禁酒宣言

週末から八度台の高熱を出してダウン。流石に仕事にならないので休暇を戴いて近所のクリニックに行ってきました。インフルエンザの反応は陰性。「なんらかの感染症でしょう」ということで、熱さましを戴いてきました。
でもね、原因は自覚しているのです。金曜、土曜と続けて痛飲してしまった。恐らくは肝臓がダメージを受けた反動ではないかと思うのです。似たような熱をこの2年くらい何か月かにいっぺん喰らっています。決まって顔がむくむのが特徴。ドクターにそう話したのですが首をひねっていたので真偽のほどは分かりませんが。
ただ、いい加減毎晩晩酌をする習慣から脱却しないといけないかなと思う今日この頃だって……
飲み始めると際限なく飲む
飲まなかった日と比べて次の日が明らかに気怠い
夜の貴重な時間を無為に過ごしてしまうので勿体ない
実は最近ようやく小説の書き方のコツを掴み始めたところで、今は原稿を一枚でも多く書くべきでは? と考えているのです。ということで、少し真面目に禁酒宣言。長続きするかどうかは自分との戦いですから、まあ頑張ってみます。
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フラッシュモブの思い出

外国のとあるショッピングモール。フードコートではたくさんの人が思い思いにおしゃべりをしている午後。
突然、一人の男性が立ち上がって歌を歌い始める。何事かと戸惑いながらそれを見つめる人、囁き合う人々。
「警備員さんとか呼んできた方が良くなくない?」
と、別のテーブルの女性が立ち上がり男性のソロに呼応するように歌い始める。二人は歩み寄って音楽はデュエットに。ますます、戸惑う人々。と、今度はキャスター付きバッグを引いてフードコートを横切ろうとしていた若い男が振り返りざま歌いだす。あっちでも、こっちでも、それまで歓談していた客たちがテーブルから立ち上がり合唱に加わる。気が付くとフードコートの客の半数が合唱に参加し、戸惑っていた人たちはスマフォを取り出して撮影を始める。
と、そこへ警備員登場。最初に歌い出した男性のもとに近付いて行く。それを見て男性は警備員に向かって歌いだす。警備員は肩からかけたマイクを口に持って行き──歌い出した やがて、フードコート全体を巻き込んだ大合唱で音楽はクライマックスへ。フォルティシモのフィニッシュ。一瞬の間。割れんばかりの喝采──。次の瞬間、歌い手たちは何事もなかったかのように、ある者はおしゃべりを始め、ある者は通り過ぎて行く。

これは、フラッシュモブと呼ばれるイベントです。モブとは「人が沢山集まった状態」を表す言葉で、そこから派生して演劇用語では、群衆、その他大勢、名前のついていない登場人物のことを指します。
フラッシュモブの演出の流れはこんな感じ。
人が多く集まる場所に大量のパフォーマーを仕込んでおいて、それぞれが通りすがりのその他大勢の演技をする。
きっかけを出す最初のパフォーマーがパフォーマンスを始める。次々とパフォーマーが参加しそれに呼応する。
パフォーマンスが終わったら何事もなかった顔で元の通りすがりの演技に戻る。
YOUTUBEや動画サイトでは数多くのフラッシュモブの動画がアップされていて(大概は海外のものです)、一時期ハマって夢中で見ておりました。コメントを見ているとフラッシュモブが好きな人の多くは、「楽しそうだな」「僕も参加してみたいな」と思うみたいです。でも、それに反論するコメントもあって、「あれは海外だからできるんだろ。日本だったら警察呼ばれるって」、「そうそう、だいたい日本人はノリ悪いから白い目で見られて終わりだって」とちょっとネガティブ。

