能動的映像体験

アニメーション映画と聞くと年配の方の中には「ほうれん草を食べると急に強くなる船乗りのマンガ」とか「ねずみと猫の追いかけっこを描いたマンガ」といった、非現実的なストーリーを描いた絵動画のことで、あくまでも子供向けの「マンガ映画」と捉えている方もまだまだいらっしゃるかもしれません。
けれど、多くの人が認めるように、近年アニメーション映画は人の心を揺さぶり人生に大きな影響を与え得る芸術作品に昇華してきているのは紛れもない事実です。特に日本製のアニメーション映画の中からは名作と呼ばれ世界中で高い評価を得たものが多く排出されてきました。
ただそれも名作と呼ばれる所以の一因なのか単純明快にすとんと腑に落ちてくれない作品も多くあります。けれど、それを指して『難解』の一言で片づけるのは早計ではないかと僕は感じます。

複雑に張り巡らされ伏線
現実と悪夢の境界があいまいになったような映像表現
(押井守あたりが好きそうな)四字熟語を多用した難解なセリフ回し
そして
表現されていないことを観客が想像力で補うことを要求される、いわゆる行間を読ませる表現

こういった手法が作品を難解と感じさせる要因になっていると僕は思うのですが、小説世界ならはるか昔から当たり前になっている手法で「なんか小難しくてよくわからん」とその本を投げ出す人を見たらベテランの読者は失笑してこんなことを言うんじゃないでしょうか。

「じゃあ、ライトノベルでも読んでいれば?」

それが映像の世界ではまだまだ受け入れられないのは、「映画は2時間じっと座って見ていれば自ずと結末まで連れて行ってもらえる」という認識、つまり映画は受動的な芸能だという認識が強いからだと思います。なので、想像力をフルに働かせ、自分でものを考えないとどうしてその結末に至ったかが理解できない作品は『難解』と感じるのでしょう。

細田守の「バケモノの子」のレビューで、「表現も、伝えようとしていることも何もかもが浅い」と酷評されているのを見掛けましたが、その詳細を読んでいて、この人には見えてないんだなぁと感じました。なぜ、彼がそこでそういう行動をとったのか、彼女の心情はいかばかりだったのか、あの作品ではそういったことに関する説明的な表現を極力抑えようとしている傾向がありました。その分、観客は前にのめり込んで想像力を働かせなければついていけなくなります。
宮崎駿の「風立ちぬ」が一部で酷評された要因もまさにこれだと思います。あの作品は本来、ハリウッドの往年の名作「風と共に去りぬ」と同じくらいのボリュームを以て描かれれば、もっと単純明快で分かり易い作品になったかもしれません。ただ、限られた時間の中で、ストーリーを削りに削って読者の想像力に委ねるべきは委ねて練り上げられているので読者も全力でのめり込んでいかないと理解不能となってしまいます。酷評された方のレビューを読んでいると多くの方が「映画は受動的な芸能」と未だに考えておられるような気がしてなりません。

物語が差し出されるのを口を開けて待っている芸能から自ら物語世界にのめり込んで想像力をフル稼働させる芸能への変遷。アニメーション映画のこのムーブメントを僕は歓迎します。たかだか2時間程度、映写機が回っている間(って、古い表現だな)に観客は製作者の意図を読み切ろうとする。製作者は正しく行間を読ませようとする。それは読書以上にスリリングな鑑賞体験になるのではないでしょうか? 「何が言いたいのかわかんない」と早々に投げ出す人を見掛けたら僕も失笑して言ってしまうかもしれません。

「ポパイかトムとジェリーでも観てれば?」
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先入観による錯覚

彼女は鰐皮の手提げ鞄を膝に載せ座っていた。
彼女はクロコのバックを膝に載せ座っていた。

二つの文章は同じ場面の描写なのですが、その印象はだいぶ違って感じられませんでしょうか?
上の文章に出てくる『彼女』は些か硬くて野暮ったい印象。年配のご婦人を連想させます。
下の文章に出てくる『彼女』は若やいでいて少し蓮っ葉な印象も受けるかもしれません。

