作り手の説明責任

春ごろから楽しみにしていた『図書館戦争 The Last Mission』を観てきました。それなりに楽しめたのですが、期待していたほどの出来ではなかった気がします。以下、ネタバレを含みますのでご注意を。

確かに原作のストーリーを忠実にトレースしながらオリジナルの解釈、オリジナルの展開を交えて飽きさせない作りにはなっていました。ただ、軸足を間違えている気がするのは原作ありき過ぎるんですよね。
「はい、あのシーンですよ~」とか「はい、名セリフ来ました~」とか演出陣のそんな声が聞こえてきそう。原作を読んでいない人はついていきづらかったんじゃないかな。
更に置いてけぼりの罠がもう一つ。直前に特番のドラマ『図書館戦争 Book of memories』が放送されたのですが、そのストーリー展開を観客が観てきたことを前提に話が進むのです。だから、ヒロインの郁は既に堂上が高校生の時の王子さまだと知っていますし、両親との和解も済んでいるので茨城に出張に行くことになっても浮かれモードです。極めつけはラストにちょこっと登場する中澤鞠絵ちゃん。ドラマを見ていなければ「この娘だれ?」ってなっちゃいますよ。本来、前作映画の続編として作られたのですからその間に起こったことはもっと本作の中で丁寧に説明すべきだと思いました。
大人の事情はわかるんですよ。原作のボリュームを考えると2時間の映画では語りつくせない。ならば、もう一本ドラマを作っておよそ4時間の作品に仕上げて楽しんでもらおうという魂胆だったと思うのです。ただ、映画を観るために予備知識として特番ドラマは観て来て当然という作りは如何なものかと感じます。

総括すると演出も脚本も原作ありき、ドラマありきとしてWHY(動機)の説明をサボっているように感じました。中盤から見せ場の戦闘シーンになるのですが、だんだんなんのために戦っているのか、どうやったら戦闘終了になるのかわからなくなってきます。で、いささか取って付けたように「この本を県展会場に届けるんだ。届ければ俺達の勝ちだ」みたいになっちゃうのです。作り手の視点からいえば、物語の目指すべきゴール(そこを目指す強い動機)は冒頭で説明される必要があります。そして、ストーリーをそのゴールに向かって一点の迷いもなく真っ直ぐに進行させねばなりません。その上で、その直進を阻む難関を次々に提示して読者をハラハラ、ドキドキさせなくてはいけないのです。そこがイマイチ巧くいっていなくてなんだかグダグダな展開になってしまった感じ。
終盤、手塚慧が良化隊のお歴々を相手に図書館を文科省に組み込ませるよう説得する場面も違和を感じました。お偉い方々が彼の説得に圧されて決断を逡巡している様子なのですが、観客がイマイチついていけていません。確かに、現実世界では説得する相手は良化隊の方々かもしれませ。でも、これは映画なのです。映画では説得する相手はお歴々ではなく観客なのです。いくら、お歴々が「おお、それはナイスアイデアだ」と納得する演技をしても、観客が説得されていなければ空々しいだけです。ここでも、WHY──なぜ、彼らは手塚慧に同意しようとしているのか──の説明が不足しているように感じました。

最高のキャスティングで、自衛隊の協力も得たど迫力の映像が撮れたのに、勿体ないことしたなぁと感じました。場面場面ではそれなりに楽しめたのですが、ちょっと置いてけぼりにされた感じ。省みて僕も作り手として、読者に説明責任を果たしているだろうか? 独りよがりに「これくらい書いておけば分かってくれるだろう」と手を抜いていないだろうか? と自作を思い返しました。
自戒をこめてもう一度言います。登場人物やストーリー展開の「WHY」の説明は作り手の責務です。
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作法の由来