でもね、日本でのフラッシュモブ動画だってあるんですよ。大学の学食だったり、許可を取って街中でフラッシュモブ風の演出でプロポーズをしたり。そんな時、見物している人達は決して白い目で見たりはせず、面白がってるように見えます。やる気になればできますって。但し、当たり前の注意事項が一つ。これ、やる側は決して照れてはいけない。恥ずかしそうにやってはいけない。それをやられると見る側は一気にシラケちゃいます。
かくいう僕もかつてフラッシュモブに参加したことがあります。所属していた合唱団の定期演奏会。休憩をはさんで行われるのはシアター・ピースと呼ばれるお芝居付きの音楽。僕を含む歌い手は普段着に着かえて客席に散っておりました。と、突然「緊急放送、緊急放送。地球があと数分で爆発します」というアナウンス。それをきっかけにあっちでも、こっちでも客が立ち上がり、悲鳴を上げて逃げまどいながら舞台に上がっていくという演出。
あるいは、荘厳な宗教音楽の舞台で。舞台上に現れたのは4人の歌い手。カルテットが始まり……、それに呼応していきなり客席の背後から鐘と合唱が鳴り響く。客電が落ちた後、お客さん達に気付かれないよう客席の後ろに鐘を持って回り込んでたんですね。それから合唱はゆっくりと客席通路を練り歩きながら舞台を上がって行くという演出でした。
フラッシュモブではないけれど、屋外での経験もあります。クリスマス間近の頃に、クリスマスキャロルを歌いながらろうそくを持って街を練り歩く。キャロリングと言うやつですね。楽しかったな。

やる側からするとフラッシュモブの醍醐味はなんといってもの時。まだ、その他大勢の演技をしている時が一番楽しい。急に立ち上がって歌い出したらこの人達驚くだろうなぁとか想像するとたまりません

やる側は決して照れてはいけない。恥ずかしそうにやってはいけない。それをやられると見る側は一気にシラケちゃいます。

その理由も実は同じ根っこにあります。パフォーマーはモブの演技をしているのであって、モブではない。ひとたび、仮面を取ればあくまでも舞台上の人でなければならない。観客(パフォーマー以外の純粋なお客さん)は、いきなりすぐ目の前に現れた舞台上の役者に感動し楽しむのです。モブの仮面を取ったはずのパフォーマーが照れたり、恥ずかしそうにやったら、それはモブの演技ではなくただのモブになってしまいます。これではシラケちゃうわけですよね。でも、懐かしい。
また、いつかフラッシュモブの舞台に立ってみたいな。

合唱アニメ

顧問に「音楽の才能がないから歌は諦めなさい」と言われた女子高生が、それでも想いを諦め切れず、新たに合唱部作りに奮闘する青春アニメ──というキャッチコピーに惹かれて「TARITARI」を視聴。
制作されたのは高い評価を受けた京アニの「氷菓」と同シーズンのようですね。「もっと評価されるべき」というコメントも散見され、もしかして名作の影に隠れた知られざる名作かと期待が高まったのですが……
数話視聴したところで正直期待外れ。青春アニメとしては悪くないと思うんですよ。というか、むしろ良くできていると思います。ただ、合唱がほとんど出てこないんだもん。たまに歌うことはあってもソロ(独唱)かユニゾン(斉唱)。たまにパートが分かれても三度進行のように単純な和音展開で合唱の醍醐味を堪能できるとは言い難い。
そう言えば、随分前に名作クラナドを見るきっかけになったのも「怪我でバスケに挫折した少年と演劇部復活を目指す少女の出会いの物語」みたいなキャッチコピーに惹かれてでした。てっきり「ガラスの仮面」みたいな展開を期待していたので拍子抜けした覚えがあります。まあ、あれは別の意味で稀代の名作で忘れがたい作品になったのですが。

