同窓会

夕べは大学の研究室の同窓会でした。中には二十年ぶりくらいに逢った人もいて懐かしかった。
でも、みなさんもっと面変わりしてしまっているかもと覚悟していたのですが、意外なほどあの頃のまんまで笑えました。人は変わらないようで変わるけど、変わったようで全然変わってなかったりするのかな。
主な話題は老眼やら持病やらさすが五十を過ぎたおっさん連中という感じでしたが楽しいひと時を過ごさせて戴きました。首都圏に住んでいる者同士、また遊びましょうね~
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リフレッシュ休暇

うちの会社にはリフレッシュ休暇という長期休暇を取る制度があります。以前は『勤続×十年』とキリの良い年数で戴いていたのですが、本人が気付きにくいという意見が出たのか(確かに自分も今勤続何年かは即答できない)、規定が改められて『×十一歳の年に』となりました。で、今年自分は五十一歳(気分は二十歳だけど)。なんと二週間まるまるお休みを戴きます。
ただ、この制度、難点もありまして『今年は取得年なので取って下さい』と通達が来るだけなんですよね。交代要員が補充されるわけでもなく、業務に支障が出ないようにするのは本人と部署の裁量に委ねられているのでなかなか取りづらいものがあります。というか、まともに考えれば取れるわけがない。欧米辺りで同じ制度のある会社はどうなんでしょうね。なんだかもっと合理的な解が用意されている気がするんだけどな。とはいえ、取らずに済ませると悪しき前例となって「リフレッシュ休暇なんて絵に描いた餅。定時間日と一緒で実在しないんだ」って都市伝説化してしまうと後続に示しが付きません。

で、長々と書きましたが再来週から無理矢理取得しようとしています。カレントで動いているプロジェクトは4件、もうすぐ始まる見込みが3件。周囲の方々には無茶振りしてしまいますが、皆さんが取る時は全力で協力しますので何卒ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。
……、…………、……………………、ってここでお願いしてどうするよ?

せっかくなので、普段は行けないようなところに行ってみようとかれこれ2ヶ月ばかり悩んでいるのですが一週間前になっても未だに考えがまとまりません。温泉があって、その土地でしか食べられない郷土料理が食べられて、見たことのないような景色が観られるような場所を旅行する。なんて考え出すと、どんどんガイドブックに書かれたテンプレートのような旅行をしてしまいそうで、こんな旅行ならテレビで旅番組を観てるだけでも良かったんじゃないと激しく後悔しそう。かといって、修学旅行的な旅行モデルを外して奇をてらうとご近所の散歩と変わらないような街並みを観て帰って来そうでもあるし、悩ましい限りです。
この季節ならまだ紅葉はいけるかもしれませんね。場所によったら雪が観られるかも。寒々とした海をぼーっと一日中眺めるのも悪くない──依然、考えがまとまりません。いっそ、携帯電話もつながらないような海外の僻地にでも潜伏するか?(いや、逃亡犯じゃないんだから)

なんだかんだ言って、自分は土壇場になると急に考えがまとまってあたかも最初からそう計画していたと言わんばかりの行動を取るのであまり心配していないんですけどね。
とまれ、同僚達に大きな負担をかけてまで取る長期休暇。無為に過ごさないよう存分に楽しませて戴きます。お土産楽しみにしていてね。

ジェノサイド

久しぶりに、内容、ボリュームともに『超ド級』と呼ぶにふさわしい小説に出会いました。
高野和明著『ジェノサイド』。文庫なら上下2巻に分かれています。多少のネタバレを含みますので以下を読まれる方はご注意を。

物語は大きく二つに分かれます。一つは東京の大学で創薬を専攻するパッとしない修士課程の学生の物語。彼は急性の病気で亡くなった父から送られてきた時限メールに誘われて父が密かに構築した研究室で新薬の研究を託されます。もう一つは民間軍事会社に務めるベテランの傭兵の物語。新たなミッションとしてコンゴに潜入しアメリカ人学者の救出に向かいます。
読後、解説を読んで「ええっ」と声を上げそうになったのは、『作中出てくる病気(物語の骨格になる遺伝病)は作者の創作で実在しません』という文字。それ以外にも作者の創作ですというキーワードが散りばめられている。

嘘でしょう?

と言いたくなりました。なぜなら、描写があまりに精密でリアルだったから。見てきたような壮大な噓を吐く──この作品をして『超ド級のエンターテイメント作品』と言わしめる理由の一端だと思います。
物語はアメリカホワイトハウスの閣僚会議から始まり日本とコンゴの物語が交互に絵が描かれます。そこにコンゴ・ミッションを指揮する米国政府機関の指揮官が絡み、何やら大掛かりな陰謀が見え隠れし始めます。全く接点がないような日本人学生、傭兵の二人ともが同じ理由でその命を抹消されようとしていることが明かされ緊張感が一気に高まります。やがてコンゴ・ミッションの指揮官と70年代に人類滅亡の危機を提唱した学者との邂逅が物語の核心へと一気に読者を誘います。
作者の高野和明はスピルバーグの「激突」を観て映画監督を志した人物で実際にハリウッドで映像スタッフの仕事をする傍ら脚本執筆の仕事をしていました。その経験は本作にも十二分に発揮されていて、とにかくテンポが良くて飽きさせない。場面転換が適切に早く、物足りなさも冗長も感じさせずぐいぐい読者を引き込んでいく。それを支える基盤は冒頭に書いた徹底したリアリティだと思います。
本当に傭兵部隊に所属していたんじゃないの? と疑いたくなるような緊迫した戦闘シーン。僕の学生時代の専攻だった有機合成のシーンも全く違和感を感じさせませんでした。それどころか「よしそろそろ反応終了だな。なら、クェンチして、カラムクロマトグラフィーで成分を分離。NMRとIRで目標化合物の特定をしなくちゃ」とか考えながら読んでると実際にその通りのことが書いてある。をいをい、あんたどこの学生だよ。と、ツッコみたくなりました。もちろん、作者は有機化学とは無縁の経歴で全て取材によってこれだけの描写を実現しているのです。多少、「いや、それは博打が過ぎるんじゃないの」と言いたくなるような実験計画もありましたが、そう思わせるのはこれが「創作物」ではなく「リアルな現実」だと僕を錯誤させた作品の力でしょう。
ラストは予定調和となるのですが、これ以外の結末はあり得ないと感じさせる揺るぎないもので爽快な読後感が残りました。

