引退後

宮崎駿監督が『風立ちぬ』の完成を以て引退宣言してからずいぶん時間が経ちました。
引退宣言をしたということは、アニメ制作の一線から退くということですが、その心情ってどんなものなんでしょうね。今まで朝起きたら寝るまで没入していた作業から解放されるわけです。もう絵を描かなくても良い、絵コンテを切る必要もない、脚本を練る必要もない、いっそすがすがしいまでの解放感。宿題のない夏休みたいなものでしょうか? それとも、なんだか落ち着かなくてまた、何かをやらずにはおれない気分になっているでしょうか?
プロスポーツの選手であればいずれ体力の衰えを感じて引退をせざるを得ない時が来ます。でも、役者、声優、作家、作曲家、アニメータなど創作活動ならばもっと長いこと、それこそ生涯を終えるまで続けられるものが沢山あります。で、実際に亡くなる直前まで仕事をされる方も大勢います。収入を得るためだけなら一般人が生涯手にすることのない額のお金を既に手に入れているにも関わらずなお創作に関わって行こうとするというのはある種の執着を感じます。根っから好きなんでしょうね。
すっかり好々爺になって庭で園芸でもやってる宮崎駿監督と言うのを僕はなぜだか想像できません。引退後の今でも、机に向かって何か新しいこと、誰もやったことがないことをやらかしてやろうとカリカリペンを走らせていたりするんじゃないのかなぁと思ってしまうのです。
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なかったことを想像する

ネットのニュースで白杖でホームを叩いていた盲者を「うるさい」と怒鳴りつけた男性が話題になっていました。当然、男性に対する非難ごうごう。僕もこういう人もいるんだなと呆れました。白杖を叩くという行為は足場を探るという目的以外に目が不自由な人が近付いて来ていますよ。というサインでもあるそうです。怒鳴りつけた男性はある種の想像力が欠如しているのでは? と僕は思いました。

もし、目の不自由な人が白杖を叩きながら歩いていなければ、どうなるか?

この男性は目の不自由な人が近付いていることに気付かず、いきなりぶつかってしまったかもしれません。そうしたらもっと、強く怒鳴ったのでは? いや、それくらいで済めば良いのですがぶつかったはずみでホームから転落ということだってあり得ます(どちらにとっても)。
ネットで感情的なコメントをされておられる人の中には、この「××でなかったら、どうなるか?」という想像力が働かない人が結構いるように感じます。なかなか良い例がすぐに思いつかないのでまた書き直すかもですが、何かカチンとくることがあった時は「ちょっと待て、もしそうでなかったらどうなっていたんだ?」と考えてみるのは結構おすすめのクールダウン方です。

トイレを巡る人権事情

ネットのニュースでトイレに行くことを制限される職場が話題になっています。曰く
「トイレに行く時は上司に申告する必要がある(大か小かも)」
「トイレに行っている時間を計測されていて、長いと叱責される」
「トイレに行った回数をカウントしている人がいてミーティングの場などで指摘される」
『それは人権問題でしょう』、『これだからブラック企業は』などといったコメントが多数投稿されています。そらそうだよなと思いつつ、でも、待てよ。勤務中、トイレに行ってはいけない職業だってあるんじゃないのかなとちょっと想像を膨らませてみました。

工場のライン就業者:
 秒単位で部品がベルトコンベアを流れて来て止まることはありませんからこれは致し方ないかも
お店の店員さん
 特に一人で回している時間帯は引けるわけにもいきませんよね。
飲食店の調理担当
 一時期話題になりましたが、衛生面を考えるとちょっととは思います。また、夕飯時のラッシュに入るとそれどころではないとも言えそう。