で、TARITARIのというか合唱の話。小学校、中学校でも音楽の授業の一環で合唱をしたことはありましたが、僕が本格的な合唱と出会ったのは大学生になった時の事。男声合唱団の勧誘に乗って入団したのがきっかけでした。男声合唱は通常4パートに分かれていて高音から順にトップテナー、セカンドテナー、バリトン、バスと呼ばれます。で、僕のパートは下から二番目のバリトン。このパートは調(ちょう)の要となることが多く、バリトンのピッチが狂うとメジャーのはずがマイナーっぽく聞こえたり(その逆も然り)、世にも気色の悪いハーモニーを醸し出したりするので責任重大なのです。そのくせ、バリトンのパートだけで歌うと「何が楽しいねん」と言いたくなるような変な旋律であることが多いんですよね。主に主旋律を楽しそうに歌っているトップテナーが羨ましくて仕方がありませんでした。初めてのパート練習では「なんでこんな変なメロディーを歌わなきゃいけないねん?」と大いに疑問に思ったものです。ところが、パート練習が終わって「(音)合わせ」と呼ばれる全体練習が始まった時──世界がひっくり返りました。
音楽がうねる 重厚に、艶やかに、華やかに……
そして練習を重ねるうちにバリトンの旋律の意味が理解できるようになりました。あの旋律は味噌汁でいうと出汁なのです。出汁はそれ自体は甘くも辛くもなく派手さもありません。けれど、お湯に味噌を溶いただけでは味噌汁はできないのです。出汁を引いて味噌を溶いて初めて味噌汁はできる。出汁の旨みが味噌の華やかな辛みを支えて複雑な味が生み出されるのです。

残念ながらTARITARIには今のところそういった場面がありません。というか部員がかつかつの5人で、これで合唱をやるのは一人一人が相当強力な歌い手である必要があるんだけど初心者の彼らで大丈夫なのか? と思ってしまいます。きちんとした演奏をしようと思えばゴスペラーズばりの面子が要るんだけどな
混声合唱は一般に5パート(ソプラノ、メゾソプラノ、アルト、テナー、バス)に分かれるのですが、5人なら丁度1パート1人の勘定。誰か一人が一瞬でも気を抜いたらその瞬間音楽は破たんします。そういった緊張感のある音楽制作や、低音パートの悲哀、音を合わせた時の世界が一瞬でがらりと変わるあの感じなどもっと描いてほしいと切に願ってます。
スポーツアニメだとマニアックなくらいその競技を作り込んだものはいくらもあるし、「ちはやふる」や「のだめ」のように文化部系でもきちんと作り込んでいるものはいくらでもあるのに合唱ってやっぱりマイナーなのかなぁ。とまれ、後半戦。そういった場面が登場することを夢見つつまた鑑賞してみますか。

居酒屋の野球実況

とある海上自衛隊の基地祭での出来事。
如何にもミリタリーヲタク然とした男性が隊員に近付いてきて質問をしました。
「この艦船は最大何度まで傾いても転覆しないか知っているか?(なぜか上から目線)」
「さあ……、存じません」
「××度だ。もっと勉強しろ」
と言って去って行ったとか。このヲタク君、自分の造詣の深さを自慢したかったようなのですが、ミリヲタにあるまじきミスを二つもしているんですよね。隊員さんが言葉を濁したのはそれが機密事項で一般人に話してはいけなかったから。まず、それを知らなかった。もう一つは、××度という数字が間違っていた。あとで、隊員間の笑い話になるくらいの数字で「いくらなんでもひっくり返る」数字だったそうです ま、知ったかぶりも大概にしないと恥をかきます。
テレビが置いてある居酒屋に行くと野球中継を流しているケースがよくありますが、野球好きなおっちゃんが酔って実況を始めることがありますよね。
「あかん、今の球見送ってどないするねん」
「そやない。もっと引き付けてからガツンと打たんかい」
なんてね。それを当の選手やチームメイトが聞いたら、それどころか相手投手が聞いても失笑することしきりじゃないでしょうか? いやしくも、バッターボックスに立っているのはプロ選手です。なかなか打てないのは相手投手もプロだからであって、素人が投げた球ならとんでもない打率で塁に出ていると思います。「なんなら、おっちゃんが代わりに打席に立ってみるか?」って言われそう

