尺度の高さ

サラリーマンを長くやっていると部下の不平不満を聞くことも多々あります。典型的な不満の一つは昇格に関すること。
「あの先輩が主任になれていてなぜ自分は昇格できないんですか?」ありがちな、論陣ですが誰もが認める不出来な先輩を例に挙げて自分はあれよりは絶対マシだと訴えてくるというパターンがとても多いです。けれど、訴えてくる彼は二つのことを見落としているんですよね。
どれだけえりすぐっても同じ主任で、できの良いやつもいれば不出来なやつもいる
ただ、新たに主任を選ぶ時、できの悪い主任を基準に選ぶ馬鹿はいない
なので、一つヒントをあげることにしています。「君が入社してから今まで出会った中でベストと思う主任を思い浮かべてみて。で、君がその人と同じだけ仕事ができるようになっていてまだ主任に昇格できないというのなら、もう一回訴えて」
人間はどうしたって自分には甘いので物事の尺度を決める時に自分の手が届く高さに設定しがちです。でも、それって何かを目指すのであれば意味のない行為なんですよね。だって、今でもすぐに手が届くわけですから。尺度の高さと言うのは絶対に手が届きそうにない高さ設定すべきなのです。エベレストに登ったり、月に行こうなんて考える人は間違いなくそういう目標を設定していて、どうやったらそこに辿り着けるかを模索します。
こと甘さに関しては人のことは言えず僕も同じです。小説を書いていても「ま、これくらい書ければ良いんじゃないか」とすぐ妥協しようとします。そんな時は、自分に問うようにしています。「この小説は宮崎駿のエンターテインメントを越えているか? でなければ、今更誰がこんな話を読みたがる」
読者というのは貪欲なものです。見たことも聞いたこともない物語を常に探し続けています。どこかで見たようなぬるい物語を今更差し出されても誰も喜ばないだろう──物語を書くときはそうやって自身を叱咤しながら書くようありたいと僕は思っています。
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生まれつきとない物ねだり

子供の頃から諦めていることがあります。

「僕はスポーツはできない」

体を動かすのが何より大好きな友人は沢山いましたし、彼らが軽々と飛び跳ねている姿を見てうらやましくも思いました。けれど、やはり最初からスポーツは諦めています。体は硬いし、どうやったらあんな風に体が動くのかわからない。レクチャーしようとしてくれたと友だちもいましたけれど、最終的には「なんでできないかわからない」と首を捻るのがオチ。なので、そういうDNAを持ってうまれたんだろうと、とうに諦めています。
今週の後半はマネージメントの研修を受けていました。お題は「ネゴシエイション」。その中のミニ・トレーニングでちょっとした連想ゲームをやりました。特定の単語を提示されてそこから連想するものを書き出していくというものです。答えを先に言うと最終的には「雪が融けたら何になる?」と聞かれて「水になる」(論理的思考)と答える人と「春になる」(観念的な思考)と答える人がいるから相手の特質(心理的な利き手と呼んでました)を見極めて折衝しないとうまくいかないよという気付きをするためのセッションだったのですが。
で、戴いたお題は「雨」、「時間」でした。2分の持ち時間で思いつくだけ書きだして周りの人と見せ合いっこ。予想はしていたのですが、僕が書きだした言葉は他の人の3倍くらいの数がありました。時間に至っては一つきり書いてギブアップした人もおりましたが、僕にはそれが不思議に思えてしまうのです。間に合わない、遅刻、鐘、過去、未来、タイムマシーン、針、厳守、約束、時計……いくらでも思いつきそうなのに。
自覚がありますが、僕はIQが高いです。前にテレビでやっていたIQテストに挑戦したら140を超えていました。50過ぎではかなり珍しいらしい。不遜な言い方になりますが僕にしてみれば何も特別なことではありません。生まれて気が付いたらこうだったというそれだけです。

