デジタル式演技

アニメ制作の日常を描いたアニメ作品(ややこしいな)「SHIROBAKO」。その第2話に声優さんのアフレコシーンがありました。
演出「そこ、もっと切羽詰った感じがいいかなぁ」
監督「うーん、どうかなぁ。押し殺してるけど、切羽詰った感じ、聞いてみたいです」
声優「わかりました。怒りメインですか? 悲しみメインですか?」
監督「うーん、両方みたいな」
演出「うーん、監督またハードル高いな(笑)」
こんなやり取りの後、声優さんが演技するのですが、ちゃんと指示通りの口調になってて凄いなぁと思いました。
ただ、これって何かに似てるぞとも思ったんですよね。……、そうそう。うちのオーブンレンジ君だ。うちのオーブンレンジ君は実に賢くて、例えば熱燗をつける時でも「弱2」「弱1」「標準」「強1」「強2」の五段階に温めができるのです。つまみを捻って調整すればちゃんと、人肌燗、ぬる燗、上燗、熱燗、とびきり燗に仕上がるという優れもの。気に入ってはいるのですが、長年小鍋に湯煎でつけて来た身としてはちょこっと物足りないというか痒いところに手が届きかねるみたいに思う時があります。
例えば、雪が舞う夜道を駅から歩いて帰って来た日。うんと熱い燗酒が呑みたいなと思ったとします。湯煎でつけるのであれば「よし、このタイミング」というのが身に沁みついているので、そこで徳利を引き上げるとどんぴしゃの熱燗が楽しめるのです。対して、オーブンレンジ君がつけてくれる熱燗はお手軽でそれなりに良い感じに仕上がってはいるのですが微妙にずれて感じる時もあるのです。デジタルは整数が基本。1の次は2、2の次は3になってしまって1.1だとか1.9にはできないのが恐らく物足りなさの原因なのかなと考えます。
僕は長年、社会人の合唱団にいていろいろなタイプの指揮者を見てきましたが、中にデジタル式演技みたいなのを求めてくる人がいます。楽譜を徹底的に分析して小節単位で音色や音量を細かく指示してくるんですよね。それを見た団員が巧いこと言ってました。

「ありゃ、箱庭みたいな演出だな。ここに木を植えて、ここに池を作って、池の水面はこれくらい波立たせて、茅葺屋根には少し苔を生やして……てな具合に音楽を作ろうとしてる」

精緻に拵えられた箱庭は思わずため息がでるほど美しいものです。でもね、やっぱり本物の雄大な景色やのどかな田園風景を見ちゃったら物足りなく感じると思うのです。だって、箱には雑音が少なすぎる。綺麗過ぎるのです。それに比して、本物の風景には雑な色や物や音が満ち溢れているのです。
その雑さは人がどれだけ精緻を凝らしても真似できない類のものです。そして、人はその雑さにリアリティ(本物らしさ)を感じて惹き付けられるのではないでしょうか?
巨匠宮崎駿監督はしばしばプロの声優ではなく役者や役者ですらない人を重要な役に抜擢しることで知られていますが、それを批判するコメントをネットでよく見かけます。「なんでプロの声優使わずに素人を使うんだよ」といった感じですね。確かに訓練を受けたプロの声優の演技は耳障りの良いものです。場面場面で狙いすましたように的確な演技をしてくれます。それに対して監督が起用した人の演技は素人臭さがあるかもしれません。耳障りに感じる時があるかもしれません。でも、僕にはなんとなく監督の意図がわかる気がするんですよね。本物らしさに拘りたい役や場面では耳障りが良いだけのデジタル式演技では綺麗すぎて物足りない。あぜ道を歩いている老婆のような、額に汗を流しながらふいごを踏み続ける女のような、機械油にまみれた袖で頬をこするような泥臭さが欲しい。その声から、草の匂いや、日の温かさ、水たまりに足を浸した時の冷たさが伝わってくるような自然さが欲しい。そう渇望し続けると1と2の間に1.1や1.9の味わいのある素人臭い演技が欲しくなるんじゃないでしょうか。
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旅館型人間

世の中には2種類の人間がいる

という常套句があります。「なになに?」って、聞くと「××するやつと、××しないやつだ」(××はわりとどうでも良いことが多い)と聞かされて脱力してしまうというオチ。映画『スウィングガールズ』のセリフはわりと有名で「スウィングするやつと、スウィングしないやつだ」という阿波踊り的なものでした。
その習いで言うと「世の中には下宿型人間と旅館型人間がいる」という気がしています。たとえば、三度の食事。独り暮らしなら当然、作らなきゃありつけない。そんな時、腰を上げて夕飯を作るべかと台所に立つ下宿暮らしタイプ(自炊型)の人間と晩飯でも食いに行くかと家を出る旅館の客タイプ(じっと座ったままで料理が出てくるのを待ってるタイプ)がいると思うのです。
で、よく思うのですが、前者は料理に文句を言うことがあまりありません。ま、自分で作ったものですから言ってもせんないですけどね 往々にして料理に文句を付けるのは後者のタイプ。中には使ってる食材がどうの、調理の仕方がどうの、盛り付けがどうのと細々したことを言いだす方もいらっしゃいます。けどね、思うのです。あなたは魚を獲ったことも、米や野菜を栽培したことも、牛や豚を育てたこともない。ましてや、料理すらしていない。なのに文句だけは一人前っていかがなものか? けど、そういわれたら彼はこう言い返すかもしれません。

