ドラマ『みをつくし料理帖』ふたたび

うちにはテレビがないので、最近やっているドラマとかの情報に疎いのですが、たまたま本屋さんで見かけた文庫本の帯で情報をキャッチ。ドラマ『みをつくし料理帖』第二段。6月8日放送。うーん、これは嬉しい。動画サイトで探してぜひ見ましょう。
みをつくし料理帖は高田郁(たかだ かおる)の人気時代小説です。時は江戸後期、十一代将軍家斉の時代。主人公の澪は大阪の名店で修業を積んだ料理人です。その店がもらい火事で全焼して江戸に移って蕎麦屋で働き始めるところから物語は始まります。主人に認められて料理を作るのですが、客たちは最初のうち彼女の料理をろくに味わいもせず「女が作った料理だから」とか「味がうすぼんやりしてる(当時も江戸の料理は相当濃いらしい)」と言って邪険にします。それでも彼らの口に合うように彼女は工夫を重ねてやがて客たちから絶賛を浴びるようになるのです。

ドラマの第一弾は2012年の秋にありました。随分あとになって、観賞したのですが色彩の鮮やかさに目を奪われたものです。「料理のシズル感(思わず食べたくなる瑞々しさ)に拘った」と監督が豪語していましたが本当にどの料理も美味しそうでした。ヒロインの澪は北川景子。放送前、彼女の起用に否定的な意見がネットに飛び交いました。「明らかなミスキャスト。現代風の美人を持って来てどうする」というわけです。まあ、原作の描写では下がり眉と笑われるおかめのようなご面相なのでイメージが違うと思うのは当たり前かもしれません。多くのブロガーがこの人がやれば良いのにと揚げたのは蒼井優でした。ただ、僕は蒼井優だったら嫌だったかもと思ってしまいます。芸達者な女優さんですけど腹に一物ありそうに見えてしまって、澪の素直さ、ストレートさ、ひたむきさが伝わってこない予感がするんですよね。顔は確かにほわっとしていて原作通りかもしれませんがそっくりさん大集合をやっているわけじゃないんですから。
原作のあるドラマや映画のキャストの評価でよく「原作から抜け出してきたよう」とか「イメージが合わない」という評価を見掛けますけど、なんかおかしくないか? と僕は思ってしまいます。だって、小説とドラマは別の作品なんですから、必ずしも顔立ちを似せる必要はないでしょう。
少し話がそれちゃいましたが、僕は鑑賞する前にキャストを見た瞬間、北川景子ならやってくれると思いました。あまり、知られていないのですけど彼女は「花のあと」という藤沢周平原作の時代映画に主演しているのです。凛として立ち居振る舞いが美しくて、なんて和服の似合う人なんだろうと見惚れてしまいました。現代風のお嬢様刑事で謎解きとかしてる暇があったらこういう時代劇にもっと出て欲しいと強く思ったものです。
で、ドラマ鑑賞。予想を上回る出色の出来でした。踏まれても、倒れても、投げ出されても、また立ち上がる強さ、ひたむきさがストレートに伝わってきました。脇を固める俳優陣も達者な人がずらりと揃っていて久しぶりにドラマらしいドラマを見た気がしました。ネットで検索するとレビューも好意的なものが多く、否定的だった人たちも見直したようです。振り返ってみると先入観でさんざんこき下ろされていたのに、それを才能と努力で跳ね返して大勢の人に認めさせた北川景子はまさに澪そのものだったように思えてきます。

すぐにでも、続編が見たかったのですが、第二段までには約2年の間が空きました。満を持してブラウン管(死語か?)に再登場するみをつくし料理帖。期待するなという方が無理ですね。
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ゲーム実況の時代

劇団キャラメルボックスがニコニコ動画で舞台の生中継をやっているという記事を見掛けました。視聴料は1500円と劇場の入場料を考えると破格の安値。結構な盛況だそうです。いよいよ、時代が追い付いてきたかと感じました。