人は生まれついて持っているものというのがあります。持っている人からしたら何も特別なものではないけれど、持っていない人からすれば羨望と嫉妬を抱かずにはいられないもの。野球が好きで好きでたまらないのに、フィールドに出ればトンネルと落球の嵐、バッターボックスに立てばバットがボールに当たったためしがない少年がいます。バンドに憧れているけれど、生来の不器用でギターもキーボードもてんでダメ、おまけに酷い悪声で音感ゼロな少女がいます。
「諦めたらそこで試合終了」というのはスラムダンクの名セリフですけど、生まれた瞬間から諦めるざるを得ない宿命の人間は山ほどいます。それでも踏みとどまってボールを拾いに行く? たどたどしいハノンを今日も弾く? なんの努力もしなくてもボールを外野に運び、ピアノから音楽を湧き上がらせる友人を横目で見ながらないものねだりをしてしまう子供たち。世の中は残酷なくらい不公平にできているなと思う瞬間ってありますよね。

行間が読めない

「……そう、雪ノ人って言うんですって」
 皿を洗いながらユキノちゃんが香山君と話している。串の焼き加減を確かめながら聞くともなしに俺はその話を聞いていた。

ゆきのまち幻想文学賞に応募した拙作『雪ノ人』の書き出しです。予備選考は通過したものの本選で落ちてしまったので、その後ネットの書評サイトに投降してレビューしてもらいました。その際、「ユキノちゃんの立ち位置が分かり難い。僕はしばらくユキノちゃんは店の客で香山君の隣に座ってしゃべってるんだと思い込んで読んでましたよ」というコメントを戴きました。自分も一瞬「しまった、描写が抜けていたか」と思ったのですが読み返したらちゃんと書いているじゃないですか。「皿を洗いながら」おしゃべりをする客はいません。たった七文字の描写だけどこの一言でユキノちゃんが店員だということが窺えます。
小説でも映像作品でも人はそれを鑑賞する際、想像力を働かせます。この例のように、時にそれは本来の作品の描写と相反する思い込みを誘発することがあります。誤解が生じないように正しく想像を膨らませられるように的確な描写をするのは作者の務めなのですが、あえて描写しない方が雄弁に物語を語るケースも往々にしてあります。

夏草や 兵どもが 夢の跡

有名な芭蕉の句です。これって世界で一番短い、行間を読ませる文芸作品だと僕は思ってます。芭蕉の目の前に実際にあるのは夏草のみ。もちろん、戦国乱世の人々が目の前で合戦を繰り広げていたりはしません。けれど想像力をたくましくすれば、鬨の声、人馬の駆ける音、弓の唸り、刃と刃がぶつかり合う音、悲鳴、慟哭、アドレナリン全開の高揚感、戦友を失った悲哀などが沸き上がってきます。が、ふと気が付くと目の前にあるのは青々とした夏草、蝉しぐれ、のどかな鳥の声──「夢の跡」という一言で現実に引き戻される見事な結びになっています。
ネットの小説や映画レビューなどで「薄っぺらい」、「何が言いたいのかわからない」といったワードをよく見かけるのですが、本当に想像力を働かせて観てる? と聞きたくなります。もしかして、老境に差し掛かった男が夏草の前にたたずむ長回しを指してそんなことを言ってない? 再現映像のように合戦の光景を描写してもらわないと男が何を思っているかわからないとか考えてない? と聞きたくなります。具体的な描写は一切省いて、全て読者の想像力に委ねる手法は時に宇宙をも体感させる力強い描写になります。なぜなら、具体的に描いてしまった描写は所詮書き割りの域を出ることはなく対して人間の想像力は無限に広げることができるのですから。
行間を読ませるという言葉があります。実際には何も書かれていない行と行の間に作者がどんな思いを込めているのか読者に想像を働かせる手法です。ただ、当り前ですが何か印が付いていて「はい、この個所は行間を読んで下さいね」と指示が書かれているわけではありません。だから、その行間を読み取ることができるかどうかは読者の技量次第なのです。それを100%作者の描写不足で片づけてしまう人はそもそも文芸や映像作品を楽しめない人なんだなと思ってしまいます。だって作者のせいにしてしまったら自分の観賞技量を伸ばす努力を止めてしまいますから。
敢えて作り手側に非があるとすれば、分かり易い作品を作り過ぎたことではないでしょうか? ハリウッド式に一から十まで説明してその時の登場人物の気持ちもセリフで表現してしまうそんな作品を乱発した弊害が読者の成長を止めたのだと言えなくはないです。

