常識の行方

例えば引っ越しをして新しいマンションに入居したとします。
案内してくれた不動産屋さんは部屋の間取りぐらいまでは説明してくれますが部屋の中の設備の使い方について事細かに説明してくれるでしょうか?
部屋の中でピンポンという音が鳴ったら誰かがドアチャイムを鳴らしたということです。
コンロのこのボタンを押すと火が付きます。
家電製品は壁にあるこのコンセントに差してお使いください。
水道はこのバーを上げると水が出ます。
給湯パネルのボタンを押すと水道の水がお湯になります。
恐らくそんなことを解説してくれる不動産屋さんはいないと思います。それでも、「いちから説明してくれないと、暮らすのに困る」と感じる人はいないでしょう。なぜなら、そういったことは全てこの時代を生きる人間にとって肌に染みついた常識だからです。今更説明されなくても当たり前のことだからです。
でも、江戸時代の人が、いえ昭和の時代を生きている人でも今の時代にタイムスリップしてきたらどうでしょう? きっと、戸惑うことの連続に違いありません。それは我々も同じで100年後の世界にタイムスリップしたら使い方のわからない設備や道具に戸惑うと思います。
逆に、我々が江戸時代……いえ、昭和三十年ごろにタイムスリップしても同じこと。
コックをひねってもコンロに火が付かない⇒マッチで点火するだと
洗濯したいといったら波打った木の板とたらいを渡された。
電話の掛け方がわからない⇒ダイヤルを回すだと
音楽が聴きたいというと変な黒い円盤を渡された。
裁縫を手伝ってと言われてミシンのある部屋に案内されたけどミシンにコンセントが付いてない⇒このペダルを踏んで操作するだと
僕の世代は流石に使えますが今の十代、二十代ならパニックを起こしているかもしれませんね。かくいう僕もスマホを持っていないので、娘にいきなり渡されて使い方が分からずパニクったことがあります(いつの時代を生きてるんだか)
我々が常識と思っていることは存外に危ういものでその時代時代でしか通用しないものがたくさんあります。そして、かつては常識だと弁えていたことを我々はいとも簡単に記憶のかなたに追いやってしまいます。言われてみればそういうこともあったなぁと、思い出すことがどれだけ多いことか。
今、常識と信じていることもあと五年、十年すると日常から遠ざかってしまっているのかもしれませんね。
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自転車窃盗事件

今、大学時代の自分の暮らしをモチーフにした小説を書いておりまして、あんなことがあった、こんなこともあったと懐かしく思い出しながらメモを取っております。中でも、忘れがたい珍事は『自転車窃盗事件』と呼んでいるできごとでしょうか?
学生時代を岡山で過ごした僕にとって自転車はまさに生活の足。なくてはならない必需品でした。『耕助号』と名付けた僕の愛車は(場所が岡山でしたし、横溝正史の大ファンだったのでこのネーミングになりました)三度盗難に遭い、二度戻って参りました。と、聞くと「ああ、最後は盗られぱなしだったんだ」と思われても仕方がないのですが、社会人になって関西に戻ってからも僕はこの耕助号を愛用しておりました。

