自縄自縛

夜半、寝苦しくてようやく気づきました。

「羽毛布団を被って寝ている」

もう7月ですよ~ 僕はどうも生活習慣をルーティンワークに落とし込む癖があるようです。それ自体は悪いことではなく、無思考でも家事や片付けが進行するので非常に効率的です。でも、無思考になるあまりひとつひとつのワークに対して疑問を抱かなくなるんですよね。特に季節に合わせて変えないといけないワークは要注意です。
ほっとくといつまでも冬物を着ていたり、逆に雪が降る季節に薄着でいたりして、くしゃみを連発してようやく気づくなんてこともしばしば。とまれ、羽毛布団は片付けましょう。

自分で自分を縛るのは何も生活習慣だけでなく、執筆活動でもしばしばやらかしてしまいます。例えばヒロインは主人公より1歳年上、という設定を最初に設けたとしましょう。プロットをいろいろ考えていく上で、彼女の年齢をあと三歳若くしなくちゃという状況に陥った時、だったら主人公の年齢も三歳下げなきゃとやってしまうのです。すると主人公は高校生、けど中盤でバーで酒を飲むシーンがあるじゃん。どうすれば良いんだ~ と悩みまくるのです。
……、ヒロインが主人公より1歳上という設定に深い意味はなく、彼女の年だけ下げれば良いじゃんと気付くのは、だいぶ経ってからになります
かつて、作中に出てくる一発ギャグだけのために作品の年代設定を固定化してしまい、あちこち矛盾が出て来て七転八倒したこともありました。「あ、そうか。このギャグを止めにして、年代設定を外せば全部解決するじゃん」と、気づくまでにどれだけの時間を要したことか。
多かれ少なかれ人は先入観に囚われる生き物です。そしてその先入観という縄をなったのは他でもない自分自身です。今も目に見えない縄を営々とない、せっせと自分で自分を縛るのに余念がないもう一人の自分がすぐそばにいるのを肌で感じています。
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理系には向かない仕事

数年前に評判になった「シュタインズ・ゲート」というアニメを鑑賞中。
いわゆるタイムマシンもので過去に向かってメールが打てる装置を主人公たちが開発したという設定。例えば「絶対当たるからこの番号で買え」とロトくじを薦める──なんてのを皮切りに過去の自分の行動を操作して歴史を変えていくストーリーです。で、歴史が変わると本来「あったこと」も人々の記憶から消えてしまう。そんな中、主人公だけがその記憶を持ち続ける特殊な能力を持っていて、徐々にに良心の呵責に苛まれていくという展開になります。
この作品のタイムマシンやタイムパラドックスの設定はちょっと冷静に考えればツッコミどころ満載で粗もあり、「そこはご都合主義が過ぎるんじゃない?」と言いたくもなるのですが、適度にオブラートにくるまれていてフィクション(お話)としては結構よくできているように思います。

実は僕もタイムマシンものの腹案を抱えていて、ここ数か月原稿用紙に向かって四苦八苦しております。書いていてつくづく邪魔だなと思うのは意外に聞こえるかもしれませんが『理系的発想』なのです。僕は工学部出身でシステムエンジニアとして30年近く仕事をしてきたバリバリの理系です。なのであらゆる事象に対して合理性を求め過ぎるきらいがあるのです。事象には全て原因があるのですが、その因果関係がご都合主義だと、たとえフィクションでも許せないと感じてしまうんですよね。結果、あっちを立てればこっちが立たない、こっちの穴をふさいだと思ったら、思わぬところに穴が開いて水がピューッて吹き出す。そんなコントのような執筆活動を強いられております(いや、笑いごとじゃないんだけど)
もし僕がもっと文系脳だったならば、「ま、細かいことは気にしないでおこう」と考えられたんじゃないかと益体もないことも考えてしまいます。現実の科学の世界ではそんな発想は許されるべくもないのですが、あくまでも今やっているのは創作、フィクションの世界の構築ですのでそういった大らかに大局を見据えたマインドもあり……というか必須な気がするんですよね。
SF作品も長編になるとディテールの世界観設定を必要とします。その世界観を設計するにあたってはリアル過ぎる理系脳ってつくづく邪魔だなぁと痛感している今日この頃です。

世界最後の日

今日が世界最後の日であるならば、あなたは何をしたいですか?