愛川晶のミステリー『ダイニング・メッセージ』の中で、懐石料理の作法の由来についてユニークな説が挙げられます。
「なぜ刺し箸(箸で人を指すこと)をしてはいけないのか?」
「なぜ迷い箸(どの料理を取るか箸を持って迷うこと)をしてはいけないのか?」
「なせ椀の蓋に露(霧吹きなどで吹きかける細かな水滴)がかけられるのか?」
これらは全て懐石料理が誕生した歴史的背景にあるというのです。懐石料理は千利休が生きた戦国末期に生まれたおもてなしのための料理。武士同士が膳を囲む状況には往々にして食事以外の思惑もあったと思われます。
相手が敵国の人間であれば言うまでもなく、たとえ味方であってもいつ下剋上されるかわからない時勢、食事の際の一挙手一投足に互いがピリピリしていたのではないでしょうか?(ヤな食事だな)
そんな時に、いきなり『箸で自分を指される』なんてされようものなら思わず刀に手が伸びるでしょう。一瞬、出遅れれば目を突かれるかもしれませんから。箸を持って料理を迷う仕草は『迷うふり』にしか見えなくてもおかしくありません。嫌い箸(箸を使ってやってはいけない作法の総称)の多くは相手から身を守るために生まれたのだと作者は説いています。
その観点で椀物に露をかけるというちょっと奇妙な作法を見直してみるとその理由が透けて見えてきます。
『(配膳後、運ぶ途中で)椀には誰も手を触れていません。毒など入っておりませんよ』
というサインなのです(調理、配膳する厨房には当然両国の見張りがいてこのタイミングでは良からぬことをする隙はなかったと思われます)。
寡聞にしてこの説の真贋は存じませんが、十分リアリティのある考えだと思います。
もし、食事の作法の理由がこの通りだとしたら現代においては形骸化した無意味なものと言えなくもありません。さすがに今どき、こんなスリリングな食事をする人達はヤクザ屋さんでもない限りいませんでしょうから。
それでも、嫌い箸は見ていて気分の悪い物です。その由来は上に紹介した通りだったとしてもそれ以外に『相手を不快にしない』という含みもあったんじゃないかと僕は考えます。

ネットで食事のマナーのニュースが投稿されると必ずと言って良いくらい「うるせぇよ。美味しく食べられればマナーなんてどうでも良いじゃないか。俺は気にしないぞ」といったコメントが付きます。
孤食という単語が生まれて久しくなりますが、こんなコメントを見掛けるとその弊害が出て来てるんじゃないかと思ってしまいます。そしてついつい言い返したくなるのです。

「あんたが気にしないかどうかなんて、どうでも良い。食事をする相手が気にするんだよ」

そう、諸説の真贋は脇に置いておいても全ての作法の由来は「誰かと食事をする」という前提のもとに生まれたのだということを忘れてはいけないのです。

生物学に反する

少子化関連のニュースがネットで流れるとこんなつぶやきをよく見かけます。「だって子供嫌いだし」、「せっかく稼いだお金を養育費なんかに使いたくない」、「そもそも結婚したくない。稼いだお金は自分が楽しく生きるのに使いたい」、とどのつまりは

「子供を作るのも作らないのもその人の自由でしょ」

僕はこういった意見を見る度に首を傾げて、「あなたは生物ではないのですか?」と聞いてしまいたくなります。
生物学的見地から見れば、子供を産み育てて種を残すことは個々人が有する権利でもましてや自由でもなく義務だと思うんですよね。決して「やりたくなければやらなくて良い」というものではないと思います。
そもそも今、自分がこの世界に生きているというのは気が遠くなるような昔から脈々と命のバトンをつないでご両親に渡され、ご両親からそのバトンを渡すべく生み育ててもらったからに他なりません。安易な気持ちでその命のリレーを断ち切って良いというものではないと思うのです。

とはいえ、僕はこのムーブメントに対しては楽観視しています。たかだか数十年の風潮で種の保存が危機に陥るほどヒトという種はヤワな存在ではないと思うからです。いよいよ、種の維持が難しい局面になれば生物学的な反動が生じて本能的に、ほとんど爆発的に子供を作ろうとする事象が発生すると考えています。
もしもそうならないとしたら……、ヒトという種は急速に衰退することになるのでしょう。それもまた生物であるが故の定めに他なりません。永遠に存続する種などというものはあり得なくていつかは絶滅する時が来るものです。あるいは、世界的には人口は今でも増え続けているわけで単に『日本人種』と呼ばれる種のみが衰退するということもあり得ると思っています。

いずれにせよ、我々は生物学の摂理から離れて生きていけるほど進化したわけでも何でもありません。「子供を作るのも作らないのも自由じゃん」なんて非科学的なつぶやきを見掛けると僕が失笑してしまう理由はそこにあります。