なぜなら、三度目の窃盗の犯人は僕自身だったからです

最初の盗難は、確か映画のチケットか何かを買おうとして鍵をかけずに数分放置していた際に発生しました。かなりショックを受けたのですが、その足で警察に行ってとりあえず盗難届を出しました。運の良いことに数日後、警察から「放置されているのが見つかりましたよ」と連絡があり、耕助号は無事戻って参りました。
普通はそんな目に遭えば注意して鍵をかけるものですが、僕は普通じゃなかったのでまたまたうっかり鍵をかけ忘れてほどなく二度目の盗難に遭いました。それから一か月ばかり過ぎても警察から連絡はなく、流石に新しい自転車を買わないといけないかなぁと思い始めていた頃、下宿を出て少し歩いた道端で発見したのです。紛れもない耕助号を。
どうやら、一度目の犯人は単に乗り逃げしただけだったのに対し二度目のは愛用していた模様。そんな窃盗犯には悪いけど(いや、悪くないって)、そのまま持って帰りました。
と、ここまでならめでたしめでたしという話なのですが、更に数日後、岡山駅に向かう途中で数名の警察官に呼び止められました。な、なにもやましいことはしてないんだからねっ。と思いつつ、ちょっとドキドキ。
「自転車の盗難防止キャンペーン中です。車台番号を確認させて戴いて宜しいでしょうか?」
ま、まずい。この自転車はいまだ盗難車登録されてるじゃん──。こういった場面で悪あがきしないのは今も昔も同じ。
「あの、すみません。これ盗難車です」
「?」
「でも、その盗難届出したのは僕なんです」
「??」
「だから、これは僕の自転車なんです」
「???」
要領を得ない説明がしばらく続いた後、ようよう事情を理解してもらえたのですが、「とにかくお近くの警察署まで」と連行されてしまいました。
たまたま免許証を持っていたのはまさに僥倖。それがなかったら、盗難届を出した本人だと証明するのはもっと難航していたかもしれません。とりあえず、盗難届の取り下げの手続きをして、ハンコを持っていなかったので拇印を押して、「今度からは見付けたらすぐ届けて下さいね」とお説教されて、「いや、もう今度とか起きて欲しくないし」と心の中でつぶやいたりして、どうにか釈放(をい)されました。
まさか、自分の自転車を盗んだかどで警察に連行されるとは。面白すぎるので酒の席などで折に触れて肴にしております。
しかし、あの時押した拇印は未だに警察に保管されているのでしょうか? だとすると悪いことはできないなぁ って、するなよ~

お弁当の重量

職場のランチを手作りのお弁当に切り替えてから早や一年が経ちます。今では、だいぶ手馴れて、お弁当作りも日常生活のルーティン・ワークの一つに収まりました。
先日、職場の飲み会でこんなやり取りをしました。
後輩「ちょっと、荷物になりません?」
僕「荷物になるというか重たいんだよなぁ」
後輩「え、どれくらいの重さなんすか?」
僕「2kgくらい」
後輩「ええっ、なんでそんなに重たいんです」
確かにお弁当の重量が2kgというと、どんな体育会系だよと引かれそうですが案外ちりつもになるんですよね。
2kgの打ち明けはこんな感じ。
麦茶のポット。450ml入りなのでポットの重量と合わせて500g。
ペットボトルのジュース。ま、これはお弁当に入らないのかもしれませんが500g。
スープポット。容量は300mlですが中身の比重は水より重く恐らく350g前後。ポットと合わせて400g強。
お弁当。500g強。
ということで合計約2kgとなってしまうのです。通勤の往きと帰りでえらく鞄の重さが違うのが笑えますが、ラッシュは往きの方が凄いのでもう少し何とかならんかと思案中。といってもこれから暑い夏を迎えるわけで水分補給関係は必須だもんなぁ。
勿論、ペットボトルを現地調達すれば済む話なのですが、近所のOKストアなら三ツ矢サイダーやカルピスのラインナップが1本68円なのです。自販機で買うと130円。ほぼ倍のお金がかかるので勿体なさ過ぎるんですよねぇ。
ま、一種の筋トレと思って頑張ろうかな

N先輩のこと

N先輩は一言でいうと我儘な人です。
職場でわりと一緒に仕事をする機会があったのですが、よく先輩の都合で振り回されたもんです。夜中の12時、1時に電話してきて、「今から見積もり一本作ってくれへんか」なんてことも一度とならずありましたし(まあ、こっちは深夜当り前のプロジェクトに入っていたのでプロジェクトルームに詰めている時間ではあったのですが)、「ええっ」という無茶振りをされることもしばしば。
最たるものは職場の女子が退職される送別会で、なぜか忘れましたけどドーナツを手作りする話題になって「よし、お前明日の朝、ドーナツ作って持って来い」と無茶振り。普通なら「ええ、そんなぁ」と笑ってごまかすところですが、その女子は自分がそれなりに天塩をかけて育てた後輩だったこともあり無下に断れない雰囲気。
帰宅したら午前様。それでも、作りましたとも。ドーナツは発酵待ち等がちょこちょこ発生するので1時間仮眠をとっては起き出して次の工程に入ると言った具合で夜明けまでかけて。
ま、結果から言えば彼女は凄く喜んでくれたから良いんですけどね。