僕が初めてニコニコ動画で実況というものを見たのはとある女性実況者がプレイするファイナルファンタジーXの実況でした。ゲーム実況というのはそのゲームをプレイしながら実況者がしゃべる様子をゲーム画面に充てて録画した動画で、視聴者はゲーム自体だけでなくに実況者のリアクションや言動を楽しみます。そして、ニコニコ動画の特徴である「動画にコメントを付ける」ことで動画の視聴者が何を考えどうリアクションしたかもダイレクトに伝わってくるのもゲーム実況の醍醐味の一つです。ほどなく僕はこのゲーム実況にハマっていきました。その理由を分析するとこんなところでしょうか。

僕はFFXはプレイ済みだったのですが、そのゲームを初めてプレイする実況者が僕が感動した場面でどんなリアクションをするかが楽しめて、見ず知らずの実況者と感動を共有できる。
同時にその場面で流れるコメントを読むことで更に感動の輪が広がる。

つまり、映画館や劇場で作品を鑑賞するように大勢の人と感動を共有することができるスタイルにハマったと言えます。そして、「この鑑賞のスタイルは遠からず流行る。誰もがリアルタイムでわやわや言い合いながら作品を鑑賞する時代が必ず来ると思っていました」
キャラメルボックスの劇場中継はまさに起きるべきして起きた現象だと僕は思います。「映画や演劇は黙って鑑賞するのがマナー」という常識を打ち破って「場面場面で思い思いの意見を交換しながら観る」スタイルの登場を感じたニュースでした。

図書館ライフ

ある時期から僕は小説を一切買わなくなりました。理由は3つあります。

お金がいくらあっても足りない(週に二冊くらいのペースで読むので)
置く場所がなくなる
基本的にほとんど再読しないので本が死蔵される

んで、手持ちの本の中からちょくちょく読み返すものと絶版物を除いて全部売り払い(かなり部屋がすっきりしました)、以来専ら本は図書館で借りています。横浜にこして来てからは駅傍に市立図書館があるので普段はそこを利用しています。けど、それは本の貸し出し/返却に利用しているというだけで、実際には横浜市にある18の市立図書館全体の膨大な蔵書を利用していることになっているのです。利用の流れはこんな感じ

家のパソコンから図書館のサイトにログインして読みたい本を検索し予約します。
最寄りの図書館に在庫がなければ他の図書館で在庫が確保されて本が配送されてきます。
最寄りの図書館に本が届いたらメールが送られてくるので会社の帰りに受取りに行けばOK

人気図書だと400人待ちなんてこともざらにありますが 心配無用。実際には人気図書はだいたいどこの館にも一冊は置いていますし時には二冊以上置いてあるので実際には18分の1、36分の1といったペースで待ち行列は掃けていくのです。だいたい2か月~3か月待てばお目当ての本を手にすることができるという寸法。その間他の本を読みながら胸弾ませて待つのもなかなか楽しいです。

本は読まれてこそ価値があります。読み終えたらもう二度と手に取ることがない本を大量に家で眠らせるのでは本が可哀そう。その点、読み終えたら返却してまた次の読者の手に渡って感動の輪を広げていく図書館ライフが結構気に入っております。