この辺まではまだまだ意見が割れそうですよね。それはひどいという意見もあればもっと工夫しろよという意見にも頷けます。

犯人を追跡中の刑事
 まさか犯人に「ちょっとタイム」って言って公園のトイレに駆け込むわけにいきません。それはちょっと我慢しろよという意見が多そう。でも、考えてみて下さい。ドラマ「24」のジャック・バウアーみたいに長時間(=24時間)それを続けているケースだとかなり過酷です。
試合中のスポーツ選手
 フィールドを守っている野手がタイムを取ってトイレに行ったらこれは非難されるでしょう。それだけで試合の流れが変わるかもしれませんから。特に過酷なのは監督。トイレに行って戻ってきたらぼこぼこに打たれていたなんてのは目も当てられません。場合によったら解任です。
公演中の俳優
 ちょい役ならまだしも出ずっぱりの主役級はお腹を壊しているとかなりキツイ。これは生放送中のキャスターなどにも言えることです。
手術中の外科医
 いろいろな意味でダメでしょう。ただ、数時間、十数時間に及ぶ手術なんて言葉を耳にすることもありますから想像以上に過酷なのかも。
戦闘中の軍人
 作戦展開中に自分だけトイレというわけにはいかないでしょうね。すぐに戦闘が終われば良いのですが戦闘が長引くとしんどい。

つらつら考えてみると見えてくることがあります。この問題でフォーカスを当てるべきは「その人がトイレに行くこと」ではなく「それによって業務が止まること」なのです。例えば、別の刑事が犯人を追ってくれればトイレに行きたい刑事は公園に駆け込めます。あり得ないけど、選手交代してもらえればその選手はお役御免。その俳優が双子で演技力含めて同等ならもしかして。長時間の外科手術はもともと複数のベテラン医が連携しながら交代制で進行させられるのであればなんとか。軍隊にしても長篠の合戦方式のように交代制で前線に出るのであればたぶん何とかなるんじゃないかと思います。
「またまた、そんな絵空事を」と揶揄する声が聞こえそう。なら逆に訊き返すのですが、一度でもそういったことを真剣に考えたことがありますでしょうか? いくら考えを巡らせても無理なケースだってあるとは思います。でも、改善の糸口が見つかる場合だってあると思うのです。直接的な解決策に至らなくても「あれ、このやり方って実は不効率だよね」と副産物的に業務のムリ、ムダを発見することだってあると思います。
この問題を問題のままにしている真の原因は考えを巡らせ意見を交わしもせずに端から「仕方がない」「これ以上どうしようもない」と関係者全員が思考停止に陥っていることのような気がしてきました。

死と向き合う

「ママがおばけになっちゃった!」という絵本が話題を呼んでいるそうです。自動車にぶつかって亡くなったお母さんの話。シングルマザーゆえ、一人で息子を育てていた彼女は息子のことが心配でおばけになってこの世に戻ってくるという設定のようです。
ネットの評価は見事に割れて、「何度も泣きました」といった手放しの好評から、「情操が形成される時期になんてものを読ませるんだ」と言った反論まで。どっちの意見もちょっと感情的なものが多いかな。ネットのレビューにありがちな「わたしの意見に反論することは許さない」的な威圧を感じます。
僕の意見は「どちらともいえない」ですね。別に思考停止しているわけではなく、ケース・バイ・ケースだと思うのです。この物語を糧にして成長を遂げるお母さんや子供もいれば、トラウマになってしまう人もいるでしょう。だから、ひとくくりに「絶対良い」とも「絶対ダメ」とも言えません。書店でその本を手に取った時、お母さんは息子や娘がその本に触れたらどう感じるか、想像力をフルで働かせなければいけない類の本だと思います。
是非はともかく、この本の紹介記事を読んでいて僕の古い古い記憶の箱が一つ開きました。まだ4歳くらいのころだったでしょうか。こんな夢を見ました。僕は誰とも知れないおじさんと並んで立っていて夕日を見つめています(高度成長期の当時は宅地造成が盛んで不動産屋のCMか何かが夢に紛れ込んできたのだと思います)。おじさんが誰かはわからないけど僕にとってとても大切な人と言うことだけはひしひしと感じます。次の瞬間、場面が変わって僕の前に白衣の医師がいて「あのおじさんはもうすぐ亡くなるんですよ」と説明しているのです(こっちは健康食品か何かのCMが夢に紛れ込んだらしい)。
真夜中に飛び起きました。怖くて怖くて朝まで眠れませんでした。その夢は僕のトラウマになって、それからしばらく夜眠るのが怖かった覚えがあります。
それまで僕は僕の周りの人は明日も来年も十年後も百年後も変わらず昨日と同じように暮らしているんじゃないのかなと漠然と考えていた節があります。あの夢は、「いいや、人間はいつか死ぬんだよ。それも唐突に、すぐにでも」ということを僕に教えてくれました。あれが僕にとって死と向き合う最初だった気がします。
その後、大学生の時に父が死に、社会人になって数年後に祖母が死に、同僚の親御さんや、同僚自身の死に何度も出会ってきました。けれど、僕は葬儀で泣いたことがありません。ある種の感慨は浮かぶのですが、泣くという感情が理解できないのです。葬儀で泣くというのはある種の後悔のような気がして、だったらなぜ生きてるうちにそれを果たしておかなかった? と自分を問いただしたくなるような気がしてどうしても泣けません。
死は唐突に訪れるものです。だから死後に約定を果たす物語はオルフェウスの昔から何度も何度も紡がれてきました。でも、現実ではあり得ない話です。だからこそ「人はいつか死ぬ」ということを自覚して、焼香の席で「なんで?」なんて感情を抱かない生き方をすべきじゃないでしょうか(ま、言いだしたらキリがないのは否めませんが)。あのトラウマの夢はただの夢じゃなかった、僕はあの夢に導かれてそう生きて来たんだなぁと今更ながらに思いました。