どちらの文章も人物に関する形容詞は一切なくハンドバックという小物に関する説明的な描写だけなのですが、読み手は「小物の持ち主はその小物の特徴にふさわしいに違いない」と脳内で変換している節があります。
僕はこれを先入観による錯覚と呼んでいます。例えば

Aは蛇口をフルに開いて熱いシャワーを全身に浴びていた
Bはジョッキのビールを一気に半分ほど乾すと大きなげっぷをして口の周りの泡をぬぐった
Cは相手の遠慮ない視線を恥じらうように身を小さくしてうつむいた

Aの人物像を連想せよと言われるとナイスバディな美女か精悍な男性をイメージする方が多いと思います。幼稚園か小学校低学年の男の子あるいは枯れ木のような老人ではなんだかちぐはぐですよね。
Bは中年男性かKYな青年なら合いそうですが、清楚なたたずまいの深窓の令嬢だとやはり違和感があります。
Cが脂ぎった中年男性だったとしたら、おっさん何やってるねん? って感じですよね

こんな風にその人物を描写するのに本人の外見自体ではなく、持っている小物や行動、仕草を形容するのは小説を書く上での有効なテクニックの一つです。このテクニックの効果を高める一つのコツはできるだけ手垢の付いた描写を敢えて使うこと。読者の誰もがどこかで目にしたことがある描写を用いれば、読者の想像力(あるいは連想力)は自動的にその先に描かれる人物像を立ち上げて待ち構えていますから。
このテクニックはもう一つ使いようがあって、わざとAをしわくちゃのおばあさんに、Bを楚々とした令嬢に、Cを大阪のおばちゃんにするというのも実はありです。読者が想定していた人物像がいきなりひっくり返って、いわゆる『ギャップ萌え』というのが狙えます。予想を裏切られたことが些か悔しいからか、そういった登場人物というのは後々まで読者の印象に残っていてその行動から目が離せなくなるんですよね。(いわゆるお茶目なおばあちゃんとか大胆な令嬢とか意外に可愛い大阪のおばちゃんといった『キャラクターの意外な一面』が演出できます)
ただ、やり過ぎると飽きられるのでこういうのはさっとやって、すぐ手を引っ込めるのがよろしい。なんどもやると「しつこい!」と嫌われます

人間は自己の経験に基づいて先読みをしてしまう生き物です。いわゆる先入観と言うやつで、誰もが思い込みで一度や二度は痛い目に遭ったことがあるのではないでしょうか? 反面、誰かを自分が思っているところに誘導したい時、先入観は強力な武器になります。先入観を計算に入れて相手がどういった印象を抱くかを想定しておけば面白いくらいに相手が泣いたり笑ったりしてくれることがあります。小説に限らず実生活、実社会でも役立つ技法だと思うんですよね。

アナログとデジタルと

久々のトレッキングでちょっと筋肉痛。やっぱ、日ごろからもうちょっと運動すべきだな。

僕は小説を書く時はわりとキャラクター設定を事前にしっかりやる方で、姓名、性別、年齢、居住地から始まって外見や好みのファッション、性格の長所短所、特技、家族構成、トラウマな十数項目にわたるテンプレートをばっちり埋めてから書く派です。
そういえば、某私大の仕事をさせて戴いた時、キャラクター設定やプロットは大学の先生方にやって戴くことになっていたのですが、このテンプレートの回答を見てびっくり。外見──「まあまあ」、「中の上」ってなんじゃこら
そんな抽象的な主観を書かれてもねぇ。丸顔か面長か? 目元は? 髪の長さは? 男性なら髭をどうしているか? 女性ならスリーサイズは? 身長体重は? と、いったことを書いてほしかったのですが 普段あまり小説を読まれないのかな?
仕方がないのでこちらで埋めて先生方の承認を得る方式に変更しました。たとえば、こんな感じ