昨日の話の続きのようになるのですが、ネットではこういった見当違いな批判が氾濫しています。たとえば飲食店のコメントでも、如何にそこの料理の出来が悪いかを執拗に上から目線で書く人がいます。そのくせ、書いた当人に「じゃあ、あんたが作ってみなよ」と言ったらそういう時だけ「自分は素人だから」と言って逃げるんでしょうね。そう、相手はプロの料理人。しかも、何年も何年も料理を作り続けているベテランです。そんなコメントをもらわなくても分かっているでしょうし、その上でなんらかの意図を以てそう調理している可能性が高いのです。言うだけ野暮というものじゃないでしょうか? それにね、「自分は素人だから」と言っている方は勘違いしていると思うのですが、その店の店主だって生まれた時から料理人だったわけじゃないのですよ。プロ野球選手にはなろうと思ってなれるものじゃないでしょうけど、料理人にはなろうと思えば誰だってなれると思うのです。偉そうなコメントを書いておいて「自分は素人だから」とヘラヘラ笑って逃げるってどんだけヘタレだよと思ってしまいます。
内閣や国会の腐敗ぶりを批判している人にも同じことが言えそう。如何にも国や国民を憂いているポーズを取ってますが、何か忘れていませんか? そういう貴方にも投票権があり、立候補権はあるのです。そんなに現状の政府に不満があって、国民の心配をするのなら、なぜ立候補して自分が議員になろう。そして、世の中を変えていこうとしないのでしょう? それが、一番確かで手っ取り早い方法であるはずなのに。
答えは簡単。投稿者は国や国民の心配なんかしていない。単に他者を叩いてストレス発散、憂さ晴らしがしたいだけだからです。居酒屋の実況中継もほどほどに。でないと、思わぬところで恥をかきますよ。

感動してはいけない?

はい!今回もいつもの調子の薄っぺら~でした・・・
余りに単調な進行に途中で寝てしまいました。
真剣に内容を評するのもバカバカしい

俗に関東では料理屋で出された料理がまずければ客は怒り、関西では黙って帰って二度と来ないなどと言います(ホントかな?)。率直に意見を言うのが決して悪いばかりとは言いませんが、店の中には他にもお客さんがいて、中には「旨いなぁ。この店のうどんは最高だなぁ」とか思いながら食べている人もいるかもしれません。頭ごなしと言うのはちょっと戴けない気がするのです。
ネットの普及で誰もが映画やドラマや小説などの感想を簡単に多くの人に伝えられるようになりました。ただ、気になるのは冒頭にあげたような頭ごなしの批判(批評ではなく批判ですよね)。読んだ人がどう思うかとか考えていないのかな? 中には高評価を付けている人にこんなコメントを付ける人さえいます。

こんなので、感動するなんてどんだけ幼稚なんだよ?

大きなお世話です。こういった頭ごなしの悪評を付ける人の動機をちょっと想像してみました。
論陣を張ることで自分はこの作品を作った人間より偉いんだと主張したい?
こんなつまらない作品で感動するやつの気が知れないと他者を見下したい?

いずれにせよ、ネガティブな動機しか思い浮かびません。人が不愉快になるだけだから黙って店を出て二度と来なければ良いだけじゃんと思ってしまいます。
第一、「こんなので、感動するなんて」って言うけれどその時点で発言者の方が損をしているのは誰が見ても明らかです。映画を観るにしろ、小説を読むにしろ、お金がかかります。折角、お金を払っているんだから「おもしろかった~」って感動する方が得じゃないですか? 最後まで見といて「見る価値なし」ってぼそっと呟いたら払ったお金丸損じゃないですか
あと、悪評を付ける人は批判をすることで自分が如何に洞察力が鋭いか、高次な感性を持ち合わせているかを主張したいようですけど、これ全く逆です。どんな芸術作品でも受け取り手が感性のアンテナを高く上げていなければメッセージは受け取れません。「何も得るものがなかった」と主張することは「アンテナを張る努力を怠っていました」と(なぜか)自慢げに言ってるか、「僕の貧相な感受性では受け止めることができませんでした」と告白しているようなものです。恥かくだけだから止めときなって言いたくなります。
故・淀川長治さんの映画解説には一つ大きな特徴がありました。それは、どんなにつまらない(と思われる)映画でも良い点を見つけて褒めるということです。なんだ、ただの提灯解説かというなかれ。実はこれ、凄いことなのです。すさまじい数の映画を鑑賞し、撮影、演出、脚本、演技等に関する深い造詣がなければ取って付けたような解説にしかなりませんから。誰もがなるほどとうなづけるような褒め方ができたのは、まさしくヨドチョウさんだからだと思います。恐らく、感受性も高く豊かだったのでしょうね。