N先輩についてもう一言説明を加えるとすればマイペースで人の言うことを聞かない人でした。
ヘビースモーカーであまりにパカパカ吸うので「もうちょっと控えないと体に悪いっすよ」と言ってもどこ吹く空。あまりにも常識外れな文章を書かれることがあったので、「ビジネス文書だったら普通こういう言い回しになりますよ」と言っても「そんな言い回し聞いたことないわ」と全面否定。まさに、「俺がルールブック」、「我こそは良識」と言わんばかりの人でした。

けど、どこか憎めないんですよね。その最たる理由は盛大に我儘だけど自己中ではないからなんだと思います。ドーナツの一件にしても辞めていく後輩に何か手向けをしてやった方が良えんちゃうやろか? と考えてのことですし。それを後輩に振って来るのはかなり迷惑ですが それに、わりと酷いことを言ってもケロッと忘れるし、ねちねち引っ張らないし、無茶振りしているのはわかってるみたいで、折に触れて「いつもありがとうな」と言ってくれるし。ま、一言でいえば毒がない人なんだと思います。

一昨日、そのN先輩の訃報が飛び込んでまいりました。丁度、職場のチームの懇親会の最中だったのですが、場は通夜に一変しました。
肺癌。検査を受けた時は末期だったそうです。部署が離れて会話する機会がうんと少なくなっていたのですが、そういえばこの頃見かけないなと気にはなっていたのです。

「だから、あれほど煙草を控えろって言ったのに」

と、益体もないことを考えかけましたが、省みて生きたいように生き抜けた人だったなぁと思い直しました。
専門学校卒の先輩は年は僕と同じ51歳。信長公とほぼ同じ享年です。告別式は大阪なので残念ながら行けません。で、弔辞代わりとばかりこれを書いております。
やせぎすでどこかサムライめいたその風貌を胸に刻みつつ。N先輩、どうか良い旅を。

繋がらない豊かさ

うちのマンションのオーナーさんのご厚意なのか、J-COMさんの営業戦略なのかわかりませんが、月額無料でケーブルテレビとインターネットの設備を付けてもらえることになりました。ありがとー

とはいえ、うちにはテレビがないので宝の持ち腐れ。昨日、契約に来たJ-COMさんにそれを伝えると「ええ、テレビないんだ」って顔されました
「あと、ソフトバンクと提携しているのでAUならうんたら、かんたら」
と、ご説明されたのですが、「あの、すみません。携帯も持ってません」というと、絶句。「そういう生活も良いかもしれませんね」とお褒めの言葉を戴きました(って、褒められたのだろうか?)。

「スマホがないと生きてはいけない」なんてことを言う人をちょくちょく見かけますが、「じゃあ、10年前ならあなた死んでたのね?」と訊いてみたくなります(いぢわる)。スマホも、携帯も、ポケベルも、パソコン通信もなかった時代に僕は大学生だったのですが、振り返るとあの頃の人の方がコミュニケーション能力は高かった気がします。
例えば、待ち合わせするにしても「××駅、●番出口の階段の下で、何時に」と事細かにいつ、どこでを伝達していましたし、「10分待って来なかったら先に行ってて」と代替手段も決めたりしていました。
なにより、コミュニケーションのオン、オフがはっきりしていたので、逢った後の余韻を楽しむこともできました。
駅の改札越しに恋人と「さよなら」と手を振り合った後、乗り込んだ電車の中で感じる寂しさ、切なさはあの頃ならではの感傷でした。今は電車に乗った後だろうが、駅から家に向かって歩いている間だろうがメールだのラインだのでいくらでも会話ができるので、全然さよならした気分に浸れないんですよね。なんか、情緒にかける時代になっちゃったよなぁ。

いつでも繋がるという文化と引き換えに我々は、想像力や一期一会を大切にする気持ちを喪した気がします。
繋がらない生活の豊かさを失いたくない──僕が携帯電話を持たない理由の一つは間違いなくそれです。