登場人物A
老け顔、いつも細い目をして笑っている。笑った時の白い歯が印象的で髭は綺麗に剃っている。総じて二昔前くらいの青年がタイムスリップしてきたような印象を身に纏っている。時に、真面目な話題になると口をきゅっと結び、目から笑みが消えることもある。

登場人物B
面長。髪は肩にかかるくらいで長め、いつも綺麗に梳いて後ろに流している。目が意外に大きく眉も太い。

登場人物C
ボブカット。目は一重だが酔うと奥二重に代わる。普段は銀縁眼鏡をかけているがコンタクトにしようか迷っている。やや受け口気味で愛嬌のある表情を形作っている。

ここに書かれているデータはあくまでもデジタル的なもので、一つ一つは単語の羅列です。ただ、人間の顔立ちが一つ一つのパーツの集合体であるように、全体を見据えていくと目立つ部分は突出していき、目立たない部分は影を潜めてストンと一人の人物像がアナログ的に立ち上がってくるから不思議です。そしてちょっとした仕草や癖──目を細める、口をきゅっとすぼめる、頬を掻く、髪をいじるといった味付けをするとその癖の向こうに彼や彼女の性格が透けて見えてくるのです。つまり、仕草や癖は漫然と割り付けられるのではなく、その人物の性格に裏打ちされた必然として表出してくるのです。

このテンプレートを使い始めた頃は、いくら単語を羅列しても生きた人間の描写はデジタルじゃなくてアナログなんだから無駄な作業をやってるんじゃないのかと疑問視していました。でも、実際に執筆し始めると結構助けられることに気付いたのです。こいつどんな顔してたっけ? 何が好きで何が嫌いだったっけ? 怖い物は何だっけ? 執筆の最中にテンプレートを読み返すと人物像の描写がブレていないか確認できて一本軸の通った活きた人間を描けるようになった気がするのです。

誰かが言った言葉「人間は細胞の羅列だというのは、シェークスピアは単語の羅列だというのに等しい」
一つ一つはデジタル的な単語の羅列でも、それを有機的に結合させていけばアナログになるんだぁと感じています。

女心と秋の空

昨日は「いざ、丹沢」なんて書きながら結局、中止にしました。一昨日の予報では晴れるはずが朝、チェックしてみたら「曇り時々晴れ」に変わっていたのと、逆に火曜日の今日が晴れになっていたからです。で、代わりに中華街に出かけたのですが、結構晴れていたという。
女心と秋の空とはよく言ったもので、ころころと天気が移ろいやすい季節なんですね。満を持して今日、サンドイッチも作ったし、フライドチキンも作った。もう、後へは引けませんよ~

8時には出発します。

いざ、丹沢

僕は小学校2年で転校するまで山の中で育ったせいか山登りが結構好きだったりします。
関東に来てからろくに山に行っていなかったので春先からどこかに行こうよと企画を立てていたのですが、いよいよ今日、シルバーウィークの中日、大山(西日本の人間は「だいせん」と読みたくなりますが「おおやま」と読みます)に行ってきます。
今、空を見ると結構雲があるけどお天気もつかな?

世界に一つだけ

ニュースを見ていると、毎日のように不慮の事故や事件に巻き込まれて人が亡くなっています。それを見て「日本の治安はどんどん悪くなっている」とコメントされる方もいらっしゃいます。
でも、ちょっと冷静になって考えるとけっしてそうとは言えないというのはわかりますよね。例えば下校中の小学生が不審者にナイフで刺されたらニュースになります。でも、無事に下校できた小学生のことはニュースにはなりません。実は刺された小学生は何百万人という無事に下校できた小学生のうちのたった一人なんですよね。彼又は彼女が事件に遭遇したのは宝くじで一等を獲るより低い確率で起きる不運だったということになります。むしろ、こういった事件が日常茶飯になってニュースの題材にすらならなくなった時に初めて、「日本の治安はどんどん悪くなっている」と言えるのではないでしょうか?