五月雨を集めてはやし最上川

ごうごうと音を立てて流れる最上川が目の前に浮かぶような見事な描写です。それでも、描写は描写。夏草や 兵どもが 夢の跡の数百年の歴史を軽々と超えてしまう奥行きには遠く及ばないと僕は感じます。

失敗の料理学

名前だけは聞いたことがあった「食戟(しょくげき)のソーマ」を今更ながらに鑑賞してちょっとハマってます。
料理をテーマにした作品ということは知っていたのですが、典型的なフード・バトル物ですね。定食屋の息子である主人公は父親によって強引に著名な料理学校に入学させられます。そこは才能あふれる料理人の卵が日夜料理の技量でバトルを繰り広げる過酷な世界、てな感じの如何にも少年漫画らしいストーリーです。
実は主人公の父親はかつてこの学校に在籍し数々の伝説を残した幻の料理人という設定で、主人公も中学生とは思えない料理の技量と天性の閃きを受け継いでいるのです。が、彼にはもう一つ大きな武器があります。それは「失敗の料理学」。
基本、彼の作る料理は誰もがうっとりするほど美味に仕上がるのですが、時折作る新メニューは食べるものを青ざめさせ、大泣きさせるほどの激まず それでも彼はこう言うのです。

「でも失敗したっていう経験を得た」

実はこれ、料理をやる上ですごく大切なアプローチと発想なんですよね。誰もがもてはやす店の看板料理あればその料理に頼りたくなるのは人情。なのに、それでよしとせず新しいメニュー、新しい味を開拓しようと挑み続けるということはそう簡単にはできません。だって、誰も失敗なんかしたくありませんから。けれど、人の舌は慣らされていくものです。どんなに美味な看板料理でも何度も食べていると初めて食べた時に感じた新鮮さ、衝撃は薄れていくもの。客にまたこの店に来たいと思わせるにはそういった鮮烈な感動も大事だと思うのです。
新しいことに挑み続ければ転ぶことだってあります。時には大けがをすることもあると思います。それでも、その痛みを胸に刻んで経験を得たと言い放てるのは間違いなく、その失敗を糧にできているから。
タルト・タタン。クレープ・シュゼット。折りパイ。今知られている有名な料理の中には失敗から生まれたものが沢山あります。生み出した料理人はその失敗を恥じる必要は全くありません。何度も失敗するほど何度も挑み続けたということですから。
久しぶりに良いマインド、良い哲学を教えてもらった気分です。

酸っぱい苺

この国は貧しい時代が長かったからか、「高額な食材」=「美味しい」、「美味しい」=「高額」という通念があるようで、なかなか自分の舌を信じてあげられない人が多くいるようです。
例えば鶏肉だと若鶏は安くて100日鶏など日数をかけて育てる親鳥は高価です。だったら、親鳥の唐揚げなんて作ったら美味しいかというとそんなことはなく、恐らく揚げ油でベタベタになって食べられたものではないと思うんですね。人間もそうですけど動物は若いほど脂ぎっていて年寄りになるほど脂が抜けていく体質にあります。なので脂が抜けたいわば爺さんの鶏を揚げ油に投入すると自分が脂が少ないせいで揚げ油を吸ってしまうのです。こと唐揚げについては安い居酒屋でも高級な店でも「若鶏」を使っているのにはちゃんと意味があるのです。
苺も近頃では一粒千円、なんてすごいのが出回っています。あれはあれで需要があって病気のお見舞いなどにきちんとした箱に詰めてお持ちすればもらう方も「ああ、苺に千円もかけてくれたんだな」とすぐに察することができます。実際値段なりに美味しいですしね。けど、あれをショートケーキに使ったらどうでしょう。ショートケーキはスポンジもクリームも甘いのです。その上、トッピングに使う果物が極甘の果汁たっぷりだったら食べる方はちょっと辟易してしまいます。第一、サイズが大きすぎて全体のバランスが悪いです。ショートケーキやタルトに使う苺はむしろ酸味が強くて甘みが少ない1パック200円くらいの安い苺の方が向くのです。
高い食材は往々にしてそのまま食べる分には安い物より美味しいことが多いです。けれど、料理で使う時は適材適所。安い食材の方が断然良い場合もあります。それを見抜いて使い分けるのが料理人の技量。逆に食べる側の人は安い食材を使ってるなと侮ることなくまずは箸を取るべきかと思います。

言ってくれなきゃわからない……のか?