ミストの教訓

朝からどよんと曇ったお天気。だからというわけでもないのでしょうが、映画「ミスト」を何となく思い出しました。
ここから下はこの作品のネタバレがありますのでご注意を。
舞台はアメリカのとある田舎町。ある朝起き出して外に出ると見たことがないような濃い霧。言いようのない不安を抱きながら主人公の男性は小さな息子を連れてショッピングセンターに買い物に行くのですが……
霧の中に得体の知れない凶悪な生物がいることが判明。店を出たら食い殺される。店に立てこもることを余儀なくされた人々の運命や如何に? といったお話です。この監督の巧かったところは怪物の恐怖をメインテーマにするのではなく、極限状態に追い込まれた人間自体の恐ろしさ、自暴自棄になる者、怪しげな宗教感を喧伝して即席のカリスマになる者、中には「わたし、こんな所にいられないわ」とヒステリックに叫んで店を飛び出す無謀なおばさんもいます。直面している命の危機に共闘することなくいがみ合い、ののしり合う人間の醜さが見事に描かれていて、なるほどこれは怖いなと思わせる辛口のホラー映画に仕上がっていました。
そしてラスト、自分の車までたった数メートル。そのわずかな距離を命がけで乗り切った主人公達(彼に同調した二人ほどの人と息子)はようやく店を後にするのですが……
行けども行けども霧が晴れることはなく、得体の知れない怪物は存在し続けている。どうやら、この事態は小さな田舎町の出来事ではなく、もっと大規模なもしかしたら世界規模で起こっているものかもしれないと主人公は気付きます。やがて、ガソリンがなくなれば立ち往生してしまう。そうなれば、車の中で餓死を待つか外に出て怪物の餌食になるか二つに一つ。彼はある大きな決断を迫られます。

むざむざ怪物に食われて苦痛にのたうちながら死ぬくらいなら自ら安楽な死を選ぶ。

ダッシュボードから銃を取り出した彼は、仲間として逃げて来た人達を一人また一人射殺していきます。最後に息子を撃ち殺した彼は自暴自棄になって車の外へ。その瞬間、霧が急に晴れはじめその向こうから大量の軍隊が現れます。どうやら事態の収拾に軍が出動し怪物達は掃討されたらしい。軍用トラックには無事救出された人々が満載で、その中にはあのヒステリックに叫びながら店を飛び出して行ったおばさんもいるではないですか。
ネットのレビューを見てもこのラストに関しては賛否が綺麗に分かれているようで、「これぞホラー」と喝采を浴びせる人もいれば、「何もここまでしなくても」と納得のいかない人もいる様子。
自分は第二次世界大戦の末期、沖縄で起きたできごとなどを思い出しました。日本軍が喧伝したアメリカ軍の残虐性を信じて自決した人の人生は終わり、アメリカ軍に投降した人達は戦後も生き残った皮肉。決して、この映画の出来事は絵空事などではないと歴史は示しています。
できれば、こんな決断に迫られるような事態に陥りたくはありませんが、何が起きるかわからないのが人生。もし、陥ってしまったら即断するのではなく、どこまでも生き延びる術をもとめ続けるべきだとこの映画は黙示しているように思います。

レシピではわからないこと

手前味噌になりますが、昨年ラジオドラマ原作の懸賞で次点を戴いた『雪のあしあと』という小説の主人公は妙な異能の持ち主です。それは料理やそれを調理した調理器具に触れると調理の工程が脳裏に浮かんで精密に料理を再現できるという能力です。
読んだ人の多くは『なるほど、チートな能力でレシピを再現できるんだな』と理解されたかと思うのですが(便宜上僕もそう表現していますし)、実際には少し違います。
料理本やネットで見かけるレシピに書かれている情報は材料、調味料の配合と料理の段取りだけです。この情報だけで調理をしても「よく似た料理」は作れますが、「全く同一の料理」を作るには勘と経験そしてもしかしたら才能が必要なのです。

たとえば、書かれている分量通りに材料をそろえたとして調理にかかってみましょう。「中火でコトコト10分煮ます」と書かれていたとしてキッチンタイマーで計って10分煮てもオリジナルと同じになるとは限りません。まず、使用しているコンロの火力が同一ではありませんし、そもそも中火ってどれくらいの火加減というところがレシピの作者の認識と合っていないと10分もかければ火の通り具合が全く異なります(定義としては中火は鍋肌に炎の先がかかるかかからないかくらいの火加減なのですが、それより強くされる方が多い気がします)。更に「仕上げに青物野菜を入れてさっと炒めます」と書かれていても「さっと炒める」という表現がアバウトなのでどれくらい炒めれば良いのかわかりません。経験則からいうと数秒炒めて火を止める「炒め足りない」方の方が多い気がします(数秒は食材を投入して下がった鍋温が戻って来るにも足りない時間です)。
こういったことはレシピを書いた人に横についてもらって手取り足取り指導してもらうとだいぶ違ってきます。お母さんが嫁いでいく娘に料理を指南しているようなパターンですね。ただ、それでも完ぺきではなく、「そこでお醤油をね、くるっと回しいれて……って、あんたそんなにどぼどぼ入れる人がありますかっ」てなことになる場合だってあるわけです。だって、娘は娘、お母さん本人ではありませんから。
で、冒頭の小説。この能力の本当の凄さは「調理の工程が脳裏に浮かぶ」ことなのです。つまりその料理の作者が隣について指導するのではなく、その作者の目や耳や鼻や舌の記憶がそのまま脳裏に浮かぶ──すなわち、作者自身の五感を共有するのですから、本人が調理しているのと同じです。あとは一定の調理技術さえ持っていれば全く同一の料理を再現することが可能です。