コンビニの進化

コンビニエンスストアを初めて見かけたのは僕が大学生だった八十年代の半ば頃でしたでしょうか? 当時は夜中も開いてるので便利だけど大半の商品が定価で売られているので割高な店という印象でした。
お弁当も種類が豊富とはいえず、お菓子類もかなりジャンクだったような記憶があります。
九十年代にかけて急速に店舗数が増え、複数のチェーン店が競合し始めた頃から様子がだいぶ変わってきました。お弁当の種類が増えていき、おにぎりのような単品も充実。スイーツもかなり本格的になってきたのです。更に健康志向のオリジナル商品や食料品以外にも力を入れるようになり「開いてて良かった」というキャッチフレーズはいつの間にやら「開いてないと困る」と思うくらい生活に密着していきました。
それから二十余年、今またコンビニは冬の時代なのかもしれません。商品の目新しさも徐々に色褪せ、深夜に行っても結構な客で溢れかえっていたのが、今では閑散としている店が少なくありません。
僕も昔は結構愛用していたのですが、年とともに食べ物の嗜好が変わったのか今ではコンビニ弁当を見てもあまり美味しそうと思わなくなったんですよね。で、長いこと足が遠のいておりました。ところが……
先日、夜中に口寂しくなって近所のセブンイレブンに久しぶりに行ってきたのです。すると、前には見掛けなかった真空パックの惣菜コーナーがひと棚分まるごと使って開設されておりました。
「セブンプレミアム」
オリジナル商品らしいのですが、ラインナップが凄い。ポテトサラダ、肉じゃが、厚焼き玉子、煮豆、五目御飯……
そう、どれもこれも普段の夕食に出てそうな料理ばかり。一人暮らしだけど、昔お母さんがよく作ってくれたあれを食べたいなと思う人には凄く嬉しい品ぞろえのように思いました。これなら料理が苦手でも、電子レンジさえあれば普段着の夕飯が楽しめます。
なるほど、そう来たかと唸りました。もう、ブームは過ぎて衰退していくものと思っていたコンビニエンスストアですが、こういった企業努力を続けていればまだまだ進化し続けていくのかも知れませんね。

視点が変わると……

古典的な営業マンの笑い話にこんなのがあります。
未開の地に靴を売りに行った営業マンが本社に電報を打ちます。
「望みなし。この村では靴を履く習慣がない」
ところが別の営業マンは同じ村を見てこんな電報を打ちます。
「商機到来。まだ誰も靴を履いていない」
同じものを見ても視点が変わるとがらりと様相が変わるというのはよくあることです。でも、「これは物を凍らせずに保存できる道具だ」と言ってエスキモーに冷蔵庫を売り込んだ営業マンが実際にいたそうですから、あながち笑い話でもないかもしれません。

視点が変わると見慣れているはずのものが初めて見るもののように見えることもあるようで……
さっき、駅前のスーパーに寄って来たのですがお店の中で一人の女性とすれ違った時に奇妙な既視感に囚われました。「絶対、この人知ってる」と心が訴えるのですが、いくら頭の中を探っても知り合いではないともう一人の自分が言うのです。
釈然としない気分のまま店を後にしたのですが暫く歩いてハタと気づきました。

あの女性はいつもレジを打っているお姉さんじゃないですか

普段着に着替えて買い物かごを下げていると分からないものですねぇ。なんか、小さな新発見をしたみたいで楽しく家路を辿りました。

ケの演技

昨日に引き続きハレとケのお話になります。
お芝居をやる中でハレの演技以上にケの演技は難しいようです。ドラマチックな展開、激情がぶつかり合うクライマックス、そんな場面なら素人でもそれなりに見せられる人はいるかもしれません。これはそのシーンが非日常──「ハレ」の演技だからです。非日常ですから素ではない自分を演じればそれらしくなります。
これに対して、食事をする、学校の休憩時間に友達と雑談をする、こんな場面を素人が演じると非常にわざとらしくなります。こういった場面は日常──「ケ」ですから素でなければならないのですが、素人はえてして「演じなきゃ」という気持ちが先行するのです。
では、プロの場合どうなのかというと「素らしく」演じる訓練を積んでいるようです。本当の意味の素ではなく傍目から見て素としか思えないように演じているわけです。僕はそれはそれでありな技術だと思っていたのですが、どうもそう評価しない方もいらっしゃるようです。

宮崎駿監督はある時期から自作の出演者に声優専業の方を抜擢することが少なくなりました。俳優であったり、落語家であったり、時にはアニメ監督やコピーライターなど直接声の仕事と無関係の人が抜擢されるようになりました。ネットではその理由について様々な憶測が飛び交っていますが有力なのは職業声優の独特の癖が気に入らなくなったというものです。多くの声優は養成学校などで訓練を受けます。その結果声だけで多くの役を演じ分けるようになるのですが、それはあくまでも「それらしく」演じているというもので、生の日常でそんなしゃべり方をする人はいないでしょうと監督は感じているみたいですね。ま、俗にいうアニメ声なんかを聞くと「こんなしゃべり方をする人が身の回りにいたらちょっと嫌かも」とか思ってしまいますが