2013年の夏公開作品でしたので、はや3年が過ぎようとしています。宮崎駿監督引退作品『風立ちぬ』。公開早々に映画館に足を運びました。ラストシーンは気が付くと滂沱の涙が止まりませんでした。エンジニアと言う職業を選んだ人間の一人として主人公に強い共感を覚えたことが涙の大きな理由だったのかもしれません。三十年近くもやっていれば作中で描かれたような狂気を孕んだ修羅場を何度も経験しています。普通の生活も家族も顧みず、睡眠すら惜しんで仕事に没頭する日々。それでも、過酷な納期を間に合わせた時の達成感はやりおおせた人間にしかわからないものです。スクリーンの中の次郎はまさに僕でした。
が、反面、僕の娘達がこの作品を見て感動するだろうか? という点については大いに懐疑的な気分になりました。次郎はその時、何を思ったのか? なぜそのように行動したのか? そういった主人公の心の動きや行動原理の説明がギリギリまでそぎ落とされていたのです。まるで小説のように「行間を読ませる」ことをこれほどまでに求める映像作品を僕は観たことがありません。「そんなこと、いちいち説明しなくても察することができるでしょ」不敵に微笑む巨匠の姿が目に浮かぶようでした。126分の長尺。一時も気を抜かず集中力の持続を強いられる作品。エンドロールを眺めながら心地よい放心状態に陥っておりました。
当初、ネットでの評価は酷評に次ぐ酷評でした。「わけがわからない作品」、「自己満足」、「ラピュタやトトロは良かったのに」などなど。僕に言わせればラピュタやトトロは名作だけどそれと同次元で語るべき作品じゃないと思うのですよ。「風立ちぬ」は限りなく文芸作品に近い表現手法を取っていて、ただ口を開けてぼーっと眺めていれば勝手に状況説明してもらえてストーリーが流れ込んでくるようなものではありません。能動的に作品にのめり込んでいかなければメッセージを受け取ることができない、ある種実験的な意欲作だと思います。最後の最後になってなお、従来のアニメ映画の規格で計れないスタイルの作品を打ち出した巨匠に敬意を表します。
反面、「わからない」とか「つまらない」で切って捨てている人が少し気の毒になります。きっと、映画でもドラマでも全部説明してもらえる事に慣れきっていて、想像力を働かせるという訓練ができてないんだろうなと想像してしまいます。だから、敢えて説明を削いでいるのに「説明してくれなきゃわかるわけがない」と怒るんでしょうね。でもね、説明してしまったら解釈はその一通りだけになっちゃうんですよ。観客一人一人が歩いてきた人生は一人一人違っているわけだから、その一通りの解釈に共感できる人もいれば共感できない人もいるわけです。でも、説明を削げば一人一人が自分の人生に照らして解釈できるわけで自分が一番納得のいく答えを掴むことができるじゃないですか。

って、ここまで言わなきゃわからないのかしらん? 酷評している人はそこに書かれている通り「そんなの言ってくれなきゃわからない」で思考が止まっているようですが、もう少し読書の経験を積んだ方が良いと思いますよと思ってしまいます。
あれから三年、少しずつですけど高評価のコメントを散見するようになりました。あと十年、二十年、公開当時あの作品を観て酷評した若い世代が老境にかかる頃にはこの作品の評価ががらりと変わっていることを僕は少し夢見ています。