コンクール2

実は昨日のブログは「コンクール」というタイトルで全然別のことを描こうとしていたのですが筆が滑ってしまい気が付くとああなっていました。なので、気を取り直して本題を。
小説のジャンルでも絵画でも音楽でもコンクールと言うのはあります。中でも音楽、作曲ではなく演奏する方のコンクールはちょっと特殊だなと思うんですよね。他のコンクールと違ってお手本があるのです。つまり、一般的には誰かが作曲した楽譜があってそれに沿って演奏を競うというスタイルなのです。他のジャンルのコンクールが押しなべて独創性を求めるのに対して楽曲演奏のコンクールは如何に楽譜の意図をくみ取れるかを求められます。特に日本においては如何に楽譜に忠実に演奏したかが審査基準になるそうです。
アニメ「四月は君の噓」の主人公はまさにそういったコンクールの申し子のような少年でした。正確無比の楽譜トレース、付いた二つ名が「ヒューマン・メトロノーム」。ライバルたちが如何に情熱的にあるいは情緒豊かに演奏してもひとたび彼がそのコンクールに参加したら勝てないのです。楽譜に書かれた拍の長さ、音量記号、速度記号、表情記号に至るまでまるでコンピュータが演奏しているかのように正確に再現する。審査員達は高得点を付けざるを得ない。
けれど、彼の演奏が観客の感動を呼ぶかと言うとそうではなくひどく味気ない印象しか受けないのです。無表情の音楽。あるいは、表情があってもそれは一昔前のアイドルがカメラ目線で笑顔を見せるようなもの。それでも、彼は優勝を勝ち取ってしまう。同年代の演奏者たちは彼を忌み嫌いました。ただ、彼も以前は観客の心をわしづかみにする演奏をしていたのです。中には彼の演奏を聴いて音楽を目指した少年少女も多くいました。彼がこうなってしまった原因は彼の母親の教育にあったようです。
少しネタバレすると彼の母親は死病を得て、余命いくばくもない状況。自分の死後、少年が音楽の世界で生きていけるかを心配し続けています。コンクールの審査を知り尽くしている彼女は必勝法として楽譜に忠実無二の演奏を彼に強いるようになるのです。

海外では必ずしも楽譜に忠実でなくても感動を呼ぶ演奏に高評価が与えられることがあると聞きますが日本ではまだまだなようです。「ピアノの森」という作品の中では自由奔放に演奏する主人公の演奏を指して「彼に日本は狭すぎる」と評しています。この国ではそう言った演奏は作曲家への冒涜と取られるようですね。馬鹿馬鹿しいといえばそれまでの因習。でも、確かに楽譜に書かれていることと違う演奏をしたらもはやそれはその楽曲ではなくなってしまうというのも事実です。いっそ、楽譜逸脱大歓迎といったコンクールが用意されれば面白いかもしれませんね。