島本須美さんはクラリス、ナウシカ、さつきとメイのお母さんなど宮崎監督の作品に多数出演されている方ですが、もののけ姫でかなりダメ出しを喰らったそうです。同作で彼女はタタラ場の女達のリーダー役だったのですが、主人公アシタカがタタラを踏んでみたいと申し出た時にこう言います。
「せっかくだから代わってもらいな」
このセリフを監督は「かなりぞんざいに」言わせたかったようなのですが、何度やっても優しくなってしまうのだそうです。役者だって普段家で家事をこなしたり、食事をしたりしている時は普通の人間としてしゃべっているはずです。時にはぞんざいな言葉遣いになることだってあります。監督はそんな普段着の声(演技ではなく声)を求めたのだけれど何度やっても彼女のそれは「舞台に上がった役者の演技」になってしまったみたいですね。

ケの演技をリアルに近づけようとすれば、それは演技であってはいけないと監督は言いたいのでしょう。けれど、「素人に棒読みさせるのは耐えられない。プロの声優をなぜ起用しない」と思うファンが多いのも事実。監督の真意が伝わるのはなかなか難しいだろうなあと思う次第です。

ハレとケ

ハレとケは柳田國男によって提唱された言葉です。漢字で書くとハレは晴れ又は霽れ、ケは褻と書きます。
我々が過ごす時間のありようを分類した言葉でハレは年中行事や催事などを行う非日常的な時間をケは日常的な時間を指します。「晴れの日」、「晴れ着」などハレは今でも使いますがケはすっかり廃れてしまっていますね。そもそも晴れという言葉は現代では太陽が出ている天候を指しますが江戸時代まで遡ると長雨などのあと久しぶりに太陽が覗いた日にだけ使う言葉だったそうです。
よく「日本人はクリスチャンじゃないのにクリスマスに騒ぎ過ぎ」なんて言われ方をしますが、これはハレとケの問題と考えると腑に落ちます。「日本人はクリスチャンじゃないからクリスマスに騒ぐ」のです。もし、日本人が皆クリスチャンで毎日曜には教会に行きキリスト教に則った年中行事をきっちりとこなしていたらクリスマスのありようも違ったのではないでしょうか? ところが実際にはクリスチャンではないほとんどの日本人にとってクリスマスはガチのハレなわけです。なので、お祈りをせずにお祭り騒ぎをしてしまうと考えれば不思議でもなんでもありません。「日本人の大半は仏教徒なんだからお釈迦様の誕生日を祝うのが筋」なんて意見も出ますが家にお仏壇があって毎日線香を上げ、盆にはお坊さんがやってくる生活をしている我々にとってお釈迦様の誕生日は今更のケなのだと思います。

ハレは年に一度、物によっては一生に一度のひと時だからこそありがたみがあるのだと僕は思っています。八月に祝日を作ることが検討されているというニュースを見掛けたのですがいつの間にやら祝日が増え過ぎて、しかもやたら連休になる昨今、これ以上お休みを増やしたらハレのありがたみが薄くなってわくわくもドキドキもしなくなるんじゃないかなと少し心配になりました。

お弁当ライフ

明日から一週間ばかり、千葉の我孫子市というところに通うことになります(片道1時間半)。事前情報によると最寄駅から徒歩だと20分。「ホントに何もないところなので、コンビニなどでお弁当を買ってきて下さい」とのアドバイスを戴いているのですが、結構割高なわりにはボリュームが足りなかったり、逆にボリュームを謳っているものは栄養バランスが偏っていてカロリーが高かったりと何かと不都合。
ということで、お弁当を自作することを考えています。とはいえ、毎朝とんでもなく早起きして作るのは無理があるので今日のうちにあらかたおかずは拵えておいて冷凍保存する作戦。朝はレンジでチンして詰めて行きます。学生の頃はそれほどお弁当が好きではなかったのですが、自分で作るとなれば話は別。今からお弁当屋さんの人気メニューを調べたり、傷みにくいお弁当の作り方を勉強したりとなんだか行楽気分に取りつかれております
日程が限られている中で行う作業なので一分たりとも気が抜けないのですが、こういう楽しみがあっても良いですよね