失敗する演技

タイトルが紛らわしいのですが、『演技が失敗する』ではなく『失敗する』演技です。
「太秦ライムライト」を観ました。名斬られ役、福本清三さん初主演作品です。
彼は元々大部屋俳優で一般に名前が知られる存在ではなかったのですが、探偵ナイトスクープで「いつも悪徳商人に「先生、お願いします」とおだてられて、ぬっと現れてはあっさり正義の味方に斬られるあの俳優さんは誰?」と取り上げられていきなり認知度がアップ。その後、ラスト・サムライで高く評価され今ではすっかり有名人になっちゃいました。

本作のストーリーは時代劇の衰退とともに、仕事を失っていく大部屋俳優たちというテーマを軸に映画制作の現場を丹念に描いた群像劇です。タイトルから推せるようにチャップリンの「ライムライト」へのオマージュという一面もあります。
ストーリー自体はありがちと言えばありがちなのですが、普段目にすることのない時代劇制作の現場はなかなか新鮮でした。そして何より福本さんの演技が良かった。「五万回斬られた男」の異名を取る彼の殺陣はさすがの一言に尽きるのですが、彼がキャメラに入るだけで場面がキリッと引き締まるんですよね。それに加えて、殺陣に失敗する演技が巧かった。
彼の役どころは腕に故障を抱えた老俳優で、度々肝心な場面で刀を取り落してしまうのです。スピード感あふれる真剣勝負の殺陣の中、全く不自然さがない失敗の演技。この人は本物の役者だなぁと舌を巻きました。下手な役者がやると如何にも「あ、失敗した」と言った絵になるところ、全身全霊で真剣に体を動かしていて剣を取り落してしまうその様に息を呑みました。

お芝居はそれが「お芝居だ」と感じさせられた瞬間、観客は一気に冷めます。「とても、芝居とは思えない」と思わせて初めて観客はその世界に引き込まれていくのだと思います。
多くの俳優が彼を斬ること(彼と組んで芝居をしたい)を望んだという理由の一端を見せつけられた気がしました。
ヒロインの山本千尋も数々の武道大会でチャンピオンになっただけのことはある迫力のある殺陣で楽しめます。
ぜひ一度ご照覧あれと言いたい、お薦めの映画です。

風呂水利用

わりとエコを気にする性分なのでリサイクルできるものはリサイクルするよう心掛けています。
洗濯も例外ではなく、うちの洗濯機はお風呂から残り湯を組み上げるポンプが付いておりますので、洗濯する朝はお風呂を入れてゆっくり浸かって残り湯を洗濯に回すというのが習わしでした。
で、なんで過去形で書いているかというと横浜の家は洗濯機とお風呂の位置が遠すぎてポンプが届かないのですね。なので、ホースは外して押し入れにしまってあります。関西に戻った時にちゃんと使えるのかな? ちと心配。

で、風呂水利用を諦めたかというととんでもない 百均でバケツを買ってきて毎回、人力で残り湯を運搬して風呂水利用しております。「なにもそこまでしなくても」と言われそうですが、利用できるものを捨てるのはやはり気が引けて、自分には「どうせ運動不足なんだから多少なりとも体が動かせると思ってやれ」と叱咤激励しております

バケツで水を運んでいると大昔に観た『少林寺』という映画を思い出します。主人公が厳しい修行を積んで少林寺拳法の達人になるというお話なのですが、その厳しい修行のカリキュラムの一つに「水を運ぶ」というのがありました。
「なんだ、一緒じゃん」と言うなかれ。映画の中の水運びは長い竿の両端に一斗樽のような桶をひっかけて、それにたっぷり水を入れて運ぶのです。水、一斗は18kgですから両端で36kg。更に長い竿分、梃子の原理で重さが増えますので数十キロはあるであろう水を担いで運ぶさまはなかなかしんどそうでした(って、拷問ではなく修行なのですが)。
そんな主人公の気持ちが少しわかるなとか不遜なことを思いつつ、今日も残り湯を運んで洗濯機を回し始めました。