たまに見かけるフレーズです。推理作家の倉知淳はこれを推理のヒントに使っていましたね。
ラジオ番組でこの問いを受けたアイドル歌手が「遊園地に行って思い切り遊ぶ」と答えたのに対して、「じゃあ、遊園地のスタッフは世界最後の日に遊園地で働かなければならなくなる。社会が機能するためにはその機能を運用するために働いている人がいるという想像力が欠けている」と揶揄しています。
ある学校の先生は生徒たちにこの問いを投げかけます。生徒たちは思い思いにやってみたいことを口にします。それを聞いていた先生はこう言いました。

「なら、今それをやったらどうだろうか?」

至言ですね。やりたいと思っていることがあるならば、やれるうちにやっておくべきだと僕も思います。
まあ、世界最後の日が僕が生きているうちにやってくることはまずないでしょうが、人生最後の日は誰にでも必ず訪れます。「良い人生だった」と笑って言うためには心がけておくべきことの一つだと思います。
ただ、毎日これを考えて暮らしているといささか窮屈な気がするのも事実です。日々の雑事に追われる中で「今日が人生最後の日かもしれないから」などといちいち考えていられません。そこで一つ提言。こんな風に考えてみたらどうでしょう?

「今日、明日に自分の人生が終わることは多分ない。でも、来年の今頃、僕はもうこの世界にいないかもしれない。今過ごしている夏は僕にとって最後の夏かもしれない」

こう考えると今日でなくても次の週末あたり重い腰を上げてずっとやってみたかったことに挑戦している自分がいるかもしれません。

あこがれのおかず

スーパーで買物をしていてふとこれが目に留まりました。
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♪マルシン、マルシン、ハンバーグ
子供の頃から耳にタコができるくらいCMソングを刷り込まれてきたあれです。半世紀生きて来て、そういえば一度も食べたことがないなぁと思ったら何だか切なくなって思わず衝動買いしてしまいました
僕が子供の頃にはまぎれもなく『憧れのおかず』というのがありました。「今夜は××よ」とお母さんに告げられるとそれだけで胸が躍るような食べ物が確かにありました。それはハンバーグであったり、カレーであったり、餃子、唐揚げ、コロッケ──なんだか肉が入ってる料理が多いですね。シーフードはイマイチ人気がなかった気が……ま、子供だからそんなもんか。

今の子供たちにはあるのでしょうか? 『憧れのおかず』。

僕にとって『憧れのおかず』の前提条件は家族(主にお母さん)が作った料理なんですよね。だって、市販のお惣菜ならお金を出せばいつだって、毎日だって食べられますから。家で作るものだから毎日は食卓に出てこない。たまにしか登場しないから憧れるのです。両親が仕事に出ていて夕食は主にスーパーやコンビニで買ってきたものという生活をしなければならない子供たちはちょっと気の毒な気がします。だって、夕飯を自由に選べてしまうんですから。好きなものだけ買って好きなものだけ食べるというのは一見素晴らしいように見えますが、見方を変えればつまらない食事でもあります。
嫌いなおかずが続いて「あれが食べたい」、「あれが食べたい」、「あれが食べたい」と思い続けていて、ある日お母さんに「今夜は××よ」と言ってもらった時の嬉しさ、喜び、カタルシス 今日、家に帰ったらあれが食べられると思うだけで一日ワクワクした気分で過ごせるというものです。
捻くれた見方をするとスーパーやコンビニのお惣菜がつまらなくなった理由の一つは、普通に美味しくなってしまったからです。僕の記憶では昔の市販のお惣菜って残念な感じのものもあった気がするのですが今日日は企業努力のたまものでかなり本格的で美味しいです。お母さんが作るやたら醤油辛い煮付けや、ダマができてしまってるクリームシチューや、半分焦げてる焼き魚なんてものは売っていません。日によって味が変わるということもありません。まるで一年前から何をもらえるか予告されているクリスマスプレゼントのように封を切る前からどんな味かわかっているものばかりです。贅沢な不満だとは分かっているのですが、何度か食べていると飽きてきます。
ふり返ってみると、お母さんが作る料理はいつも子供の想像力を刺激してくれていました。たまにびっくりするくらい不味くても、たまにびっくりするくらい美味しくても、「今日はどうだろう? どんなおかずが出てくるんだろう?」と好奇心を掻き立ててくれる料理でした。

暮らしのありようが変わって、不景気が続いて、両親が働かなければ生活できない家庭が増えているのは不幸なことです。それゆえ、家族でいっしょに夕飯が食べられないのは寂しいことです。不遜な考え方かもしれませんが三丁目の夕日のようなつましい生活をすれば、今でもお母さんはいつも家にいて家族で過ごす時間ももっと増やせるんじゃないかなと思うことしきり。我々日本人がいつの間にか喪失してしまった夕食の存在は思いの外に大きい気がしてなりません。