24ライフ

ゴールデンウィークはたっぷりスローライフを満喫させてもらったのですが、当然そのツケは溜まっておりまして、明けた初日からげんなりするようなバックログ(積み残し作業)の山とご対面するハメになりました。
しかも、職場の同僚達も同じようにバックログを抱えているので彼らからの割り込み作業が容赦なく襲い掛かってくる~
結果、比喩でもなんでもなくドラマ24のジャックバウアーのような分刻み生活をここ数日送っております。
しかし、ジャックバウアーは24時間経てばなぜか事件は解決してしまうからまだ良いよなぁとしょうもないことを考えてしまいます。現実の生活では48時間経とうが72時間経とうがケリが付かない限り延々と仕事は続くのですから。
それでも、そんな生活を楽しんでいる自分がいることも自覚していて、つくづくゆっくりできない性分なんだよなぁと内心笑っております

奇蹟(ミラクル)

ふと思い出してジャッキー・チェンの「奇蹟(ミラクル)」を再鑑賞。
89年に公開された映画で梅田の映画館で観た記憶があります。ひょんな巡り合わせでギャングのボスに祭り上げられた青年(ジャッキー)が主人公。なぜか彼は滅法カンフーが強いというのはご愛嬌ですね。
彼はボスになるきっかけを作ってくれたと信じるバラ売りの老女がお気に入りで毎日バラを買い求めます。ところが、ある時から彼女を街で見かけなくなりました。心配して彼女の自宅を訪ねて行くと彼女は心労で倒れておりました。
事情を聴くと、遠くに留学している一人娘がお金持ちの青年と婚約したので今度こちらへ顔合わせに来るとのこと。ところが老女は貧しい生活を恥じて娘には毎日街の名士達と晩餐を共にしていると嘘をついていたのです。
今までの恩に報いるため一肌脱ごうとジャッキーは決意するのですが……

ストーリーを読むと「おや」と思った方もいらっしゃるかもしれません。このストーリーは往年のハリウッド映画「一日だけの淑女」とそのリメイク作品「ポケット一杯の幸せ」のリメイクなのです。
この作品を初めて観た時、ジャッキーにとってこれはかなりの野心作なのでは? と思いました。それまでのジャッキー・チェンの映画と言えばヘタレな青年が修業を積んでカンフーの達人となり成功したり復讐を遂げたりするアクション映画が多く誤解を恐れずに言えばストーリーは二の次、あくまでもカンフーアクションを楽しむのがメインでした。
ところが、この作品はカンフーアクションの要素を残しつつもストーリーに重点を置いて複雑な演技も要求されるというもの。振り返ってみても彼の映画の転機に当たる作品になったような気がします。
とはいうもののアクションも見どころの一つであることは間違いありません。改めて視聴してみて、これだけアクションを楽しませてくれる俳優は彼以降出てきていないよなぁと思います。勿論、強い男を演じる俳優はたくさんいるのですが、彼ほどアクションを魅せる俳優は稀有です。ジャッキーも老境に入ってしまった今、こんな演技ができる若手が再び現れて拍手喝采を浴びる日が来ないものかしらん。懐かしく視聴しながらそんなことを考えておりました。