横浜は快晴。洗濯日和です。

未読リスト

自分の読書傾向を分析すると、ある作家にハマると短期集中でその作家の作品ばかり読み漁るタイプだと思います。
で、コンプリートまでいくかというとどういうわけか70~80%くらいまで来たところで「もういいか」と思って突然ぱたりと読まなくなるんですね。
たとえば、中学時代に推理小説マニアになるきっかけを作ってくれたクリスティは記憶している限りで五十四冊読んでいます。なので、有名作はまず全部押さえていますし、そこそこクリスティを知っている人が無作為に作品名を挙げても大抵、「既読」と言えると思っています(彼女の長編は66作、中短編は150ちょいなのでこれが短編集にまとまっていると考えれば本の冊数は80-90の間です)。
なんで、コンプリートしないんだろう? と自分でも不思議になってその理由を考えてみたのですが、概ね三つの理由がありそうです。
その作家の全作品が把握できていなくて、未読があるのかどうかわかっていないままになっている。
ストーリーや結末を何かで知ってしまって読みたくなくなった作品がある。
お菓子の箱にちょこっとまだお菓子が残っていると妙に安心する心理。
特に三番目が強いのかなと思うのですが、好きなお菓子って全部なくなるとなんか寂しいじゃないですか? で、楽しみに取ってあるんだけど、いつまで経っても食べないなら何の楽しみかわからなくなっちゃってるという ただ、眺めているだけじゃお菓子は美味しくもなんともないのにね。
二番目の最たるものは映画化、ドラマ化されたものを先に見ちゃった場合かな。強烈な感動を覚えたら、「原作も読んでみよう」と思うことはありますが、大したことなかったらなかなか手が出なかったりします。なので、できるだけ気を付けて読書を先にしてから映画やドラマを観るようにはしています(映画やドラマは2時間くらいで強制的に終了しちゃうので僕には忙しなく感じられるんですよね)。
で、一番目の理由。昔と違ってネットが発達して様々なコンテンツが登場したお蔭で比較的容易に「作者の全作品リスト」は手に入るようになりました。有名作家ならWikiPediaを引けばまず、作品リストが載っています。なので、この理由は今ではちょっと手間をかければ解決してしまう要因になりましたね。

ということで(なにがだ?)、二番、三番はさておき、一番についてはお気に入りの作家の未読リストをいっちょ作ってみようかと思い立ちました。もう何十年もコンプリートしていない作家の全制覇を近日達成してしまうかもしれません

ロングバケーション

長かったGWも今日が最後、いろんなところに行ったし(皇居の周りを散歩とかともかくお金のかからないところばかりだったけど)、楽しかったな。
毎日が充実していた要因の一つは早起きの習慣がしっかりついているからかもしれません。基本は5時起きなのですが、早ければ4時台に起きちゃってたもんな。それから、このブログやレシピ日記などを書いていてもせいぜい八時までにはその日にやるべきことが終わるので後は自由時間、皇居に行ったり都内の温泉に行ったりしていました。
逆に反省点は全体を通して何日に何をやるという計画が立てられていなかったこと。すごくアバウトに行動していました。今回は一週間程度の休暇なのでそれもありでしたが、今年は会社からリフレッシュ休暇(2週間)というのがもらえる予定なんですよね。漠然と箱根辺りに行きたいという想いはあるのですが、もうちょっと計画立てて動いた方が良いかな?
とまれ、十分充電できました。明日からは頑張って仕事しよ~

生きたい

るろうに剣心、最終話『伝説の最期』を視聴中(半分くらい見たかな)。
少しネタバレになりますが、奥義を会得するために剣心に欠けているものという問答がなかなか興味深かったです。
なるほどね。命を賭して捨て身で人を守ってもダメ。本当にそれで剣心が死んでしまったら、守られた人はその守られたこと自体が一生の傷になる。敵と戦って尚、守るべき人とともに生きたいと望む強さが必要だと。至言ですね。