コンクール

就活のニュースを見ていてちょっと驚いてしまうのは、選考結果を報せてくれないのはひどいという意見です。中には、選考理由を教えてくれないのはひどいというのもあります。
僕の感覚では高校や大学受験でも結果は自分で足を運んで確認に行くものと言うのがあって(ま、確認を代行してくれるバイトはありますが)、『連絡してくれて当り前』という感性にはちょっと馴染めません。結果発表にしても単に合格か不合格かが掲示されるだけで理由を教えてはくれないというのが自分の中で常識になっているので「なんで教えてくれないの?」と聞かれると「ん?」となってしまいます。もし、落ちた理由を説明されたらその人は納得するんでしょうか? それとも納得するまで説明する責任が企業にはあると考えているんでしょうか? ちょっと想像力を働かせれば、合格者の何倍もの人間が落ちている企業でそれをやってたら本業に手が回らなくなるよと、気付きそうなものですが。
僕はちょくちょく小説を書いては公募に挑戦しています。あの選考はもっと、そっけないですよ。何ヶ月もかけて書いた小説でも、一次選考に名前がなければその時点で終わりです。それこそ、本当に読んでくれたのか? と、聞きたくなります。でも、基本的に「選考に関するお問い合わせには一切お答えできません」なんですよね。そういうのを経験しているので、就活の選考結果や選考理由を報せてくれないのはひどいという意見はお花畑めいて見えます。
何か月も頑張ってきたのは本人の自由。別に主催者の依頼を受けて時間を割いたわけじゃない。だから、あっけなく終わる結果になっても自分で呑み込まなければならない。コンクールとは元来そんなものではないでしょうか? 役者を目指す人の中にはオーディション落ち何十回目、何百回目という人もいると聞きます。あれはもっと過酷だと思うんですよね。審査員の冷たい目に晒されますから。懸命にパフォーマンスしていてもパンと手を打たれて「はい、もう結構です」と言われたらそれでおしまい。「惜しかったよ」とか「ここをもうちょっとこうしたら」なんて言葉をもらえるわけじゃありません。次に挑戦する値打ちはあるんだろうかと迷っても「したければすれば」というノリです。結局、そこで諦めるのも踏みとどまるのも本人が決めることなんですよね。
就活だって一種のコンクールに違いはありません。答案用紙に赤ペンのコメントが記されて返ってくるほどテンダーな物じゃないと理解してかかるべきじゃないのかなと僕は思います。

脇役の妙

ハリウッドのとある映画監督が言いました。

「役者は演技力より存在感が重要である」

彼の持論ではそのカットのその位置にいてもらわないと困ると思わせる役者こそ名優なのだそうです。それでも、脇役はまだスクリーンに写り込んでいるだけ観客にその存在を認めてもらえますよね。忘れがちですが、スクリーンの外にも名脇役はおります。
ネタバレになりますが、学園ミステリー・シリーズ氷菓の中でこんなエピソードがありました。学園祭向けに制作されたミステリードラマが中途で脚本家がダウンして犯人がわからない。今まで撮影した分を観て犯人を推理することはできないか? というお題。主人公が推理したのはカメラマンでした。そう、登場人物が写っている映像があるということはそれを撮影したスタッフがいて当たり前なのです。先日取り上げた川口浩の歌にもありましたね。「川口浩が洞くつに入る。カメラマンと照明さんの後に入る」。テレビを見ている側からすると先頭切って勇敢に進んでいるように見えますが洞くつに入る彼の顔が見えているということはカメラマンや照明さんが先に入っていないとおかしいのです。
料理の世界にも同じようなことがあります。かつお節、昆布、いりこなどなど、これらは料理の具材としては並びません。けれど、例えば味噌汁にこれらを使わなければ非常に間の抜けた味になっちゃうんですよね。昨日、築地にていりこの大袋を格安で購入した時、ふとそんなことを考えてしまいました。