「だって、お金を払ったから」

いやいやいや、そのお金は漁師さんや農家の人や料理人の手間暇に対する対価であって供する人と食べる人はお金のやりとりがあって初めて対等になるのです。払わなけりゃ食べる人の方が下なわけで、払ったからと言って食べる人の方が偉くなるわけじゃありません。もちろん、注文してから1時間待っても出てこないだとか、味があまりにトンチンカンだとか(中島らものエッセイに味付けしてない料理を出す店が出て来てたな)、正当な理由があるのであれば苦情を言っても良いとは思うのですよ。けどね、当たり前に調理されたものに文句をいうのはほとんど言いがかりのようなものだと僕は思うのです。
もしも、近所に料理屋がなければ、空腹を満たすには台所に立つしかありません。それを考えれば感謝の気持ちを持ちこそすれ文句をいうのはおかしいんじゃないかな。黙って座っているだけで料理が出てくるってとってもありがたいことなんですよ。

好きな家事は何ですか?

子供の頃は時間がくれば料理は勝手にテーブルに並ぶものだと思っていましたし、服や下着は勝手にタンスに洗濯済みのものが補充されるものだと思っていました。
大学生になって一人暮らしを始めて、ちょっと家事を疎かにすると部屋は散らかり放題、夜になっても夕飯が出てくることもなく、洗濯済みの下着がなくなっていくなんてことを経験して母上の偉大さを再認識しました。
ただ、多少マメな性分だったのと、要領を覚えたこともあってここ数年は部屋が散らかることもなく、お腹が空く前に料理ができているくらいの生活を送れるようになっています。けど、好きな家事と嫌いな家事というのはあるもので、僕の場合、好きな家事はやっぱり料理かな。それ以外に裁縫など「物つくり」に通ずるものが好きなあたりやっぱり根がエンジニアなのかなと思っちゃいます。逆に嫌いな家事は掃除や洗濯。なんか、やっていて生産的な気がしないんですよね。そのクセ、アイロンかけは好きで皺が伸びていくのを見ると気持ち良いです。たぶん、この作業は生産的な気がしてるんじゃないかな。あと、食事の後の洗い物も好き。むしろ、キッチンに汚れ物が溜まっている状態というのは生理的に受け付けられなくて、猛然とスポンジを握りしめてしまいます。
好きな家事も嫌いな家事もどうせなら楽しくやりたいもの。とかく気分がネガ方向に向かう時は鼻唄が効果的です。最近のお気に入りは中島みゆきとスティーブン・フォスターの原語。アニソンは聴く分には良いのですが作業をしながらには向かない気がするな。気が付くと歌に集中して手が止まってます(をい)。ただ、洗濯をする時は鼻唄はちとはばかられる。だって、隣も真下も窓を開けていたら丸聞こえですから。マンション暮らしの弊害ですねぇ。鼻唄以外に家事を楽しくする工夫はないかしらん。今朝、立ち込める朝霧の中、洗濯物を干しながらふとそんなことを考えてました。

業(ごう)

業(ごう)と聞くと仏教でいうところの人間の身・口・意によって行われる善悪の行為とか、業が深いという意味合いでの使い方をイメージするのですが、過日、アニメ『舟を編む』で「理性によって制御できない心の働き。」という意味もあるよと言われていて、なるほど言われてみればと再認識しました。
要は「××せずにはいられない」とか、もうちょっとライトな表現では性分ということになるのでしょうか(ちょっとニュアンスが違うけど)。
舟を編むの主人公は辞書の編集者。言葉のちょっとしたニュアンスや正確な意味が気になるのが彼の業で新たな発見をしてはそれをメモすると気が落ち着くという性分です。彼の想い人は日本料理の板前修業中。彼女も普段からどうやったらもっと美味しくなるかということを考え続けずにはいられないようです。

僕にとっての業はなんだろう?