僕の中二病体験

中二病と言う言葉が初めて使われた日は明確になっているらしくて、1999年1月11日だそうです。伊集院光が自身がパーソナリティーを務めるラジオ番組で使ったのが始まり。翌週からはリスナーの身の回りであった中二病体験を紹介するコーナーが立ち上げられたそうです。
中二病とは中学二年生くらいの思春期の頃、自意識過剰のあまり衝動的にやってしまうイタイ行動の総称です。
例えばこんな感じ。
洋楽を聞き始める
うまくもないコーヒーを飲み始める
不良のふりをする(それを自慢する)
「サラリーマンにだけはなりたくねーよなぁ」と呟く
売れたバンドを「売れる前から知っている」とムキになる
「大人は汚い」とぼやく
往々にして後から振り返れば「ぎゃー」と悲鳴を上げたくなるような行動が多く、誰にも知られたくない黒歴史となる傾向にあるようです。で、僕の中二病体験って何だったんだろうってふと考えてみました。
そう、あれは小学校五年生の頃です。(って、早熟だな)
唐突に松本清張の「砂の器」を読み始めた。
 知らない言葉がいっぱい出てくるので辞書を片手にでしたね。でもね、辞書があんがい役立たずなのです。例えば、物語の冒頭に二人の男がトリスバーでハイボールを飲む場面があるのですが、トリスバーもハイボールも辞書に載ってない(当り前である)。トリスバーはなんとなくお酒を呑む店の名称だろうと想像が付いたのですが、ハイボールはさっぱり。小さなボウルに入ったお酒かなとか想像してました(正解はウィスキーのソーダ割りです)。他にも辞書だけでは読解できない箇所が沢山あったのですが、ラストで刑事が犯人に対して「情状酌量」という言葉を使うシーンなども難解でした。確かに辞書を引けば情状酌量とは「過失をとがめたり、懲罰したりするときに、同情すべき点など諸事情を考慮することをいう」って書いてますよ。でも、人を殺した犯人になぜ同情すべき点があると考えたのかは載ってないのです(当り前である)。事件の背景になったハンセン病の歴史的な意味を知らない小学生が読むには早すぎたようです。
とはいえ、一か月以上かけて砂の器を読破した僕は次に何をしたかと言うと
源氏物語を初めとする古典文学を読み漁った。
だいたい、小学生が初めて手に取る古典文学が源氏物語ってどうよって感じですよね。実は、源氏物語とは源平合戦を描いた血沸き肉躍る合戦絵巻だとイタイ勘違いをしていたのでした。ところが、読めども読めども戦いのたの字も現れず、主人公があっちの女に手を出し、こっちの女にちょっかいを出し、退屈この上ないストーリー展開。途中で「自分は何か大きな勘違いをしていたらしい」と気付いたのですが、なけなしの小遣いで買った本ですから最後まで読み切りましたよ。読後感は「たいくつでつまらなかった」でした。ま、その後、平家物語も義経記も曽我物語も読んじゃいましたが。で、その後、僕が何をしたかと言うと
中学校に入った途端、幼児退行したかのように絵本や児童文学を読み漁った
佐藤さとるのコロボックルシリーズにハマって、その頃に、彼の作品はほぼ全て読んでしまいました。

ふり返ってみても読書以外のことで中二病らしき振る舞いをした記憶はほぼなく、ちょっと変わった子供だったのかもしれません。そしてこれも多くの人と違って、僕にとっての中二病体験は黒歴史になりませんでした。ちょっと読んだ年代が早過ぎたかもしれませんが、貴重な読書体験となって今でも僕の体の一部として息づいています。今でも『砂の器』と聞くと夏の暑い盛りに土埃の舞う田舎道を歩いて行く刑事の姿が思い浮かびます。難解なところもあったけどそれだけ深く心に残っているんだなぁとしみじみ感じます。

美醜今昔

今更ながらですが、ブームになっていた『村上海賊の娘』を読んでおります。現在、上巻を読了したところ。僕は根が天邪鬼で、もてはやされている映画や小説のブームに乗っかるとなんだかミーハーな気がして敬遠しがちなのですが、今作に関しては今まで手に取ってなくて損をしていたと思わされました。