レシピに書かれた情報はあくまでもデジタルな情報です。実際に料理を仕上げていく場合はそれに加えて色を見、匂いを嗅ぎ、焼けていく音を聴いて、タイミングを図るというアナログな感覚が重要になってきます。例えば「10分茹でる」と書かれていても7、8分で料理の色合い、匂いが頃合いとみれば火を止めなければいけません。逆に10分経ってもまだ仕上がっていないと思えば茹で続ける必要があります。美味しんぼチックな表現になりますが調理は「五感」を駆使して仕上げる作業です。そのためには膨大な回数の反復で培われた勘と経験が必要になって来るのです。加えて、俗に『センス』と呼ばれる才能も重要になってきます。

自営のレシピ検索サイト『Gの食卓』は今日で1500レシピ目を迎えました。約5年間、全て作ってみて味わってみた料理ばかり、よくぞこれだけ書き溜めたもんだと我ながら感心します(^-^)/ それを記念してちょっと真面目に料理のお話を書きました。

監獄学園

友人に勧められて2015年夏アニメ『監獄学園〈プリズンスクール〉』を視聴。
男女共学に変わったばかりで男子がたった数名の元女子高が舞台です。思春期真っ盛りの男子達が出来心で女子風呂を覗いたことが発覚し、罰として彼らはプリズンと呼ばれる構内の隔離された建物に一ヶ月投獄されることになるというのが物語のイントロ。
過酷な刑務作業、些細な言動に対する懲罰、プリズンブレイクばりのち密な作戦による脱獄、看守に懐柔された仲間の裏切り等々、王道を行くプリズンブレイクもののスリリングなストーリーが観るものをぐいぐい引っ張っていきます。「やばい、看守が戻って来たぞ、早く戻ってこい、ばれる! バレる! バレる~」と、引っ張っておいて看守が扉を開けるとギリギリセーフで戻っているなんてお約束のシーンも満載です。
その反面、脱獄の動機が気になる女の子との二時間デートだったり、その脱獄に協力する動機がアキバでフィギュアを買ってきてもらうためだったり、思春期男子の熱くも低レベルな情熱満載で、「いや、そんなことのためにそこまでするか」と大笑いさせるネタも満載。いろいろな意味で突き抜けたアニメでした。いくら深夜枠だからって女子の下腹部丸出し(勿論、巧妙にデフォルメして写実的な表現にはなっていないのですが)みたいな下ネタを堂々とやってのける男らしさ(?)に感動を覚えました。

冷静に考えるとストーリー自体は手垢の付きまくったラブコメのテンプレートなんですよね。例えば、こんな感じの。
クラスで一番美人の気になる女の子は大豪邸に住む生粋のお嬢様。どうしても彼女の入浴シーンを覗き見たい主人公は屋敷への潜入を決意します。が、庭にはドーベルマンが放たれレーザー銃も配備されている、邸内には軍隊からスカウトされた生え抜きの傭兵軍団が警備についている。それをかい潜っても肝心の浴室は大銀行の金庫並みのセキュリティ。そんな厳重な警備の中、主人公はあの手この手を駆使して一歩、また一歩、彼女がシャワーを浴びている浴室に迫るのです。

「あの子の裸を見てみたい」

たったそれだけの情熱に突き動かされて。そして、いよいよ浴室のロックを解除。そっと扉を開けると……、……、お父さんが湯船に浸かっていた(彼女は風邪気味なので風呂はお休みしてた)とかいうオチが付きます。