ご近所迷走

また、やってしまいました。以前も最寄駅から自転車で5分と離れていない住宅街の中で迷子になったことがあったのですが(建売住宅がどれも同じに見えてまるで世にも奇妙な物語の世界に迷い込んだ気分でした)、今度は一本道で迷子になりました。
駅から約4kmほど離れたところに結構大きな洞くつを擁する神社があって、前から興味があったんですよね。わりと健脚で歩くのには自信があるのでウォーキングを兼ねて行って来ようと企画しました。GOOGLEで地図を見ると国道沿いに真っ直ぐ行けば勝手に辿り着くルート。歩行時間は平均54分とありますから休まず歩いて45分くらいから周囲に気を付けていれば迷うこともあるまいと地図も印刷せずに出かけたのがまずかったのかな。
45分経過し、50分が過ぎ、1時間経ってもそれらしい風景にならない。それどころか車がびゅんびゅん走る幹線道路はドン・キホーテ、マクドナルド、コンビニなどが沿線に立ち並び全然洞くつ探検する風情じゃない。挙句、「この先、料金所だよ」という標識に出くわすに至って迷走確定と相成りました。それでも、諦めの悪い質なので、「きっと、途中で見落としたに違いない」と周囲に気を配りながら来た道を1時間かけて戻ったのですが、駅に至るまで洞くつのどの字も見つからない。どういうことよ? と、帰宅後反省会を開きました。
改めて地図を見直すと確かに途中までは国道1号線沿いに歩くのですが、駅から10分ばかり歩いたところで脇の県道に逸れてるじゃん。結果、30度ばかり進行する方向がずれたまま進み50分後にはまるで見当の違う方向に行ってしまっていたという次第。
では、なぜ勘違いしてしまったか? 負け惜しみではなく、今後の反省のためにさらに突っ込んで分析してみました。結論はこの30度というのが曲者だと察しました。ゴールまでの長い道のりを俯瞰すると確かに国道1号に対して約30度程度方角がずれています。が、1号線から分岐する地点だけ見ると90度、直角に曲がるように見えるんですよね。だから、そっちへ行ってはいけないと判断してしまった。
関西ではランド・ナビゲーションする場合、東西南北をまず掴もうとします。大阪もしかり、神戸もしかり、京都もしかり、東西南北に碁盤の目のように区画整理されているので、自分がどちらの方向を向いているかを掴めばおのずと目的地がどっちにあるか見当が付くのです。関東に越して来て一番戸惑ったのがこの方角がまるであてにならないこと。東京は典型的ですが皇居を中心として円を描くようにか、放射線状に道が伸びているのです。だから幹線道路から脇に出ている道が同じ方向を向いていない、つまり平行に伸びていないのです。これは関西人には分かりづらいです。わき道を一本手前で曲ろうが一本向こうで曲ろうがあとで一本分軌道修正すれば良いはずと思っていたら、まるで見当の違う方向に連れて来られるわけですから。道に対して直角に曲がっていると見せかけてすぐに蛇行し始め中途半端な方角に持って行かれるのはまさに世にも奇妙な物語そのもの。魔の道というわけです。

ま、筋肉痛と引き換えにひとつ賢くなりました。今度からはもう少しこまめにランドマークを押さえて、チェックアップしながら進むようにしましょう。って、スマホを持っていればこんな苦労もしないんですけどね。こういう時はあると便利だろうなと素直に思います。

どんと、行けよ

少し前の話になりますが、スタジオ・ジブリのゲド戦記の挿入歌「テルーの唄」が問題視されました。
心を何にたとえよう 鷹のようなこの心
というフレーズが萩原朔太郎の「こころ」という詩のパクリだと指摘されたのです。
 こころをばなににたとへん
 こころはあぢさゐの花
まあ、これを出典に引用したんだろうと察します。けれど、それほど問題視するようなことなんでしょうか? 朔太郎のこの詩は既に青空文庫化(著作権が切れてネットで無料で読めます)されています。ご本人の遺族から指摘があったのならともかく赤の他人が指弾するような問題じゃない気がするんですよね。むしろ、指摘した人の心のうち「まさか、気付くやつはいないと思ってったんだろ。ばぁかめ、徹底的に追及してやる」という週刊誌的な哄笑が透けて見えて薄気味悪い気がします。パクリ、ヤラセ。ネットの普及に伴って情報の伝達速度は過剰に加速化し、少しでも隙を見せるとまるでゲームか何かのように叩き潰すまで叩かれます。
更に時代は遡ります。笑福亭笑光と言ってもピンとくる人は少ないでしょうが、ヤングタウンなどで一世を風靡していた笑福亭鶴光の弟子です。彼は21歳の時、破門になり、紆余曲折あって風刺の効いた替え歌で再びスターダムにのし上がります。その名も嘉門達夫。彼のヒット曲の中にこんなのがありました。
 川口浩が洞くつに入る
 カメラマンと照明さんの後に入る
 洞くつの中には白骨が転がる
 何かで磨いた様なピカピカの白骨が転がる
 すると突然頭の上から
 怖いヘビがおそってくる