だからといってその事件が取るに足らないものだとはもちろん言えるわけはありません。当事者にとっては許されざる理不尽なできごとです。反面、当事者以外にとっては翌日になれば忘れてしまう日々のニュースの一つに過ぎません。なので、そういったニュースを見る度に思うんですよね。本当に報道する必要があるのかな? って。
人の感情は利己的なものです。自分に無関係な出来事に関しては好奇心は働いても原則無関心です。誤解を恐れずに言えば、こういったニュースは単に当事者以外の人の好奇心を満たすためだけに存在するんじゃないでしょうか?
少し視点を変えてみます。『人の感情は利己的』ということは決して悪いことではなく、責められるようなことでもありません。それは本来の人の心のありようで本人にもどうすることができないものですし、むしろ一種の自己防衛本能なのではないかと思います。ニュースは年がら年中流れていますから、その度に悲しんだり狼狽えたりしていたら気持ちが塞いで病気になってしまいます。誰もがマザー・テレサになれるわけじゃないと僕は思います。
例えば、豪華客船が氷山にぶつかって何百人という人が亡くなったというニュースを目にすれば痛ましい気持ちになる反面、乗客に知人がいないことに胸をなでおろすのが人情です。逆に飛行機が墜落したにもかかわらずたった一人しか死者を出さなかったというニュースが報道されれば、多くの人が快哉を叫ぶでしょう。でも、亡くなったのが自分の娘だったら両親は「どうして?」と理不尽な気持ちに苛まれると思います。どうして、うちの娘でなければいけなかったのか? 隣の乗客ではなかったのか? たった一人しか死ななかったのによりによってそれがあの子だなんて……

人の感情は利己的なものです。不特定多数の他者に対して無関心であるゆえに特定の身内に愛を注ぐことができる。その身内が世界でたった一つだけの何物にも代えがたい宝物だと思える。元来人の気持ちはそういう風にできていると思います。