電車男の幻想と現実

久しぶりに懐かしいDVDを引っ張り出して来て鑑賞。
『ドラマ版 電車男』です。
初めて見た時は嫁や娘達と一緒で、娘達は大笑いしてましたっけ。嫁はクールな人なので「こんなこと現実にあるわけがない」と端から否定的。いや、実際あの書き込みがどこまで本当だったのかはわからないけど電車男とエルメスの進展が注目を浴びて2ちゃんねるが大いに盛り上がったのは事実なんですよ。
改めて観てみてもよくできているドラマです。笑わせどこ、泣かせどこのツボをきちんと押さえていて鑑賞者をぐいぐい牽引していく強い力を感じます。その力の源は主人公の電車男とエルメスではなく寧ろ、彼らを応援する脇役のネットの住民たちなんですよね。このドラマは情けないヲタク君がとびっきりの美人と恋人同士になるサクセスストーリーではなく、彼を励ましたり叱ったりしながら自分自身も成長していくネットの住民たちによる群像劇と捉える方が正しい気が僕はします。よく高橋留美子の名作と比較されて「平成のめぞん一刻」と呼ばれたりするのもうなづけます。もし「めぞん一刻」に一之瀬さん、四谷さん、あけみさんが登場しなかったら、ひどくつまらない話になっていたと思うのです(単に五代、三鷹、響子さんの三角関係ラブストーリーですよね)。電車男もネットの住民たちのさまざまなつぶやきが鑑賞者を引っ張っていく牽引力となっていて、いつしか鑑賞者自身までネットの住民の一人になって電車男を応援している気分になれるのです。

なぜ、自分はあのドラマに出てくるネットの住民たちに惹かれるのか考えてみました。たどり着いた結論はちょっと意外なのですが「彼らが無責任だから」というものです。誤解を生みそうな単語を使ってしまいましたがここでいう無責任はネガティブな意味ではなく電車男と彼らが赤の他人であり、彼らは電車男に対してなんら責任を負うことがないというほどの意味です。
責任を負わないが故の揶揄や叱責、責任を負っているわけではないのにかけられる叱咤激励。赤の他人であるにもかかわらず、まるでわがことのようにお節介を焼く彼らに感動してるんだなぁと気付きました。
更に突き詰めて、なぜ彼らはわがことのようにお節介を焼いたのでだろうと考えてみました。それは彼ら一人一人も様々な屈託を抱えていてそんな屈託から抜け出したいと日々考えていたからだと思います。電車男の恋は彼らにとって一つの幻想でした。自分以上にヘタレなヲタクがとびっきりの美人に恋をした。もし、この恋が叶ったらどうしようもない日常から変わっていけることもあるんだと信じられるかもしれない。そんな幻想でした。だから最初はからかい半分、遊び半分だった彼らが電車とエルメスの距離が少しずつ少しずつ縮まるにつれ真剣になっていったのです。最初は掲示板の中の幻想に過ぎなかった電車男の恋がどんどん現実味を帯びていきとうとう本当に結ばれた。もしかして、自分も変われるんじゃないのか? 電車男の魅力とは幻想を現実のものにしたいと願う多くの人の夢なのかもしれません。

「適当に」が苦手

長女の素行が悪くて手を焼いております。と、言っても不良に走るとかそういうのではないのですが、極端に面倒なことを嫌うやつなのです。宿題はしない、勉強はしない、部活動(テニス)も適当に手抜きをしているように見えるし、バイトも長続きしない。暇さえあれば、ベッドの上でゴロゴロしながらスマホをいじっているのです。
彼女の行動原理にあるのはどうやら「横着」のようで、ずっと楽をして面倒事から逃げて生きていたいという気持ちが透けて見えています。ホント、誰に似たんだか。

僕は何事も「適当に」というのが苦手で、何かを始めたら徹底的にそしてずっと続ける質なので理解に苦しみます。
「横着」って一見楽ちんに見えますが、やってて楽しくないんですよね。何をやるにせよ達成感を得ようと思うとその過程で試行錯誤したり、苦労することが必要なのです。プロセスがしんどいからこそ、達成できた時にそのしんどさとのギャップでカタルシスが得られるわけです。何につけ適当にしかやらなければ到達できるゴールもしょぼくて「達成した」という気分になれませんし、下手をするとゴールすらできません。それって、何も楽しくないし損な生き方をしてるよなぁと感じてしまいます。