 なぜか不思議なことに尻尾から落ちてくる
 へびの攻撃さけると動かないサソリがおそってくる
 サソリの次は毒蜘蛛だ浩は素手で払い落とす

一世を風靡した水曜スペシャル「川口探検隊シリーズ」(南半球を中心とした秘境を探検し、なぜか毎回大発見がある手に汗握るドキュメンタリー番組?)の風刺なのですが、あの頃はヤラセとわかっていてもそれを笑い飛ばす時代の柔らかさがあったような気がします。最終的にはこの人気シリーズもやらせ問題を指摘され川口浩が癌で倒れたこともあって幕を閉じるのですがもしかしたらあれが時代の転換期だったのかもしれません。
更に時代は遡ります。生では観ていないのですが中島らものエッセイの中で昭和三十年代にあった乱歩の少年探偵団のドラマが紹介されています。怪人二十面相から「貴殿の所有する宝石を頂戴する」という予告を受け、大富豪の屋敷に明智探偵がやってきます。「して、その宝石は今どこに?」という話になって、富豪が机の上のボタンを押すと天井からウィーンてな具合に金属の箱が下りてくるのです。ところが、接着が甘かったようで針金にくっついていたその箱がはがれて机の上に落下しちゃうのです。

ぽとん

金属らしからぬあまりにも軽薄な音。日本中のお茶の間は凍り付いたことでしょう。が、次の瞬間、全ての視聴者は「今のは見なかったことにする」という神対応に出たはずと中島らもは分析します。
ヤラセやねつ造はあってはならないことです。ものつくりは真摯に行われるべきです。けど、それに遭遇してしまった時のリアクションはその人、その時代の懐の深さを表す尺度にもなるんじゃないでしょうか? 昭和の時代でもやらせは決して許されたものではありませんでした。けれど、青筋立てて指弾するのではなく笑い飛ばしてしまう度量があの頃には確かにあった気がします。昨今のSNSなどによる過剰なまでの炎上合戦。ヤラセやパクリに後ろ指さして嗤うだけの時代になってしまったのはなんとも寂しい気がします。

禁忌へGO

ちまたではポケモンGOというゲームが流行っているらしい。僕はスマホを持たない主義なので(最近、嫁にさんざん持てと薦められてますが)、実体験することはありませんが、ざっくり言うとスマホを持って街に出かけモンスターを捕獲するゲームらしい。特徴的なのはGPSを使ってカーナビのような鳥瞰3Dのマップが表示され、AR(拡張現実)を使ったモンスターが表示されること。あたかもすぐそこのお店や神社にモンスターがいるような臨場感が味わえるそうです。いろいろ問題視されているのは移動しながらモンスターを探すので歩きながら、自転車に乗りながら、自動車を運転しながらプレイする人が続出していることとモンスターを捕まえようと他人さまの敷地内でも構わずふらふらと入り込む人が続出していること。どんなゲームでもそうですけど楽しみたいならルールは守りましょうねという話だと思います。
でも、ちょっと想像を膨らませてみたのですが、すぐそこにレアなモンスターを見つけたとしてそこに入り込んでいく勇気(?)の度合いって場所によってだいぶ違うような気がします。たとえば……
よそ様の庭。:見つかっても「ごめんなさい」ですみそうなのでまだハードルは低い
よそ様の家の中:これは通報される恐れがあるのでちょっと胆力がいる(をい)
お店の「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた扉の向こう:これは勢いだけでいけてしまいそう
動物園の象の檻:素早く行動すればなんとかなると無謀な判断をして突撃する人はいそう
動物園のライオンの檻:突撃する人がいたら拍手したげます
首相官邸:いきなりハードル上がった。これはガチ入る前に逮捕される気がする。
原子力発電所:変なボタンを押して大惨事を引き起こしそうなヤな予感
他にもエベレストの頂上とか南極点とか静かの海(月面にあります)とか考えてみました。そこまで行ってレアモンスターを捕まえたらもはや偉業の域でしょうね……って、圏外でしょ
とまれ、人様の迷惑にならないように遊びましょうね~
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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