人は死に直面すれば「死にたくない」と普通は思います。自暴自棄、開き直り、諦観といった感情が時には達観と錯覚させられることがありますが、そういう人たちに対してでも「あの、まだまだ生きられるんですけど、どうします?」と聞いたらまず間違いなく「死にたくない」と答えるでしょう。でも、案外いない気がするんですよね。「生きたい」と望む人は。

「死にたくない」と「生きたい」は一見同義のように見えます。でも、生きながらえた先でその人がどういう行動をとるかを見ていると歴然と差がでると思うのです。なぜなら「死にたくない」という言葉には動機が感じられないけれど、「生きたい」という言葉の背後には明確な動機があるように感じられるからです。
例えば難病に罹った人が新薬のおかげで命拾いしたとします。病気にかかった時は「死にたくない」と思うでしょうし、命拾いすれば「助かった」と感じるでしょう。でも、それからあと十年。漫然と生きて亡くなったとしたらどうでしょう? 客観的に見れば難病に罹った時に死んでいても何も変わらなかったのでは? と思われても仕方がありません。
病気にかかった時に「生きたい」と強く想って、命拾いしてから「生きたい」と願った動機を全うして初めて延命してもらった値打ちがあるんじゃないでしょうか?

これは何も病気の人だけに関わる喩え話ではありません。全ての人に対して言えることです。
百年後の世界から見れば、今生きている人達はほぼ死に絶えていてその人が何歳まで生きるかもわかっています。我々は誰もが自分の寿命に向かってカウントダウンを唱えながら生きているのです。
手塚治虫の「火の鳥~ヤマト編~」に通ずるテーマですが、生きがいを見出して「死にたくない」ではなく「生きたい」と想える人生を歩きたいなと思います。無為に終わる日があっても、明日夜が明けたらまた歩き出す、そんな生き方をして初めて自分の生に何らかの価値が見いだされるんじゃないでしょうか?

仮面舞踏会

一昨日の話の続き。
若者の●●離れにインターネット技術を背景にしたマイノリティーの台頭(ヲタクでもそれほど白眼視されなくなったとか)があると述べましたが。そのプロセスを考察するとインターネットの興味深い特性が一役買っていることが見えてきます。
例えば、ネットの掲示板でこんな会話がされたとします。
実は俺、ちょっと美少女アニメとか好きだったりして
ええ、それってちょっとヲ●クっぽくないですか?
いや、そんなんじゃないって、夜ヒマしてるとテレビとか付けるじゃん。で、たまたまやってたらつい見入ってしまうとかそんな感じ。
あ、わかるわかる。で、気が付いたら30分過ぎていると
わしも、この前終電で帰った時テレビ付けたらやってたんやけど結構おもろいよな。
あるあるネタっすね。僕もそれですっかりハマっちゃって、今ではすっかり××フリークなんすよ。
あ、だったら来週アキバでイベントやってるよ
いや、ちょっと流石にそれに行ってしまったら●タクっしょ
そんなことないって、全然普通のリーマンなんかも来てるよ

この掲示板に書き込みしている人達が実は全員ヘビーなヲタクさんで、ばっくれてこんな会話をしているということだってあり得るのですが、この書き込みだけからは窺い知ることはできません。散々言われてきていることですが、インターネット掲示板やSNSの大きな特徴の一つは匿名性です。この匿名性がなかったら(つまり、誰が発言しているのか実名で分かってしまったら)、マイノリティーの台頭がこれほどのスピードで進行することはなかったと思います。
匿名で掲示板に書き込めるから本音が言い易い、面と向かっては言えないことも言える。で、自分の発言に対する反応を見てみると意外にネガティブな意見が少ない、それどころか同じように考えていた人がたくさんいたことに気付く、なーんだ意外とマニアっているじゃん。別に言うほど恥ずかしがることじゃなかったじゃん──と、今まで見えてなかったことが見えてくる。こういうプロセスを踏んでマイノリティーな人達は徐々に発言や行動をオープンにし、「僕はこういう生き方なんだ」と開き直れるようになってきたのだと思います。