彼らを見ていてふとそう思いました。恐らく沢山あります。一旦、職場に入れば鬼になります。横着をしたり適当な仕事をしている人間がいると部下でなくても怒鳴り付けたくなります(ホントに怒鳴りつけたこともあるけど)。それは仕事だから? とも言い切れないんですよね。
家でキッチンに立てば真剣に料理と向かい合います。誰からも対価をもらうわけではなく、褒めて欲しいわけでもなく、昨日の自分ができなかったことができるようになりたいその一心で。小説を書いても、歌を歌っても中途半端が嫌いで徹底的にやらないと気が済みません。たまに、プロ顔負けとか、プロ並みと言われることがあるのですがあまり嬉しくありません。食べていけるほどの対価を得られてはいないのですがプロだと自覚してやっていますから。
そうはいえ、プロなら絶対にやらないであろうミスをしばしばやらかしたり、思いっきり抜けてるところがあったりもするのですが、気が付けば常に姿勢を正そうとしている自分がいます。そう心がけているわけではなく、そうせずにはいられない、すなわちそれが僕の業なんでしょうね。

昼と夜との境い目

都庁で残業0を目指していることが話題になっています。都庁に限らず、今社会の機運は過度な残業を問題視して何とか残業を減らそうよという方向に向かっているようですね。とても良いことだと思います。ただ、「業務量が減らなきゃ残業減るわけない」、「人を増やしてくれなきゃ残業減るわけない」なんて呟きもちらほら……いや、むしろ大勢の意見かも。けどね、それって、「もはやこれ以上、我が業務を効率化する術はない。今のやり方が120%の効率を引き出す最高のやり方なんだ」と言ってるようなものですよ。もっと効率的な仕事のやり方を端から模索せずに、仕事減らせ、人増やせってのはどうかなぁと思います。
残業0にできない理由は他にもあって、職場の雰囲気がそれを許さないというのも大きな原因になっているように思います。定時になっても誰も席を立たない。定時間日の放送が流れても誰も反応しないというのは帰りづらいですよね。

9月のシルバーウィークの頃、少し体調が良くなくて数日、禁酒をしたことがあります。やってみて気付いたのは「いつからを夜にしたら良いかわからない」ということ。いつもなら夕飯の皿をテーブルに並べて、ビールや缶チューハイのプルトップを引けばその日の業務は終了。さて、ここからは夜の時間ですよと明確な境界を引くことができるのです。けど、テーブルにお酒がないと箸を取った瞬間に夜がやってきたとしたものか、それとも夕飯を済ませた後でまだ雑用をこなしたものかよくわからなくて困りました。
残業を減らせられない理由はこれと似ている気がするのです。就業のチャイムは鳴ったけどやるべきことはいくらでもある。さて、これらを明日の自分に押し付けて帰ってしまって良いものか? と悩んでたりしないでしょうか。そこで、残業削減……いや、撲滅のための提言。

定時のチャイムをうるさいくらいのサイレンにする
空襲警報もかくやと思わせるような大音量で「さっさと帰れ」という放送を流させる
植木等かこち亀の両さんが踊りだして来そうなテンションの上がる音楽を大音量でかける

あの手、この手で仕事なんかやってられっか、明日は明日の風が吹くんだぃという気分を盛り上げるのです。で、上司も部下に声をかけて「あ、それくらいならもう明日にしろよ」とお尻を叩く。同僚同士で仕事とちゃう話を始める。徹底的に昼と夜との境い目をはっきりさせてしまうのです。
明日にいくばくかの仕事を持ち越しても明日が少しばかり慌ただしくなるだけ。その分は効率よく仕事をこなして乗り切ってやるという気概を持ってビルを出る。
残業撲滅に一番必要なのは昼(仕事)と夜(私事)のケジメを付けることではないでしょうか?


まず卵を割れ

仕事柄、わりと頻繁に提案という業務を行います。提案というのはざっくりいうと課題に対して解決策を複数提示して相手に決断してもらう作業なのですが、経験上、プランは3つ以上用意すると相手は選びやすいようです。
二択にすると、「選ばなかったプランの方が良かったんじゃないか」なんて先々で後悔しやしないかと怯えるようで、なかなか選んでもらえなかったりするのです。そこへ行くと三択はたくさんある案の中から自分で決断して一つを選んだんだという満足感が得られやすいようで……って、気分の問題に過ぎませんけどね
まあそれでも、二択で迷っているなんてのはまだ可愛らしい方で、しばしばもっと不思議な現象を見かけます。それは、

一択で迷う

どう考えたってそれしかないでしょ。という結論を突き付けられると相手は目が泳ぎ、挙動不審になり、無口になることがしばしば。「いや、もっとよく考えようよ」とか「他にもっと良い案があるかもしれないしぃ」とか口走ります。こういう時、彼は選択に迷っているわけじゃないんですね。そう、単に「やりたくないなぁ」と考えているだけ。馬鹿馬鹿しいのである程度、挙動不審にふけってもらったら、「ほな、やりまひょか」と言っちゃいます。お金をもらってやっている仕事ですから、「やりたくないからやらない」という選択肢があるわけありません。やるべきことをやるだけです。