「横着」をかます人の心理には報われないのは嫌という想いもあるのかもしれません。確かにスポーツでも芸事でも基本は報われないこととの戦いです。自分より才能のある人はどんなジャンルにもいますし、その人達は傍から見ると適当にやっているだけなのに結果が出せてしまっているように見えます。でも、それを妬んだり、羨んでも仕方がないことを知るべきです。ましてや、それを見て馬鹿馬鹿しくてやってらんないと、投げ出すのはとてもつまらないことだと思うのです。
真のライバルは他人ではなく「昨日の自分」だと知るべきです。元々、才能も下地も違う人間同士を比較することに意味はありません。才能も下地も同じ自分同士、「昨日の自分」よりできるようになった「今日の自分」がいればそれは本当に成果が出せたということです。実際にはそう簡単に成果は出せなくていつまで経っても昨日と同じ自分であったり、下手すると昨日よりできなくなった自分だったりもします。それでも、諦めずに、投げ出さずに、前に進めるそんな資質がスポーツや芸事には必要だと思います。

俳優の川谷拓三さんはずっとずっと大部屋俳優で仲間の多くは役者を辞めていく中それでも辞めなかった人です。「いくらやったって無駄だって、もう辞めようぜ」と、一度ならず声をかけられたこともあったそうです。それでも何十年も役者を続けて、やがて主役を務めることもある名脇役に成長しました。その高みに辿り着けたのは、決して適当に仕事をしない真剣さと決して諦めない執念だったと思います。
かくいう僕も、中学の頃から小説を書いていて、何度も公募に落ちて「才能がないのかな」と落ち込みつつ、それでも辞められずに四十年を過ごしました。そして去年、初めてラジオドラマの原作公募で次点を受賞して賞金を戴き、「お前の小説は金を払って読む値打ちがある」と言ってもらえました。
これだから、僕は「適当に」やるというのがやっぱり苦手で、やるなら徹底的にと思っちゃうんですよね。

強迫性障害

程度の差こそあれ、誰しも気になって仕方のないことってあると思います。
外出していると家に鍵をかけ忘れたんじゃないか? ガスを止めて出たっけ?とか
ニュースを見ていて自分も同じように誰かの加害者になるんじゃないか? あるいは逆に被害者になるんじゃないかと不安になったり。
医療ドラマを見ているとこんな病気にかかったらどうしようとか。
その原因は自意識過剰の延長線上だったり、単にそういう性格だったりするもので、程度もちょっと神経質かなと思うものが大半です。が、行き過ぎると生活に支障を来す場合もあるらしく、そうなると立派な(?)病気になります。これらの病気の総称を「強迫性障害」というのだそうです。
かくいう僕も財布の中身が気になるという困った性癖があります。お昼ご飯を食べるため銀行によってお金をおろしたとしても、お店に着くまでに最低2度くらい財布の中身を確認してしまいます。いや、どう考えても1分前にATMからお札を出して財布に入れたでしょ? と頭では分かっていてもやってしまいます。お店の前でお財布の中身を確認してから入店するのって、まるでお店のメニューを見て慌てて財布の中身と相談しているみたいで傍から見るとけっこうみっともないと思うのですが、やっぱり不安になってやってしまいます。この行動の根源は支払いの段になってお財布にお金が入っていなかったらどうしようという不安から来ているのですが、さっき銀行に寄ったんだし理詰めで考えれば不要な行為。やっぱ、少し病的ですね。
唯一、お財布を確認せずに入れるのは先払いの食券制になっている定食屋さん。これは券売機の前でお財布を開いてお金がなければ「ども、失礼しました~」と言ってお店を出れば済みますから安心です。
治せたら良いなぁと思う反面、治ってしまったらお財布を確認しなくなるから、いつか本当に無銭飲食してしまうのでは? と不安におびえる自分がいてます。って、こんなことを考えているうちは治らないでしょうねぇ

