのですが、「今どきのトップはカリスマ性が残念」とかいう話になりました。
例えば約123年続いた戦国時代と約260年続いた江戸時代を比べると倍以上の年月があるにも拘らず多くの人が記憶にとどめるカリスマが多いのは戦国時代の方だと思います。悲しいかないつ殺されるかわからないという危機的状況に陥ってはじめて人間は本来眠らせていたカリスマ性を発揮するのでしょうか? 世の中が平和になり安寧な時代が訪れると人は再びそれを眠らせるのでしょうか? 幕末頃になっていきなりまた有名人が多数登場した歴史を振り返るとどうもそんな気がします。本当は江戸時代にもたくさんいたんだけど記録に残っていないだけ……ってことはないですよねぇ。それより前の時代の武将たちがあれだけ記録に残ってるんですから。
太平洋戦争後焼け跡からの復興を果たしたオールウェイズ~三丁目の夕日~の時代。あの時代にも名物社長が大勢いたと巷間に聞きます。だからこそ、プロジェクトXなんて番組が生まれて長くもてはやされたのでしょう。

2014年の現在は不安定な時代だと思います。この先、経済が社会がどうなっていくのか非常に見えにくい時代です(ま、それはいつの時代でもそうなのですが)。反面、明日の命が知れない時代ではありませんし、江戸時代並みの貧困が蔓延する時代でもありません。本来はかがり火を掲げるカリスマが登場すべき要素を時代は持っていると思うのですが、まだまだ危機的状況が臨界点に達していないのかな──件の常連とそんな話をしました。

才芸

舞台に出てきた少女は若干9歳。名前をAmira Willighagenという。「今日は何をするの?」と審査員に質問されると「オペラを歌うの」と答えた。プッチーニのジャンニツキッキーから「私のお父さん(O mio babbino caro)」を歌うという。数小節の短い前奏の後、ホール全体にその歌声は響き渡った。ほんの一小節、二小節──たちまちに審査員達は唖然とした顔になる。少なくとも9歳の少女の歌声ではない。マリア・カラスがいきなり憑依したかと思わせるようなトップクラスのオペラシンガーの歌唱だ。
驚異の歌声
才能は残酷だと思う。真剣に声楽と向かい合い何年もトレーニングを重ねてきた成人でも彼女にかなわない人はたくさんいるだろう。彼女のスタートラインはそれほどに高いレベルにある。
「なんでおまえやねん」
ロードレースを舞台にした小説「キアズマ」の中のセリフである。行きがかりでいやいや入部させられた自転車部で主人公はインカレ個人優勝を果たしてしまう。ロードレースが好きでたまらず日々訓練に明け暮れた先輩にそうつぶやかれても仕方がない。こんなに自転車が好きな自分でなく、いやいや始めた新入生がなんで優勝するんだ、と。
才能は残酷だと思う。多くの人が血のにじむような努力で目指していく高みを軽々と超えてしまう。時に億万の努力を凌駕してしまうことがある。ましてや高みを目指す人がひとしなみに努力するのだとすれば、才能のある者に才能のない者は勝ち目がない。神様は残酷なことをなさる。そう思う動画でした。

長いスピーチ

次女の入学式に行ってまいりまして、久しぶりに「あー、学校ってこんなところだったなぁ」と思い出しました。
決して悪口を書きたいわけではないのですが、正直な感想。

スピーチが長い!!

普段は如何に短時間で効率の良い会議を取りまとめるかに心を砕き、伝達は手短にかつ確実にをモットーに仕事をしている自分にとって苦痛でございました。内容から考えたら1分あれば事足りるような内容を5分も10分もしゃべるってどうなのでしょう。最後に学校を後にしたのは25年ほど前になりますが、教育の現場では今でもスピーチに関して「長さ」=「ありがたみ」みたいな風潮が残ってるんだなぁとしみじみ思いました。