高性能自転車操業

以前、バラエティ番組でエンジンの付いた自転車を漕ぐという実験(なのかな?)をやってました。
確かに、バイク並みにスピードが出るのですが、早く走れば走るほど乗ってる人間はしんどくなって来るというジレンマが笑いを誘ってました。制作側がどこまで意図して立てた企画か分かりませんが、これって現代社会の縮図じゃん──と、ちょっと斜に構えた見方をしてしまいました。
「21世紀になったら技術が進んでもっと楽な生活ができるようになると思っていたのに」なんてセリフを聞くことがあります。僕が子供だった1970年代、21世紀になったらロボットが人間の代わりに働いて、人間は家でのんびり暮らしているだけでよくって……そんなSF漫画が溢れていました。あの夢はどこに言ったんだ? という前に周りを見回してみましょう。実はその夢はもう叶っているのです。家の主が留守をしている間に円盤型のロボットが勝手に部屋の掃除をします。見たい映画やドラマは時間が来れば勝手に録画されています。四角い箱に放り込んで決められたボタンを押すだけで凝った料理が自動でできます。あの時代にもあった洗濯機も冷蔵庫もクーラーも電話も何もかもがコンピュータを内蔵して信じられないくらいにハイテクになっています。本来ならその高機能のおかげで人間は多くの自由に使える時間を享受できているはずなのです。というか、享受しているのです。
問題はそうやって手に入れた時間をどう使っているかと言うこと。……、結局働いている 今の技術をもってすれば工場のラインもオフィスも、もっともっとオートメーション化できると思います。でも、もしそれを実現してしまうとこの国は失業者で溢れかえってしまうという現実。今更ながらですが、子供の頃に見た漫画は「ロボットが働くようになったら人間はどうやって稼ぐの?」という観点が欠如していたようですね。
更に、当時のSF作家の想像力をもってしても夢想すらできなかった技術分野が一つあります。それは情報処理の分野。遠くの人と会話ができるというだけの機能だった電話機が一瞬で2時間物の映画やそれ以上に大量の情報を送れるような時代が来るというのはやはり想像をはるかに凌駕していたようです。今や距離の概念は意味を持たず、地球上のどこにいても一瞬で誰とでも情報交換できるようになりました。実はこれが悪魔の発明だったんじゃないかと僕は思うのです。
IT技術は高性能エンジンを積んだ自転車です。我々は知らない間にその自転車のサドルにまたがりペダルをこぐ羽目になってるんじゃないでしょうか? 例えば、僕がSEとして就職した80年代、通信技術はまだ産声を上げた赤ん坊のようなものでした。メールがなかった当時、遠くからプログラムの修正情報を送ろうと思えば、記録したフロッピーディスクを社内メールに入れて送付。早くて翌日、場合によっては翌々日に届くのが当たり前でした(緊急の場合はFAXで16進数の羅列が届いて手打ちという荒業を使うことはありましたが)。だから、「じゃ、お待ちしてます」と電話を切って仕事を切り上げて呑みに出かけることもできたのです。
ところが今は「じゃ、修正情報を送ります」と言われて電話を切って、メーラーを見ると……もう届いている。ホントはもう帰りたかったんだけど、届いちゃったし、緊急の仕事だし、これ片付けずに帰るわけにいかないよなぁと溜息。
IT技術の進化によって同じ仕事でも昔よりうんと短時間でこなすことができるようになりました。けれど、効率化された分、さらに多くの仕事が詰め込まれていくだけで実はいつまで経ってもキリがないということに僕らはそろそろ気付くべきなのかもしれません。

70年代に夢見た高性能な機械に溢れた未来はとうに到来しています。これからもその性能は向上し、何もかもが更に高速で処理されるようになっていくでしょう。でも、とっくの昔に人間はそのスピードについていけなくなってるんじゃないでしょうか? うなりをあげてタイヤを高回転させるエンジンにひぃひぃ言わされながら僕らはペダルをこいでいる──あの頃、憧れた世界の結末は決して優雅な生活などではなかった気がする今日この頃です。

凝視している時間の撲滅

昨日は、人が人生の中でいかに探し物をするのに時間を取られているかという話を書きました。
今日は似た話題つながりで『凝視している時間』の話です。
気が付くと何もせず、ある一点を凝視していることはないでしょうか? え? そんな変なクセはないって?
たとえば……。カップラーメンを作ろうと思って薬缶に水を入れて火にかけた時、お湯が沸くまでの間、薬缶を凝視していませんでしょうか? お風呂に湯を張る時、じっとお湯が溜まるのを見つめていませんでしょうか? 会議まであと3分、何をやるにも中途半端でぼぉっとしていることはありませんでしょうか?
僕も子供の頃からこういうクセがあって、よくぼぉっと暇そうにしていたなぁと振り返って思います。でも、これって勿体ないんですよね。たとえ1分でも30秒でも何かできることはあるものです。
お湯が沸くまでの間に乾いた食器を片付けてしまいましょう。お風呂に湯が溜まるまでの間に明日出すごみをまとめてしまいましょう。
一日のうちにこなす仕事の中には、たかだか2、3分で済むものがたくさんあります。でも、たかだか2、3分ではあるのですが、必ず済ませなければいけない用事です。だったら、わざわざ時間を取らずに何かを待っている間にそれを済ませましょう。仕掛けてしまったら終わるまで待たなければならない用事(カップラーメンを作るとか)は必ずあるものです。
一つの用事は2、3分で済むとしても二十こなすには1時間かかります。それを上手に待ち時間に織り込んでパッチワークのようにつなぐことで不思議なほど自由になる時間が増えていくのですよ。
というお話でした。