打ち明ければ、僕だって、「これは酷いな」と思う作品に出合うことがあります。でも、それは僕の肌に合わなかったというだけだと思うことにしています。黙って店を出て二度と来なければ済む話──と思うのは僕が関西人だからでしょうか?

知られざる名作

テレビ離れという言葉が叫ばれて久しいですがそれでもテレビの広報効果というのは侮れないなぁと常々思います。
例えば数年前、深夜アニメで「氷菓」というのがありました。原作者の米澤穂信は大好きなミステリー作家だったので嬉しい限り。制作が名門の京都アニメーションだったこともあって完成度が高く好評価が得られたようです。
米澤穂信といえばミステリーファンならまあ7、8割の人が知っているけど、ミステリーに興味がない人はまず知らないというポジションの作家です。東野圭吾や宮部みゆきはわりと誰でも知っている。けど、米澤穂信を知っていれば「あんたミステリーマニアだね」と言われる境界線に立つ人と言った感じでしょうか。それが、アニメ放映以降、米澤穂信の認知度はぐっと上がりました。「ああ、氷菓の作者ね」と言われるようになった気がします。残念なことに彼は非常に寡作でアニメ以降何冊も本を出していないのですが量産していれば図抜けたベストセラー作家の仲間入りをしてたんじゃないかなと思います。
同様にデビューの頃から注目していて、「この人はもっと評価されるべき」と思っていたユーモアミステリーの旗手に東川篤哉がいます。たぶん、今でも「それ誰?」と言われそうな気がするのですが、「謎解きはディナーのあとで」の作者と言えば誰もが「ああ」と言いそうです。あの作品も良かったのですが、他にもいっぱい良い作品書いてるよと言いたくなるんですけどね。

僕はわりと鼻が利く方なのか、東野圭吾も宮部みゆきもデビュー当時から読んでいて、この人は絶対ブレークすると思っていました。逆に言うと僕が注目していた作家はまず間違いなくブレークするという験の良い読者なのかもしれません
とはいえ、僕が知らないだけで凄い作家はまだまだいるはず。それが本人の実力如何とは無関係にドラマ化、アニメ化された途端有名になるというのはちょっと忸怩たる思いもあるのですが、素直に喜ばしいというべきなのでしょう。
願わくばこれからも知られていない名作にスポットライトが当たりますように。そう願ってやみません。