数々の賞を受賞し、直木賞候補にもなった本作、イチオシどころか万オシ、億オシといっても誇張ではない大作です。

点と点

たとえば、営業の担当者に
「じゃ、打ち合わせは客先、初台ですから」
と、まるで「初台」は日本人なら誰でも知ってると言わんばかりの口調で言われて電話を切られても首都圏ならまず大丈夫です。
navitimeなどでうちの最寄り駅「新木場」と「初台」を入力して検索をかければ、『有楽町線に乗って市ヶ谷で乗り換えて、新宿から京王線に乗り入れるのでそのまま乗ってればすぐです』とか出てきます。
関東に越して来て約2年と半年が経ちますが未だに見知らぬ場所への移動に感覚が慣れません。鉄道網がびっしりと張り巡らせてあるのでどこへいくにしても『最寄り駅』というものが存在していて、起点と最寄り駅が分かってしまえばあとは乗る電車を調べれば勝手に行けてしまう。時間はかかるけど、まるでどこでもドアのよう。
なので、いつまで経っても初台が東京のどのあたりに位置しているのかということが分かっていません(注:初台は新宿から京王線で一駅向こうです)。どこの駅で降りても似たような街並み。自分がいったい東京のどこにいるのか分からないのに当たり前にお客様と向かい合って打ち合わせをしていることに一抹の不安を感じます。これで良いのか? お前は初台に来たと思っているがnavitimeに騙されて森下辺りに連れて来られているかもしれないじゃないか。お前が初台にいる保証はどこにある? と自問したりして(をい)。
この不安の原因はひとえに点と点が分かってしまえばあとは他人任せで移動できてしまう便利さにあると思います。やはり、点と線──どこをどう辿って目的地に着くのだということを知りたい自分はおっさんなのかなぁ

シェークスピアと物欲と

舞台も花のヴェロナにて、いずれ劣らぬ名門の、両家にからむ宿怨を、今また新たに不祥沙汰……

名作『ロミオとジュリエット』の序詞(じょことば:プロローグ)です。出張のついでに久しぶりに実家に戻りまして、話のはずみでこのお芝居にまつわる「たられば」話を母上と交わしました。

もし、物語の中盤で両家が和睦していたらどうなっていたか?

ロミオ「父さん、僕はいくら反対されてもジュリエットと結婚するからね」
父「なにを言っている? お前も良い大人なんだ。恋愛するなり、結婚するなり好きにすれば良いじゃないか」
ロミオ「え?」

ジュリエット「お母さま、一生に一度の我儘を聞き届けて下さいませ」
母「あら? ロミオ君のことね。良い子じゃない。早く結婚しちゃいなさいよ」
ジュリエット「あのぉ???」

悲劇は起きなかったかもしれないけど、場は盛り下がっただろうなぁと。恋愛というのはハードルが高ければ高いほど、障害が大きければ大きいほど燃えるものです。その障害に挑む自分に酔いしれ、無謀とわかっていても突き進むものです。
唐突にその障害が目の前からなくなってしまったら、盲目になっていた自分がなんだか気恥ずかしくなって、「俺ってばなにやってたんだろ?」と素に戻ってしまうかも。あるいは何だか馬鹿馬鹿しくなって「もうどうでもいいや」という気分になるかも。

で、なんでこんなしょうもない話になったかというと、「若者の○○離れ」がなぜ起きているのかという話をしていたのでした。高度成長期の頃、自動車は憧れのアイテムでした。欲しいけどおいそれと手に入らない。でも、欲しい。なので、若者はがむしゃらに働いて、お金を貯めて貯めてその憧れのアイテムを手にしようとしたのです。車さえ手に入れば友達に自慢できる。彼女を助手席に座らせてドライブできる。傍から見れば下世話極まりない動機に突き動かされて若者は猛進したのでした。
今は自動車を手に入れようとすれば少しバイトをすれば中古車くらいならすぐに買えます。つまり、「欲しければどうぞ買って下さい」という状態なんですね。苦しい生活の中から月々積み立てて「あと少し、もうちょっと」とワクワクする必要がなくなったのです。
このワクワクがなくなったことが、若者から購買欲(=物欲)を奪った原因ではないでしょうか?
「欲しければ手に入る」となったことで「手に入れなくても別に構わない」という選択肢を若者は手に入れてしまいました。「だったら何十万円も払ってわざわざ買う必要ないじゃん」と思う人間が増えてもおかしくありません。
そして、自動車を欲しがらない若者が増えれば、「あいつも持ってる。こいつも持ってる。なのに俺は持ってない」という焦りが生じにくくなります。こうして、ますます「別に自動車なんか欲しくないし」と考え出す負のスパイラルに陥っていくのです。
経済の活性化を期待するなら活発な消費活動は必須です。それは分かっているのですが、「手に入るけど、自分の意思で手に入れない選択をする」、そんなシンプルライフ志向の若者の心情もわからないでもないんですよね。
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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