ま、終わってしまえばそれも話のタネ、ブログのタネになる程度の些末なこと。空は快晴。なにより次女が楽しそうでしたのでよございました。

次女の入学

13年ほど前の5月25日のこと。いつもの通り出社して椅子に座った途端携帯が鳴りだしました。

「さきほど、破水しました~」

電話の相手は嫁の母上。「悪い、今日休暇にしといて」と言い残して病院に向かいましたっけ。お昼過ぎ、次女がこの世に誕生しました。
つい昨日のような気がするのに気が付けば明日は中学校の入学式です。本当にあっという間ですね。
ということで、午後から帰省して彼女の晴れ姿を見に参ります。

悪役の必要性

近藤史恵の「キアズマ」を読んでいます。名作「サクリファイス」から始まるロードレースのシリーズ第四弾。今回は登場人物も一新されて前三作とはつながりのない別のお話として描かれています。もしかしたら、前作までで三部作構成ということだったのかな?
作中、主人公が中学時代柔道部に所属していたエピソードが出てきます。顧問教師がむら気のある人物でその日は機嫌が悪かったらしく部員達に投げ技の応酬を仕掛けます。特に主人公の親友が標的に合い何度も投げ技をかけられて失神。主人公が救急車を呼ぼうと申し入れても取り合わず放置。気が付けば親友は虫の息でした。遅ればせながら病院に搬送された親友は急性硬膜化出血。一命を取り留めたものの重い後遺症が残ります。
全国模試でもトップクラスの成績だった親友は養護学校へ。顧問は柔道部の顧問を外されただけで特に処罰なし。

描き方が巧いなぁと思いました。押しつけがましくなく淡々と事実を書いているだけなのに、これを読んだ読者は押しなべてこの顧問や学校側の対応に嫌悪を抱くと思います。そういうのってあるよなぁと思わせる設定。教師や学校の理不尽さ。どうすることもできない歯がゆさ。こういうのが自然に描けるようになりたいと自分も思います。反面、これは才能で書いているというより引き出しの多さなんだろうなぁとも思います。普段からニュースや身の回りの出来事をこまめにノートしているんでしょうね。

物語には善玉と同様、悪役や敵役が必要です。善人しか出てこないドラマは見ていてつまりませんし、主人公が最初から最後までハッピーだったら欠伸が出ます。主人公が不遇で理不尽な目に遭えば遭うほどクライマックスの逆転一発ホームランは痛快なのです。
ということで、僕もヤな奴リストをつけ始めました

流星の絆と長女とホーム

長かったような短かったような一週間が過ぎ、ようやく今日長女が関西に戻ります。
逗留中、つくづく思ったのは『自分って男性として見られてないよなぁ』ということ。今も平気な顔してすぐ横で爆睡しています。ま、自分も彼女を女としては見られないのでおあいこなのですが
ドラマ『流星の絆』の中盤は末娘の静奈が実は二人の兄と血が繋がっていないことを知ってしまうというエピソードがクライマックスになります。「もっと早く言って欲しかった! それか黙ってて欲しかった!」 そういう彼女は今までのように兄たちとナチュラルに接することができなくなってしまいます。たかだか血の繋がり。されど血の繋がり。人の気持ちというのは不思議なものですね。
そういえば20年ほど前に観た音楽座のミュージカル「ホーム」を思い出しました。お人よしの主人公はめぐみという女性と恋仲になりますが、彼女は生まれたばかりの赤ん坊を残して出奔してしまいます。許されない仲の男との間にできた子供を身ごもっていた彼女は赤ん坊の父親になってくれる男を探していたらしい。取り残された主人公と赤ん坊、めぐみの母という三人の奇妙な共同生活が始まる……といった話です。中盤、その赤ん坊が思春期を迎えた頃に父と思っていた主人公と血が繋がっていないことを知って大きなショックを受けます。更に追い打ちをかけるようにお祖母ちゃんと思っていためぐみの母も空襲の夜に一人取り残されていためぐみを拾った赤の他人だということが判明して……
結局、家族と思って暮らしていた誰一人として血は繋がっていなかったことが分かるのですが、不思議と彼らは「それでも自分達は家族なんだ」と改めて自覚します。

たかが血の繋がり。されど血の繋がり。どちらに重きを置くかは人それぞれですが、DNAと人の気持ちというのはどうやら別物のようですね。
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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