非常識な尺度

過日、ネットのニュースでとある女性達の会話が話題になりました。発端は喫茶店かどこかでギャル風の女子2、3名がおしゃべりしているのを耳にした人がツイッターに呟いたこと。会話の内容はこんな感じ。
「カレシがさあ、日本電気とかいう聞いたこともない会社に就職決まったっていうんやんか」
「何それ? 電気屋か何か? うちも聞いたことないわ」
「んでな、そっこー振ったった」
「それで正解ちゃう?」
このツイートが拡散するにつれ、ネットの検索ランキングで唐突に「日本電気(NEC)」というワードがトップに躍り出たとか
ネットのつぶやきや書き込みを見ていると投降者が常識知らずなだけの不当なコメントをよく見かけます。「俺が知らないんだから、それは常識でもなんでもない」みたいなとんちんかんな意見なのですが、いやいやちょっと待てと言いたくなりますね。もっと怖いのはそれに同調して、「そうだそうだ。俺も知らん。そんなのを常識として押し付けるなよ」みたいな意見が増殖してるのを見たときかな。だからちょっと待て、君の非常識をこっちに押し付けるなよ。と言いたくなります。
そういえば、人気コミック「ザ・シェフ」にもそんな話がありましたね。メニューに書かれた「タルタルステーキ」というのをオーダーした客が出された料理を見て「なんだこれは? ステーキじゃねぇじゃねぇか」と文句を言う話です。タルタルステーキというのは牛肉のタタキのような料理で確かに我々がステーキと聞いて思い浮かべる料理とはかなり違います。思うにこのお客は知ったかぶりをして(タルタルステーキがどんな料理か知っている振りをして)いきなりオーダーするのではなく、店員に一言どんな料理か聞くべきだったのではないでしょうか?
誰しも自分が知らないことはあります。知らないことは知ろうとすれば良いのであって、そうやって人は常識を身につけていくのだと思うのです。それを、知ろうとしないばかりか、自分が知らないことは他の人も知らないことなどと非常識な尺度で計って揶揄する風潮は如何なものかと思います。なにより、折角の常識を身につけるチャンスを逃しているのが勿体ないですね。

ダンディズム

映画カサブランカの登場人物にはモデルがいるということを最近知りました。といっても、ハンフリー・ボガードが演じたリックの方ではなくその恋敵ともいうべきレジスタンスの主導者ラズロ。彼のモデルはなんと青山栄次郎という日本人(正確にはオーストリア人とのハーフ)なのだそうです。彼はヨーロッパ全体で一つのような国を構築する汎ヨーロッパ主義を唱え後のEU設立に尽力した人物です。第二次世界大戦中、彼の思想はヒトラーにとって大きな障害となったため追い回されて亡命に次ぐ亡命を余儀なくされたのだとか。最終的に彼はアメリカに逃げ延びます。
このエピソードに着想を得て、行方不明の恋人と再会したら彼女にはレジスタンスの夫がいて亡命しようとしていたというドラマチックな映画が製作されました。それが「カサブランカ」なのです。
行方不明の恋人イルザを演じたのはイングリッド・バーグマン。恋人が行方不明になり傷心のうちにカサブランカに移り住んでバーを始めたリックを演じたのはハンフリー・ボガード。今観ても全く色あせない名作です。
再開を果たした二人でしたがイルザはリックに夫と亡命するために通行証を譲ってほしいと願い出ます。ひどいですねぇ。今でも未練タラタラな元カレにそれを頼むかよと言いたくなりますねぇ。リックは苦悩しながらも最終的に彼女に協力し秘密裏に飛行場へと手引きします。
ラストシーン、夫を一人で逃がして残ろうとするイルザをリックは「僕にはやらなければいけない仕事があり、僕の行くところに君はついていけない。君がいると僕のしたいことができない。」と説得して一緒に行かせます。「おい、なにやってるんだよ」とツッコみたくなりますねぇ。「何、自分からバームクーヘン・エンド選んでるんだよ」とか。名セリフ「君の瞳に乾杯」と告げてイルザを見送るリック。ホントにそれで良かったのかと思いつつボギー(ハンフリー・ボガード)がやると格好良いんですよねこれが。
そういえば沢田研二の曲に「カサブランカ ダンディ」というのがありましたっけ。
♪ボギー、ボギー、あんたの時代は良かった。男のやせがまん 粋に見えたよ。
という歌詞はこの映画のラストシーンから来ているのですが、ホント「やせがまん」です。でも、僕だったら粋でなくても良いから彼女に残ってもらうな。
カサブランカを思い出すと決まってセットで思い出す邦画があります。宮崎駿初監督作品、『ルパン三世カリオストロの城』。
ラスト、カリオストロ家の呪縛から解放されたクラリスを見届けてルパンは去って行こうとします。一緒に行きたいとすがるクラリスを優しく突き放して車に飛び乗るルパン。次元大介の「おめえ 残っててもいいんだぜ」というセリフも聞こえないふりをします。こっちも、たいがいにやせがまんですねぇ。
宮崎監督は後にリックを主人公にしたアニメーション映画を製作します。ただしこの主人公、人間ではなく豚。映画『紅の豚』はカサブランカと重ねて観るとあちこちで共通点があって面白いですよ。
カサブランカとルパン三世カリオストロの城、そのどちらにも共通する男のダンディズムは自分の想いより愛する女が幸せになることを優先したこと。リックもぐだぐたと小理屈を捏ねてましたが結局は彼女のことしか考えてなかったのはバレバレです。そんな男の一途な想いが観るものをしびれさせるカッコよさに繋がっていくのでしょう。