探し物の極意

1日平均10分。個数なら1日平均9個──さて、これはなんの統計でしょう?
イギリスの保険会社が成人男女3000人に対して行った『探し物』に関するアンケート結果だそうです。人生に換算すると成人人生の3680時間、実に153日間を探し物に費やしていることになるんだとか。嫌ですねぇ。何が嫌だってこの数字が平均だということ。ということは当然平均を上回る人もいるわけで、ここに挙げた数字で済まない探し物人生を送っている人がいるというのを想像するだけで怖いっす

探し物を減らす極意というか原理原則は「物を持たない」ということです。理想は何も持っていなければ人生において探し物をする必要は永遠にやって来ません って、まあそれでは暮らしていけないので、可能な限りものを減らすシンプルな人生を目指すのが良いと思います。
とはいえ、物を見失うのは人の性。それを探し回るのも人の性。僕はわりとこの探し物が得意だと自負しているのですが(子供の頃は大の苦手でした)、その極意を今日は紹介しましょう。

一つ目の極意は『探しているものが辿った軌跡を追う』ということ

まず、最後に「それ」を見掛けた時点と場所を思い出します。次に間違いなく見失っていた時点を思い出します。探し物は必ずその間のどこか、貴方が動いた場所に存在します。
で、それ以降、「それ」を持ち歩いた動線を想像するのです。たとえば、家の鍵が行方不明になったとします。今、貴方が家の中にいるのなら最後に「それ」を見掛けたのは家に帰って来た瞬間で場所は家の扉の前ということになります。ならば、探索のスタート地点は玄関の扉。案外、その鍵穴に刺さったままだったりしたら一件落着(かなり情けないですけど)。そこから、自分が歩いた経路をイメージします。鍵には足が生えていませんので貴方が持ち歩かない限り玄関先から移動することはありません。
玄関で靴を脱いだ⇒その時邪魔になって下駄箱など手の届く範囲に置かなかったか?
そのままトイレに直行⇒トイレ周辺を探索
そういえば、すっごくのどが渇いていて上がってすぐ冷蔵庫を開けた⇒冷蔵庫の中を探索。洗い物おけを探索。食器棚を探索。
上着をハンガーにかけた時点では既に鍵を持っていなかった。⇒クローゼットに辿り着くまでに部屋の中をどう歩いたかイメージして下さい。⇒風呂場の脇を通ってリビングのテーブルに郵便物を置いて、寝室に入って鞄を置いて……
風呂場、リビングのテーブル、寝室……、近寄った場所を片っ端から調べれば間違いなく探し物は見つかります。

極意その2。僕は中学校の3年間、8学期も図書委員をやっておりまして、リファレンス(図書検索)は得意なのですが、本棚に並ぶ大量の本の中から目当ての本を探す時にひとつ心がけていることがあります。

一冊、一冊、その本が目的の本ではないことを確認していくということです。

例えば、浅田次郎の「鉄道員」という本を探しているとします。
本棚の一番上、左端から目で追っていく時、目的の本がないかという目線で見てはいけません。左端の本──「ベートスンの鐘」(違うな)、「三毛猫ホームズの推理」(違うな)、「狂詩書目」(違うな)と一冊ずつタイトルをきちんと読んで目的の本と違うことを確認していくのです。その本棚に「鉄道員」が間違いなくあるのなら、探索は消去法が一番の方法。一冊一冊消去していけば必ず残りの中に本は存在します。
これは本に限ったことではなく、家の鍵の例でもトイレの中に間違いなくないこと。冷蔵庫の中に間違いなくないことを確認していくというのが物を探すということです。

物に足は生えていません。必ず貴方が持ち歩いて、どこかの時点、どこかの場所で手を放したそこに物は取り残されている──これが物を見失うということの正体です。

暮らしていけない?