面白い

史実に則りあたかも歴史もののように描写しながらきちんとドラマになっている。まるでハリウッド映画を観ているような壮大な三幕構成がきっちり構築されています。で、ストーリーの本筋とは関係のない話を書きます。
タイトルにもなっているヒロイン、村上海賊の当主の娘、名は景(きょう)と申します。よく言えば天衣無縫。悪く言えば粗暴。当年、二十歳にもなって十歳の子供に「ガキだ」と言われる始末。加えて醜女(しこめ)。当然の如く行き遅れております。
でも、大きな瞳、彫りの深い鼻梁、ぜい肉をそぎ落としたようなスリムな体躯。描写を読む限りむちゃくちゃ美人なんちゃうん? とか思ってしまいます。逆に物語の序盤に登場する彼女の義妹(養子縁組の関係で妹になった娘)は、評判の美人で引く手あまただったと描かれているのですが、体型はぽっちゃり型、目は細く、鼻はちんまり。うーん、時代が450年ほど遅ければかなり残念な感じがします。
ストーリーが進んで景は泉州(現在の堺市)に赴くのですが、当地の海賊たちにごっつい美人ともてはやされるに至って疑念は確信に変わりました。東洋のヴェニスと呼ばれていた堺は国際的な商都。南蛮人を見慣れた男達は他の土地の日本人に比べて美人の基準がヨーロッパよりだったと思われます。そんな男達からすればスリムで彫りの深い顔立ちの彼女は良い女に見えたのでしょう。この景ちゃん、21世紀だったらモデル並みの美人に違いない。ちょっと意外な気もしたけど、戦国時代も美人の基準は平安時代とあまり変わらなかったのかな?
そういう意味ではアニメにもなった『織田信奈の野望』(大半の武将がアニメ顔の美少女と言う戦国絵巻)の登場人物はそろいもそろってブサイクと思われてたのかもしれません。体型はスリムな方が良いと言われて女性がダイエットに夢中になったのも戦後のことですし、今我々が感じている美醜の感覚は案外歴史が浅いのかもしれませんね。

やくたいもない会議

僕は会議が嫌いです。正確に言うと益体(やくたい)もない会議が嫌いです。
どこの職場も似たり寄ったりな気がするのですが、目的が不明確な会議がしばしば開催されます。それに付き合わされるのは時間の無駄以外の何物でもありません。長年の経験でそういった無意味な会議にはあからさまな特徴があります。たとえば……

出席者が数名以上
 とりあえず、関係者全員集めてみました~、って感じの会議。こういった会議では終わるまで一言も発言しなかった人が多数発生します。じゃあ、なんのために出て来たの? って聞きたくなります。あとで、議事録読むだけで十分じゃん。「いや、議事録に書かれていないことも共有できるから」と屁理屈をこねる人が出そうですが、それは議事録の採り方が下手なだけで別の話。
アジェンダが提示されない
 会議が始まるまでに議題とGOALが提示されない会議が横行してます。酷いのになると会議開催の第一声が「さて、どうしましょう」だったりします。会議の良し悪しは主催者がどれだけ準備してきたかで決まります。なのに、意外なくらい「会議を開くには準備がいる」ということを知らない人が多くいます。基本、僕はアジェンダが提示されない会議は断ることにしています。

出来の悪い会議に出席すると往々にしてこんなことが起きます。
これはどういうことだろう? という議論が始まる
一見まともに見えるのですがそこで交わされるのは議論ではなくて憶測に基づく意見ばかり。僕は技術屋なのでよく製品の仕様に関してこういった会話が交わされるのですが、その製品を作った人に確認すれば一瞬で方が付くとなぜ気付かない? はっきり言って時間の無駄です。
大勢の出席者の中で特定の二人が別の仕事を始める
「あの件、どうなっていたっけ?」と言いだす人がいると赤信号。延々と「あの件」の引継ぎが始まってその間、残りの出席者は置いてけぼり。それは会議が終わってからやってよと言いたくなります。

出来の悪い会議にはある特性を持った人物が不在だと思うのです。それは「有識者」(会議のテーマに関してその内容をよく知っている人。さっきの例でいうと製品の仕様を熟知している人)、「判断者あるいは決定者」(会議の結論に対して決断を下す権限を持った人。これがいないと結論らしきものが出てもそれで良いのかどうかわからず会議を終われない)
その結果、憶測とため息で時間を潰して、そのくせ何も決まらない会議が横行することになるのです。それでも、嬉々として会議の〆に「次回はいつにしましょうか?」なんて言ってる人を見るとどんだけだべるだけの会議が好きなんだよ? って言いたくなります。そういう人を見ていると結局会議って自分で仕事をできない人が誰か他人に自分の仕事をやってもらうためのイベントなんじゃないのかなと疑っちゃいたくなりますね。