気持ちを開放的にして素直に発言できるのが匿名掲示板のメリットではあります。そのメリットを享受して人目を過度に気にせず、自分らしく生きられるようになった人も大勢いると思います。けれど、メリットがあればデメリットもあります。それは掲示板でのコミュニケーションは現実のコミュニケーションにはなり得ないこと。程度の差こそあれそこでは誰もが着飾り、虚勢を張り、嘘を吐く。シンデレラが実は深窓の令嬢ではなく屋根裏住まいの貧しい少女だったように、それでも舞踏会の会場ではそれを見抜けずに男達が競って彼女にダンスを申し込んだように。私達は掲示板に書かれた言葉が本当のことを言っているのかどうか見抜けないのです。
インターネットが商用化されて二十年以上経ちました。MIXIができて約十年。匿名性がもたらす明と暗については散々話題に上り、それが如何に危ういかも多くのネット住民に浸透してきていると思います。その明と暗をわきまえた上で如何に上手に踊るか? それがこの仮面舞踏会に列席する我々のこれからの課題なんじゃないかなと思います。

痩せゆく男

キング原作のホラー映画に「痩せゆく男」というのがありました。
ジプシーの老女を車ではねて死なせた弁護士が不正な審理で無罪を勝ち取るのですが、裁判所から出てきたところでジプシーの長が待ち構えていて呪いの言葉を一言耳元で囁かれるのです。

「痩せていく」

元々、肥満を気にしてダイエットに勤しんでいた彼ですが、なぜかその日から順調に痩せていきすっきりした体型に変貌。それを喜んでいたのもつかの間、体重の減少が止まらないというこわ~いお話です。

予想はしていたのですが、長い休暇に入って時間が空くと自分は料理をしてしまうのです。で、単身赴任の身ですからできた料理は全部自分が食べちゃうのです。
結果、1.5kg太った
誰か3kg限定くらいで痩せる呪いをかけてくれないかな? なんて不埒なことを考えてしまう今日この頃。って、食べる量をコントロールして運動しなはれ。

●●離れ

「若者の●●離れ」というアンケートをネットで見かけました。曰く
活字離れ
クルマ離れ
テレビ離れ
恋愛離れ
お酒離れ
原因についてはいろんな意見があるでしょうけど、80年代に大学生だった自分が当時を振り返ると、あの頃は「大人になったら●●しなくちゃ」とか「大人になったのに●●しないの?」という風潮のものがやたらあったんですよね。酒、たばこ、恋愛、スキー、ドライブetc. で、興味がないと言うと変人扱い。「なんで? どうして? 信じらんない~」と、周りがうるさかったものです。

21世紀になって少しずつ少しずつ、それまで白眼視されてきたマイノリティーな人達が開き直り、自己主張する風潮が現れました。顕著なのは●●ヲタクと言われる人達ですが、誤解を恐れずに言えば性同一性障害の人達が一般に認知されるようになったのもそういったムーブメントの一つではないでしょうか?
これは当人達の勇気と周囲の理解の両方があって初めて成立することですが、浸透してしまえば案外に慣れてしまうから不思議です。二十世紀の頃、自分がヲタクであるなんてカミングアウトしようものなら迫害必至でしたが、今逆にヲタクだからという理由で人を軽蔑したり差別しようとする人がいればその人の方がKYと言われそうです。
じゃあ、二十一世紀に入って人に対する思いやりや理解に溢れた人が増えたのかと言えばそうとも言えないような気がします。
このムーブメントの通奏低音になっているのは恐らく「他人は他人、俺とは関係ない。俺に迷惑が掛からない限り何をしようが気にならない」という感情じゃないでしょうか?
なんでもかんでもネットのせいにするつもりは毛頭ありませんが、あきらかにインターネット技術の発達によるFace to Faceコミュニケーション(顔と顔を合わせたコミュニケーション)が希薄になったことが原因の一端となっているのは間違いないと思います。ネットを使ったコミュニケーションは所詮ブラウン管(死語か?)の向こうのテレビの番組を見ているようなものです。いくらリアルタイムで繋がっているように感じても直に触れることも触れられることもありません(貞子じゃないんですから)。そういった文化に慣れ親しんでしまうと「面倒になればパソコン(スマホ)の電源を切れば良い」と安直に思うようになります。そんな思いが高じると「俺に迷惑がかからないんだから、別にどうだって良いじゃん」という想いに繋がっていくんじゃないでしょうか?