掲示板サイト、SNSなど、匿名で好きなように意見交換できるメディアが到来したことで、今までは一方通行だったニュースなどの情報に対して自分はどう思うかといういろいろな人の意見を目にすることができるようになりました。
近頃気になっているのは格差社会とか低所得層が増えているとかいうニュース。それに対する反応は「暮らしていけない」、「貯金なんかできるわけない」、「結婚なんて夢のまた夢」などなど当然ネガティブなものが多いわけですが、根が天邪鬼なので「本当にそうなのか?」と考えてしまいます。でも、この発想が重要なんですよね。こういった意見を目にすると、思考停止すしてるよなぁ、立ち止まって「本当にそうなのか?」って真剣に(←重要)考えてないんじゃないかなと思っちゃいます。
ということで、岡目八目になりますがシミュレーションをしてみましょうか。

月の手取りを15万円と仮定します。これで夫婦二人が暮らすとして支出を考えてみましょう。
■家賃:5万円
 ネットで検索すると例えば六町でバス停まで徒歩1分。1LDK(33.05m²)で4.9万円というのがありました。これなら首都圏にも十分通勤可能です。
■光熱費:1.5万円(NTTのネット代込み)
 去年一年のうちの家計簿を見ると1.2万円でしたので、少し上乗せしてこの値段。
■食品:1.5万円
 基本全て自炊を前提とします。週末、お財布に千円札を三枚だけ入れて夫婦でお買い物。1週間の食料品をまとめて仕入れて
 それ以外は買い物に行かないとすれば十分可能です。千円札三枚の内訳はこんな感じ。一枚目の千円札で牛、豚、鶏のパック
 を1つづつ買う、二枚目の千円札で魚類を一品と野菜類を買う、三枚目の千円札で切れかけている調味料類を買う。おつりは
 貯めておいて米などのまとまった出費に使う。
■生保:1.5万円
 病気やけがはいつやってくるかわかりませんので最低限の保険は必要。ざっくりですけど手取りの10%くらいということでどうで
 しょう?
■貯金:2万円
 急な出費に備えて貯金は大事です。天引きの財形貯金のような利回りの良い物に入るということで。
■自由費:3.5万円
 自由に使えるお金。余剰、ストックの類です。

 ということで、全然暮らしていけるじゃないですか。え? 駐車場代? スマホの料金? 別になくても暮らせます。少なくとも僕は両方とも払っていません。ないと暮らしていけないというのは錯覚で、少なくとも二十年前に携帯電話の料金を払っている人など皆無でしたし、五十年前に車を持っている人は限定的でした。それでも、皆さん暮らしていましたよ。地方では車がないと生活できないとよく聞きます。それはそうだろうなぁと思ってしまう一方で、じゃあ五十年前、八十年前の人は生きていけなかったのでは? とも思ってしまうのです。自転車だと通勤1時間かかる? だったらかければ良いのでは?(東京なら当たり前の通勤時間です) 雨が降ったら雨合羽を着て出かければ? たぶん、昔はそうしていたと思う。 とか。
 いつの間にか、我々は必要不可欠な出費とないと不便なものの出費の境界を曖昧にしてしまっているのではないでしょうか?
 生計をプランニングする上で一番重要なのは固定費を削減することです。変動費(食費など)の節約は買い物の度に「我慢」を強いられるので長続きしない傾向にあります。その点、固定費は一度削ってしまったら、あとはそれがない生活に慣れてしまって「我慢」しているという意識は希薄になります。固定費を見直す場合はどれを削るか? という視点で見るのではなく、一旦、ゼロにしてしまってどうしても必要なのは何か?(つまり命に係わるものは何か?)という視点で考えたらどうでしょう?
 そんなんじゃ生活に潤いがなくなる──という向きもあるでしょう。その時は好きに使えるお金が3.5万円あります。どうぞ、好きに使って下さい。

 ざっと、計算しても手取り15万円でも、暮らしていけるじゃないですか。
 今から四十二年前にリリースされて大ヒットを飛ばしたフォークソングにこんな歌詞がありました。