起承転結の功罪

物語をまとめるテンプレートとして日本ではよく「起承転結」が使われます。
起=物語が始まる
承=物語が広がりを見せる
転=物語が転換する
結=物語に決着がつく
というやつですね。ところが、これを物語以外の文章のテンプレートにも適用できると誤解している方が意外にいるようです。
以前、プロジェクト管理の研修を受けた時のこと、ロールプレイに使われたプロジェクトの中で社長のプレゼンを準備するという一コマがありました。原稿執筆はくじ引きで決めたのですが 当たった方に任せて僕は他の準備を進めておりました。ところが、制限時間10分前になってひょいとその方の手元を覗くと……何も書けていない。ただ一言、『起承転結』とだけ書かれている
かなり悪戦苦闘されていたようなので、「代わりましょう」と言って執筆を引き継ぎました。社長プレゼンのような原稿の場合、言いたいことを端的に伝えられれば良いですから使うテンプレートは箇条書き(リスティング)です。要点は3つ又は4つにまとめるのが座りが良いです。研修のテーマに沿って3つほど要点を書き出し後はそれを具体的かつ手短に説明する文章を加筆すればOK。自慢じゃないですが文章を書くのは早い方ですのでなんとか残り10分でやっつけちゃいました。
「社長のプレゼンに転(=どんでん返し)」は要りませんよねぇ」と、くじで当たった方も後で苦笑されていました。

気付いたのですが、起承転結については学校で教わります。ところが、これ以外の手法についてはあまり教わりません。なので、この方のように起承転結がオールマイティと勘違いしてしまう人は案外いるのかもしれません。
文章のまとめ方には、この例のように箇条書きにした方が良い場合もあります。他にも「時系列(クロノロジカルメソッド)」にした方が良い場合もあります。例えば、『姫路城の歴史』なんてテーマで文章を書くのなら圧倒的にこの方法が向いています。それ以外では「対比」という方式もあります。例えば外国人に「お好み焼き」がどんなものかを説明する場合、彼らでも知っていそうな「ピザ」と比較して似ている個所、異なる個所を挙げていけばとても分かり易く説明できます。
起承転結は物語をまとめるのには非常に便利なテンプレートです。でも、物語以外の文章をまとめる際には往々にして不便な場合があることを知っておくべきですよね。

美味しんぼの呪縛

僕が大学に入った年に連載が始まった美味しんぼが何やら物議を醸しだしているようですね。
はっきりものを言うのがウリの作品なので揉めることもあるだろうなぁとは思っていました。自分的には結構好きなコミックスで、ストーリー展開も面白いし、取材もしっかりやっている、何より食の安全を謳うこういった作品は世の中にあるべきと思います。ただ、主人公や海原雄山の論調が極端でその理論があまり科学的でないのが残念です。
薩摩の黒豚を偽装する業者が出回っているって話が初期にありましたが、それを聞かされた人が「どうしよう。うちなんかしょっちゅうトンカツ作るのに」と悲嘆します。いやいや、値段を釣り上げるのはずるいけど豚肉は豚肉だし、薩摩の黒豚にあらずんば豚にあらずとでも言いたいのかい? って、ツッコみたくなりました。
度々、化学調味を非難する話も気になっています。確かに化学調味料は体に良くないかもしれません。ただ、それを何グラム取ったらどういう影響が出るかという臨床例も挙げずに1㎎でも取ったら「もはやこれまで」みたいな論調はどうなのでしょう。
大学で受講していた有機化学の講義で「マーガリンは製造工程でニッケル触媒を使います。そしてニッケル触媒は人体に悪影響があります」という説明を受けました。「では、どの程度摂取すると悪影響が出るのか? 一日に1トンのマーガリンを摂取したとして10年それを続ければ影響が出ます」とのこと。いやいや、そんなことしたら初日に死んじゃうでしょ──というツッコミは置いておいて、食の安全を語るのであれば安全じゃない物に対してもどの程度の影響があるのかきちんと調べて書かないとフェアとは言えません。それを棚に上げて一方的に攻撃するのは明らかに科学的とは言えないと思います。
化学調味料を取り続けると舌が馬鹿になるという話も再々出てきますが、これに対してもどの程度継続したら具体的にどのような症状になるのかについて何の説明がありません。正直僕は化学調味料は適度に使えば非常に美味しい料理に仕上げられますし、それはそれでありなんじゃないと思ってしまうのです。