舌を鍛える

ゴールデンウィークに前から行ってみたかった煉瓦亭で食事をしました。日清戦争の翌年に開業した洋食屋。老舗中の老舗です。
ハヤシライスを戴いたのですが濃厚なデミグラスソースの香りと野菜の甘さにうっとりとなりました。何日も時間をかけて煮込んだからこそ出せる味。こう言った家では作れそうにない料理こそ外食で楽しむべきだなぁと感じました。で、食べているうちにふと感じたデジャブ。この味、記憶がある。恐らくソフリット(香味野菜を時間をかけて炒めたもの)にブラウンマッシュルームを使っているんじゃないかと思います。以前、若鶏のマレンゴ風というのを作った時の味とよく似ていたのです。

どんなに味覚が鋭敏な人でも口にしたことがない食材や調味料を言い当てることはできません。逆に慣れ親しんだ味ならさほど味覚が鋭くなくても言い当てることができます。その点、料理をするかしないかは舌を鍛える上で大きな差が付くポイントだと思います。料理をする人は自分がどんな食材を使い、どんな調味料を使ったか知っています。そして、その結果どんな味の料理ができあがったかを知っています。学生時代に独り暮らしを始めたのが僕の料理事始めでしたが、あれから33年。空いた時期もありましたが今では毎日料理を作る暮らしです。自覚は薄いけれどいつの間にか舌の上にたくさんの料理の記憶が植えつけられているんでしょうね。だから、他の人が作った料理を食べても使われている食材や調味料、調理法などが想像できてしまうようです。そう考えると、ちょっと格好良い異能を持ったみたいで嬉しくなっちゃいますね。

合理的な方便

ネットでもたまに話題に挙がりますが、結婚式を挙げないカップルが増えているようですね。
確かに昭和からバブル期にかけての結婚式を振り返るとやたら豪華でお金がかかっている割には、似たような進行、似たような料理、似たような出し物、あえて常套句を使うと判で押したような印象で記憶に残り難いイベントだった気がします。その反省なのか反動なのか、高いお金をはたいて空疎なイベントなどやりたくないというのが挙式しない理由の一番手のようです。
ただちょっと気になるのは「やりたくないからやらない」って発想。少し短絡的過ぎないか? と思ってしまいます。結婚式の主役はもちろん、夫婦になる二人です。けれど、結婚式は二人のためだけにやるものではありません。お互いの親戚や友人との顔合わせ、お披露目、挨拶といった意味合いもあるのです。「親戚やら知人やら知るかよ。結婚するのは二人の問題だろ」という乱暴な意見も見かけたことがあります。けれど、そういうわけにも如何でしょと思っちゃいます。ちょっと、極端な例を挙げましょう。二人に子供が生まれてその子供が大きくなって犯罪を犯したとします。

「親戚にあの事件の犯人がいるんだってさ」

そういって、親戚の人達は後ろ指さされるんですよ。他所の国のことは知りませんが、この国はそういう国なのです。いわれのない陰口に肩身の狭い思いをするくらいなら、あんな男と(あんな女と)結婚しなけりゃ良かったのにと、思われても仕方ありません。今の時代でも、この国で夫婦になるということはお互いの親戚とも縁続きになる覚悟がいるのです。だから、夫婦になる際に「ご迷惑をおかけしないよう、つつましく生きていきます」という挨拶を親戚、知人にすることは意味のあることだと思います。
同じようにお葬式もいろいろ段取りが煩雑で雑事が多くて面倒だと考える人はいそうです。ただ、あれは敢えて煩雑にしているとよく言われますね。雑事にかまけることで不在になってしまった人の喪失感を紛らわせ、気持ちの整理を付けることができるんだと。

何百年もかけて培われてきた冠婚葬祭の様式にはれっきとした意図があります。それらはただの儀式に過ぎないと思えるかもしれません。けれど時に絢爛に、時にしめやかに、執り行われるセレモニーの奥にはあんがい合理的な方便が隠れているものではないでしょうか?
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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