敢えて、王道のテンプレに手を出して(普通なら多くの視聴者が飽きるほど見てきているので見向きもされません)、それでも読者を引っ張っていけたのはこのバカバカしいまでの突き抜け具合なんでしょうね。
そっか、ここまで徹底すると見慣れたストーリー展開でも結構面白い物が作れるものなのかもと、一つ勉強させて戴きました。

到来

昨日、衣替えをしました。アンダーシャツはランニングから半袖に、ワイシャツは半袖から長袖に。放っておくと真冬になっても半袖シャツでうろうろしている奴なのでこういうことはパッパとしなければいけないのです。
気が付くと朝晩は随分ひんやりとした風が吹くようになりました。何より日が出てくるのが遅くなり、沈むのも早くなった。いつの間にか秋がやってきたようですね。八百屋さんには秋らしい野菜や果物も出回り始めました。……、って高過ぎだろ? どうやら天候不順の余波を喰らって野菜が高騰している模様。これ以上、台風などやってこないことを祈りたいなぁ。
とまれ、秋到来です。

「お一人様」の功罪

一緒にお昼を食べる友達がいなくて、一人で食べるところを見られたくないからトイレの個室にこもってご飯を食べる『ランチメイト症候群』がネットスラング『便所飯』として話題になりだしたのは2005年の頃だそうです。でも、恐らくはもっと昔からあったコミュニケーションの葛藤で、人は「一人で行動すること」について他人の目を気にする生き物なのかもしれません。
そんな心の葛藤に開き直りで対抗する人々がここ数年台頭して来ました。
『お一人様』と呼ばれる周囲の目を気にせず単独行動をする人達です。曰く「一人カラオケ」、「一人焼き肉」、「一人テーマパーク」等々。かくいう自分も若い頃から「一人居酒屋」は平気で、その店の中で見知らぬ客と友人になっていくのが楽しみという「お一人様」賛成派です。
ただ、このムーブメント、もろ手を挙げて喜んでばかりもいられない雲行きなんですよね。たとえば、先日、ネットニュースで「居酒屋のお通しは不要か」という議論が話題に挙がっていました。お通しというのは店に入ると自動的に出される一品(小鉢料理が多いかな)で平均300円くらいの値が付きます。お通しに対する賛否をここで議論するつもりはないのですが、気になるのは反対意見の方の底流に流れる「俺は聞いてない」、「俺は認めない」というムードです。
例えば、フレンチを食べに行って前菜が出てきた時に「俺は頼んでない。メインから持って来い」という人はいません。懐石料理を食べに行って八寸(フレンチの前菜にあたる数種類の盛り合わせ料理)が出て来ても同じでしょう。それと同じで居酒屋でお通しが出て来て文句を言ったら、長年居酒屋で呑み慣らしたベテランの客の失笑を買います。「他の飲食店では殆んどないのに、何故飲み屋だけにあるのか」という意見もあるようですが、それが居酒屋の文化だからとしか言いようがありません。フレンチや懐石が決められた順番で料理が出されるのと同じことです。
飲食店には店主と客たちの間で長い年月をかけて培ってきた文化があります。一見、不合理に見えたとしても一見の客が「俺はそんなの聞いてない。認めない」とうそぶくほどそれは軽いものではありません。その店の文化にリスペクトすることができないのならば、いますぐその人は店を出ていくべきでしょう。なぜなら飲食店は大勢の人が同じカウンターで食事をとる場所であって、決して「お一人」で食事をする場所ではないのですから。
『お一人様』の台頭は必要以上に他人の目を気にしない心の解放をもたらしました。これは間違いなく歓迎すべきことで「お一人様」の功罪の『功』でしょう。反面、他の人と食事を共にする遠慮や気遣いに無頓着になるという『罪』を生み出したように思えます。その底流には自分の物差しで他者が大切にしているものを計ろうとする傲慢さが透けて見えます。

昨日、『「列車を撮るのに邪魔」 という理由で線路の柵100本を抜いた鉄道ファンが逮捕』という記事を見掛けました。この事件なども「お一人様」的発想が根っこにあるんじゃないでしょうか? あるいはもっとエスカレートして「俺はこんなに愛しているのに、どうしてわかってくれないんだ?」と言って想い人を殺してしまうストーカー犯罪などもたぶん根っこは同じです。あり得ない話ですが、恋愛を「お一人様」でやろうとした末路のように思えます。
『お一人様』に浸りきってしまうと、その分他人の気持ちや想いに対して鈍感になりやしないか? と、お節介な心配をしてしまいます。何事もほどほどに、たまには『お一人様』ではなく、人と食事をともにしましょうよ。
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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