これだけ有名なコミックスになってしまった今、そこに書かれていることは正しいと読者は信じてしまいます。福島の放射能レベルが高いであろうことはわざわざ指摘されなくても素人でも想像が付きます。でも、それと鼻血が出たやら、疲れがひどいやらとは全く別の話でしょう。その因果関係を立証せずに恣意的に読者の不安を煽るような表現を描けば風評被害が広がると言われても仕方がないことだと思います。
繰り返しますが、福島の放射能レベルが高いと予想されることとその描写が正しいかどうかは全く別の次元の話ですので、「事実、放射能レベルが高いんだから風評被害を煽るとは言えない」という論理はおかしいです。

食の安全の旗手として責任ある作品を作ってほしいものだと思います。

『異人たちとの夏』体験

大林宣彦は日本を代表する映画監督の一人で彼の作品の中には僕が大好きなものも沢山あります。
ただ、彼はホラーを撮るべきじゃないよなぁと常々思ってしまうのは僕だけでしょうか? 彼のホラー作品はとにかく「怖くない」のです
デビュー作でもある『ハウス』はギャグ映画かと思う出来でしたし、『漂流教室』は子供たちだけで異世界に放り出されたわりには緊迫感がなくてグダグダでした。楳図かずおのテイストが霧散していたのはいっそ清々しいばかりでしたが
反面、思春期の少年少女の心情や人情の機微を描かせたら天下一品であることには異論を唱えません。彼の青春映画には秀逸なものが沢山あります。
そんな彼の作品で映画『異人たちとの夏』は彼の弱みと強みが見事にコラボした傑作だと思います。一種の怪談で幽霊が出てくるのですが、やっぱり怖くありません。でも、その『怖くない』ことがこの映画の一番の魅力になっているのです。
舞台は浅草、盆の入りにふと演芸場に入った中年男性が父親に瓜二つの男を見掛けるところから物語は動き出します。

「うちに来るか?」

男に誘われるままに付いて行った先には小学校の頃に住んでいたアパートがありました。部屋の扉が開いてひょいと顔を出したのは……

まぎれもなく、若い姿のままのお母さんでした。

そう、このシチュエーションなら怖くなくてもありなのです。いや、寧ろ胸が熱くなるような幽霊譚であるべきです。彼の持ち味を十二分に活かした名作で多くの人がネットのレビューで高い評価を付けているのも頷けます。

ゴールデンウィーク平日の最終日。今日、浅草に行ってきます。ラストシーンに出てきた今半(すき焼き屋)は予算の都合で行けませんが 演芸場で落語を堪能してくるつもりです。
そこで、懐かしい人に出会えたら……、ってそれはロマンチックが過ぎるかな

モデル

小説に出てくる人物、お店、できごとなどにはモデルがある場合があります。
特に人物やできごとと違ってお店は現存するものも沢山ありますから、興味もひとしお。僕の場合、それが食べ物屋さんだったらなおのことです。
かなり以前になりますが、北森 鴻の「屋上物語」を読みました。デパートの屋上が舞台の短編連作ミステリーなのですが、『さくらばばあ』というおばあさんがやっているうどん屋が出てきます。そのうどんがなんとも美味しそうなんですよね。
実はこの店のモデルは作者が明言しているので明らかになっています。池袋西武の「かるかや」。ちゃんと屋上にあるお店です。

「いつか東京に行くことがあったら、必ずあのうどんを食べに行く」

当時、関西に住んでいた僕はそう心に誓っておりました。ところが、関東に住んで一年。やはり近場にあるといつでも行けると思ってしまうのか、生来の出不精も手伝って未だに行けずにおりました。
せっかくのGWですし、家でごろごろしているのは勿体ない!! ということで、今日はうどんを食べに池袋まで行こうと思います(なんか、うどん代より往復の電車代の方が高い気がしないでもないけど)
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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