このムーブメントは二十世紀の頃にあった「大人になったら●●するものでしょ」という多くの呪縛から若者を解放してくれました。それは福音だと思います。ただその代償に、あの頃にはあった生のコミュニケーションが希薄になっているのが気になります。確かに人と付き合っていると面倒この上ない局面に遭遇することが多々あります。それでも、人はその局面を乗り越えることで自分と価値観の違う人がいることを本当に理解し、共存する道を探るようになるものです。
「だって、人と付き合うのは面倒臭い」と呟いて電源を切ってしまったらそこから生み出されるものはなにもありません。あと十年、もう二十年、未来に待ち受けているぼんやりとした暗雲を想像するともろ手を挙げて歓迎して良いムーブメントとも僕には思えないのです。

続けることの難しさ

『るろうに剣心 京都大火編』を鑑賞しました。
前後編の前編ですから、ここまでで評価してはいけないのかもしれませんが、ひとことで言うとストーリーがグダグダでした
例えばクライマックスで志々雄一派が京都に火を放とうとするのですが、大勢で街を練り歩いてきて警察と正面衝突したりする。本気でテロを企てているのなら、これだけの人数がいるなら小部隊に分散して街のあっちでもこっちでもこっそり&一斉に火を放った方が効果的なのは小学生でもわかります。なのに、「何、この正々堂々とした放火は?」。あからさまに火を放つのが目的じゃなくて大乱闘のチャンバラをすることが目的なのでは? と疑ってしまう
肝心のチャンバラのシーンも無駄にメインキャラが増えちゃっているのでカットでつなぎまくって「はい、次は××の見せ場です」っていう見せ方になっている。政見放送じゃないんだから とツッコミをいれたくなりました。場面がカットで切れちゃうのでテンションがその度に分断されてイマイチ盛り上がれないんですよね。ここは市川崑式に画面を分割して同時に見せるとかもうちょっと工夫してほしかったな。

ストーリーについて言えば一作目の方が数段良かったように思います。
人気が出たシリーズものの宿命なのですが、作品を書き始めた頃に想定していた物語の着地点まで行っても終われない(読者が続きを期待する)というのがありますよね。仕方がないから続きの話を考えるのですが、ストーリー構成は最初に想定していた着地点までの構成に比べてどうしても粗が出てきます。加えて登場人物にも新設定や追加のエピソード(実は過去にこんなことがあったとか)を用意したり、新たな登場人物を考案したりするのですが、えてして場当たり的でパッチワークのようになってしまいます。
同じ少年ジャンプの北斗の拳や魁男塾などが典型ですが、『最強の男』に勝利したと思ったら「実はあいつはまだまだ下っ端で……」って、もっと強いやつが現れるという展開の繰り返しとか。
原作は飛び飛びにしか読んでいないので推測で物をいうのは良くないのですが『るろうに剣心』も長くシリーズを続けるうちにそういった一面を持っていたのではないでしょうか?

物語が面白ければ続編を望むのは読者の性です。それに応えたいと思うのは作者の心意気です。でも、その続編は一作目とは別の話として書かれるべきだと思うんですよね。設定を一旦白紙に戻して真っ白な紙に一から書き直すような気構えが必要ではないかと思うのです(ホントに全く別物を書いたら怒られますけど)。読者もそこは前作とは別の話だと心得てページを開くべきではないでしょうか?
前作を一旦忘れて2作目にあたる本作を一本の独立した映画として観るとやはり中途半端な出来と評さずにはいられません。一作目から作り上げてきた登場人物の魅力に胡坐をかいて、やたら派手なアクションシーンで物語の薄さを補おうとしているように見えてしまいます。
ということで、三作目に期待することにしましょうか(ここまで言っても続きを観るのが僕の心意気)。
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
↓こちらもよろしく!!
http://diningg2011.web.fc2.com/index.html

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