♪三畳一間の小さな下宿 貴方は私の指先見つめ
 悲しいかいって きいたのよ
 若かったあの頃 何も怖くなかった
 ただ貴方のやさしさが 怖かった

 半世紀にも満たない昔、そんな暮らしをしていた若者たちが多くいたのは紛れもない事実。彼らにできて我々にできないはずはありません。後は、浮上するのみ。今は小さくささやかな暮らしでも上昇志向を持って努力すれば「いつまで経っても手取り15万円のまま」ということはないんじゃないでしょうか?

エロイカの至言

うちのオフィスの目の前は片側二車線の結構広い道で、これを挟んで電車の駅は反対側にあるので必然的に日に最低二度はこの道を渡ります。交通量の多い道の宿命か結構信号が変わるのに時間がかかるんですよね(計ってみると1分くらいでした)。
時候の良い頃ならまだしも夏の暑い盛りにじりじりと太陽にあぶられる1分はなかなかの苦行 エレベーターで一階まで降りたら信号が丁度、青に変わったところだったりするとビルを出るのをためらってしまいます。ビルの入り口から信号までの距離はおよそ40メートル(今、googleの地図で確認した)。山手線の車両でいえば2両分。果たして間に合うか? 炎天下、40メートルを猛ダッシュした上で、信号が変わってしまえば、1分間の強制日光浴が確定 だったら、次に信号が変わるまでエアコンの利いたビルのエントランスの中で涼んでから出た方が賢い。気持ちはどうしても安易な方向に傾きがちになります。
けど、そうも言ってられない時ってあるんですよね。例えば、会議が長引いて事務所を出るのがギリギリになり、お客様との約束の時間が迫っているとか。そういった時、いやがる自分を説き伏せて、ビルを飛び出させるために心の中でこうつぶやくことにしています。

『諦観は愚か者の哲学だ』

いきなりですが、青池保子の「エロイカより愛をこめて」というコミックスをご存知でしょうか? 少女漫画には珍しい、男だらけの硬派なそれでいてコミカルな名作です。NATO情報部に所属するエーベルバッハ少佐と腕利きの美術品窃盗犯で男色趣味のエロイカことドリアン・レッド・グローリア伯爵が時に敵対し、時に共闘しながら世界をまたにかけて活躍するスパイアクションです(たぶん)。連載開始は1976年で今も連載中なので来年で40年となる長期連載作品です。
その初期作品「No.9 アラスカ最前線」は、中でも好きな話です。第二次世界大戦中にゲーリング空相が秘匿した美術品を追って少佐達はアラスカに派遣されます。冷戦下、アラスカは海を挟んでシベリアと向かい合う言わば東西の最前線、諜報活動を続ける中、少佐とエロイカは拉致されてソ連の原潜に収容されるのです。このままモスクワに連行されれば過酷な尋問が待ち構えていることは必至。絶体絶命のピンチの中、少佐はKGBのスパイ、子熊のミーシャ(ネーミングは可愛いですがスキンヘッドで強面のおっさんです)に言い放つのです。

『諦観は愚か者の哲学だ』

ミーシャは「お前のは愚か者の悪あがきだ」と一笑に付すのですが、このあと、快哉を放つ一発逆転が待ち構えているのはお約束。
今でも「もうだめかもしれない」、「もう間に合わない」と気持ちが萎えそうになったとき、このセリフは僕を奮い立たせてくれます。

『もう間に合わないだと? だったら急げよ』

そう、間に合わないと思うなら急げばいいのです、結果はやってみなければわからない。本当に間に合わないかもしれないけれどやってみたら間に合うかもしれないじゃん。やらなきゃ、間に合うわけないじゃん。ましてや、それを自分の生業としてやってるのなら諦めていいはずないじゃん。
こうして、今日も気が付くと信号を渡り切り、駅に向かう自分がいたりします
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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