外呑みの理由

不況続きで飲食産業は厳しい状況が続いているようです。僕も昔は週の半分くらい居酒屋の席を温めていたものですが、最近はすっかり足が遠のいて月に2、3回程度。あとは、もっぱら家呑みです。(って、そもそも呑まなきゃもっと家計が助かるんですけどね)
それでも、僕は居酒屋で呑むのが好きです。外呑みのメリットは人それぞれで感じるものが違うでしょうけど、僕の場合は人とのコミュニケーションが得られることかなと思っています。ただ会社と家の往復をしているだけだったら絶対知り合うことのなかった多くの友人を僕は居酒屋で得ることができました。異業種のサラリーマン、医者、大学教授、職業不詳の謎の酔っ払いなどなどまるで小説か映画の中のできごとのようにバラエティーに富んだ登場人物と他愛のないおしゃべりを楽しめたことは何物にも代えがたい経験です。(普通に暮らしていたら医者や大学教授と文学論をぶつなんてシチュエーションはあり得ないですよね)
そして、人の数だけドラマを目にしてきました。波乱に満ちた生い立ち、子供のことで悩み、夫婦のことで悩み、時に嬉しいことがあれば笑い、カウンターで涙を流す人もあり、粗っぽい口論も一度ならず観てきました。こちらは小説や映画では得られない生々しい臨場感付きです。何しろ僕自身がスクリーンの中に入り込んで登場人物の一人になっているのですから。
同じ映画で例えるなら、居酒屋は映画館で観る映画のようなものです。人によったら「どうせDVDが出るだろうし、家で一人で観るよ」という向きもあるかと思います。けれど、やっぱり映画館は独特です。大勢の観客で泣いたり、怒ったり、笑ったり、一人で観ているより何倍も感情が大きく動くのです。映画館のシートを温めていると人の感情って感染するんだなぁと実感します。居酒屋も同じで家で一人で呑んでいるより何倍も気持ちよく酔えるのは他の客たちと感情が共鳴しているからなのだろうと思っています。

確かに料理と酒の料金だけを比べれば家呑みの方が数段安くつくのは明らかです。それでも、人と触れ合い、損得抜きのおしゃべりを楽しみ、人脈を形成していく料金だと思えば、戴く料理も酒も居酒屋の方が家呑みよりずっと格安だと思うんですよね。

フー・アー・ユー

闘病生活を続けておられた加納朋子さんの久しぶりの新刊が出ました。
『トオリヌケキンシ』
六本が収録された短編集です。この本のレビューはまた改めて。中の一作「フー・アー・ユー」は特に気に入ったのですが小説の出来もさることながら主人公が抱える障害に目を惹かれました。

相貌失認

聞き慣れない名前ですが、人の顔を判別できない脳の障害です(先天性のものと後天性のものの両方あるらしい)。程度にはかなり差異があるらしいのですが重度になると自分の顔の判別もつかないそうです。どういうこと? って、聞かれそうですが。たとえば、自分の顔写真を含めた複数の顔写真を見せられてもその中から自分の顔を選べないということです。作中の譬えでいうと、目の前にアイドルが立っていてもお婆ちゃんが立っていても同じに見えちゃうらしいんですね。
で、なぜこの病気(病気なのかな?)に目を惹かれたかというと、僕がまさにそれだからです。僕は記憶力は悪くない方です。むしろ、人より図抜けて良い部類だと思っています。なのに、子供の頃から人の顔だけは覚えがすごく悪くてちょっとした悩みでした。
「おひさしぶりです」と声をかけられても、「この人誰だっけ?」となることはしょっちゅう。お蔭で適当に話を合わせながら愛想笑いするのが上手になりました
学生時代にベルボーイをやっていた時は、目の前にいるのがチェックイン済みの客か(既に会ったことがある客かどうか)わからず苦労しました。「おかえりなさいませ」と言うべきか「いらっしゃいませ」というべきか悩ましかったです。
ある時、休日出勤で会社に向かう途中、向こうからどこかで見かけたことのある親子が歩いてくるなぁと思って、よくよく見たら嫁と娘でした。僕はしばらく酒の席のネタにして笑ってましたけど、よく考えたらかなりショッキングなできごとだったなぁと思い返しています。

約半世紀、これは単に自分の特性だと思い続けてきたのですが「相貌失認」という病名を知って一気に腑に落ちました。僕は人の顔が覚えられないのじゃなくて、人の顔の判別が付かないから記憶する材料をそもそも持ち合わせてなかったのです。なるほど。

本当にそんな病気があるの? と思われる方もいらっしゃるでしょうが、案外にありふれた障害らしくて人口の2%くらいは存在するそうです。僕の中学では1学年に300人くらい生徒がいましたから、あの学年の中に5、6人はいた勘定ですね。いろいろ調べていくと有名人でもこの障害を持つ人はけっこういるらしく、ブラッド・ピットもカミングアウトしていました。俳優さんでこの病気はたいへんだろうなぁ。顔が判別できないってどんな感じかイメージが付かないという方は、欧米に行った自分を想像してみて下さい。外国人の顔はどれも同じに見えたりしませんでしょうか?(外国人から見ればアジア人はどれも同じに見えるらしいですけど)要はあんな感じです。

ちなみに、この障害に治療法はないそうです。ま、脳の一部が機能していないわけなので治しようがないですね。あくまでも、顔以外の特徴を記憶して人を判別するトレーニングを積むことあるのみだそうです。
病気の名前が分かったから何か生活が変わるわけでもないのですが、長年の悩みの原因がわかって妙にすっきりした気分になりました。
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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