真実はいつもいっぱい

名探偵コナンの決め台詞「真実はいつもひとつ」というのを聞く度に違和感を感じます。理系の自分から言わせれば事実はいつもひとつだけど、真実は観測する人によっていくつもあるものじゃんと思ってしまうからです。
たとえば、殺人が起きて犯人が明かされたとします。

BさんがAさんをナイフで刺したことが原因でAさんが死に至ったのは『事実』です。

つまり『事実』の解明は客観的な視点から観測し因果関係を明らかにする科学的手法が取られているのです。

当初、BさんとAさんはCさんと三角関係にあり、痴情のもつれから殺人に至ったと思われていた。しかし、AさんはCさんの父親のことで彼女を脅迫していた。追い詰められたCさんを見かねたBさんが凶行に及んだのです。これがこの事件の真相です。

これがいわゆる『真実』というやつだと僕は思っています(言葉の定義だけの問題かもしれませんが)。たとえば、探偵がこんな風に解説したとしても、それを聞いて依頼人が納得したとしてもそれは主観に過ぎません。別にBさんの脳みそを解剖して確かめたわけではありませんので本当にBさんがそう考えていたかどうかは本当は分からないことなのです。
「いや、単にAが持っていた限定物のウォッチを盗もうとしたらあいつに見つかってさ。もみ合ううちに刺しちゃっただけなんだけどね。ま、いっか」Bさんが心の中で舌を出していてもそれは誰にも分りません。

ミステリーの中で探偵は二つの仕事を負います。まずは事実の解明。いつ、だれが、どこで、何を、どうやって行ったかを明らかにする。これが探偵の第一の仕事です。いわゆる5W1Hのうちの4W1Hがこれで解明されたことになります。では、残る1Wは何でしょう? そう、WHY(なぜ)=動機です。探偵の第二の仕事は依頼人の主観に立って納得のいく動機を示唆し、それが『真実』だと宣言することです。
こう書くと『事実』と違って『真実』は如何にも胡散臭く聞こえます。事実その通りで動機の解明なんてものは単なる後付け作業で胡散臭いことこの上ありません。でも、この探偵の第二の仕事にこそ作家の技量が問われると僕は思うんですよね。
5W1Hのうち、WHY以外はいわゆる『事実』というやつで五感で確認できる現象と言うものに属します。そこには人間の感情は一切さしはさまれません。ところがWHYだけは人間心理そのものの解明で、それをどう紐解くかによって、依頼人=読者の感情を揺さぶり得るのです。
いくら秀逸なトリックを用意しても、驚天動地のサプライズエンディングを用意しても、WHYの解明を疎かにするとその小説は内容の薄い絵空事めいてしまいます。逆にトリックは平凡でも、それをなした心理の解明が秀逸であれば読者の心を揺さぶることが可能です。
凡百の小説より奇なる『事実』を用意して驚かせるのがミステリーという小説ジャンルの趣向です。けれど、ミステリーが単なる推理クイズと一線を画するのは犯人が心に秘めた『真実』の解明にこそあると僕は思います。願わくば、残虐な殺人が繰り返されたとしても最後に一縷の希望の光を遺し、読者に生きる希望を与える小説であらんことを。これこそ僕がミステリーに期待する役割です。
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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