けど、これがプライベートなことになれば当然、「やりたくないからやらない」という選択肢はありになります。かくして、せっかくの休日、何もせずにぼーっと過ごし、気が付いたら夜になっていたなんてのは誰にでも経験のあることではないでしょうか? 振り返ってみると、ホントはやらなきゃいけなかった用事が何もできていなくて自己嫌悪に陥ることしきり。そうならないための魔法の呪文を僕は一つ持っています。

まず、卵を割れ

僕は料理が好きで美味しいものを食べるためならマメにキッチンに立ちます。けど、たまには億劫になって料理なんてしたくないと思う日だってあります。けど、美味しいものは食べたい。そんな時は、取りあえずキッチンに立って、まず、卵を割るのです。「あっ」と思った時はもう遅い。まさか、割ってしまった卵を放置するわけにもいかず、もう料理をする(前に進む)しかないのです。
もちろん、卵を割るというのは物の譬えで卵を使わない料理を作るのに卵を割っちゃったらダメですよ 調味料を混ぜ合わせる、肉に塩をまぶす、なんだって良いのです。要は後に戻れない状況に敢えて自分を置きさえすれば。
人間は本来、安易な方向に流れがちなものぐさな生き物です。もはや、引き返すことができない状況に自ら飛び込んでいくというのは一択で迷わない一つのコツではないでしょうか。

酒肴の極意

大学に入った十九の年から酒を呑み始めて、三十年以上の酒呑み人生。これだけ長いことやっていると良い酒の肴の条件みたいなものが見えてきます。逆に向かない料理も見えてきます。
例えば、白いご飯に合う酒というのを僕は未だに知りません。居酒屋の常連さんなんかにも折に触れて聞いてみるのですが、答えられる人はいないので、やっぱりないんじゃないかな。なので、実はご飯、おかず、汁物という当たり前の夕飯スタイルは晩酌に向きません。白いご飯が邪魔でさっさとそれを片付けてからゆっくり酒を呑むか、先におかずで酒を呑んでから白いご飯を食べるかしちゃいたくなります。つまり、白いご飯と酒は同じポジションにいるわけで言ってしまえば、日本酒(=ご飯)を肴にビールを飲んでるようなものなのです。たぶん。
逆に良い酒の肴の条件を挙げてみましょうか。まずは、一つ目
味付は辛い系又は甘辛であること
基本的に甘いものはお酒に合いません。落語で肴に栗きんとんを欲しがる話が出てきますが、あれはあくまでくすぐり(笑わせどころ)。そんな気色の悪いもので呑んでられるかと客に思わせるのが目的です。ただ、洋酒、ウィスキーやブランデーは例外でチョコレートなどもよく合います。焼酎でもそれはありかな。日本酒やビールではお勧めしません。余談ですが、ウィスキーには意外と沢庵などの漬物が合いますよ。
で、二つ目。
できれば手掴みでないもの
手羽先など骨付きの肉やブリ大根のように骨に付いた身をせせりたくなる料理はどうしても手掴みになってしまいますが、あれは酒を呑むのにはちょっと不向き。手が油でベタベタになって、いちいちおしぼりで拭かないとコップや猪口が握れないのはまどろっこしいです。
三つ目。
熱々は要注意
特に自分の場合、猫舌なので熱々なものはちょっと苦手。ふうふう冷ましている間、恨めし気にビールの泡が消えていくのを見つめていなければならず、一刻も早く口に入れねばと思いながら入れたら入れたで悶絶しそうで怖い。これはもどかしいです。
最後。
箸でちびちび食べられるものが良い
鶏のから揚げなんかは良い肴なのですが、大きめのやつでも二口か三口でなくなります。つまり、皿に大盛りだとしてもせいぜい十分か十五分で消えてなくなるのです。これは寂しい。これに対して煮凝り(魚などの煮汁を冷やしてゼリー状に固めたもの)やクリームチーズ、細かく刻んだ漬物などは箸でちびちびやれるので一皿で30分、いや上手にやれば1時間くらいもたせることができます。

結局、最後のが酒肴の極意かな。酒の肴に求められるのは「食事をする」ということより、「味を味わう」ということなんだと思うのです。だから、「味噌で酒を呑む」だとか「塩で酒を呑む」なんて人が出てくるわけです。傍からは奇妙な食事スタイルに見えるかもしれませんが、「食事をする」ことと「酒を呑む」ことの一番の違いはここなんじゃないかなと僕は思います。

繭の中

少し前からSF物の短編連作を書こうとして悪戦苦闘しています。
近い未来。過去に行けるタイムマシンが交通網のように整備された世界。人々は地下鉄に乗る感覚で過去の世界に旅することができます。但し……

触れることはできない。

過去の景色や人々を見ることはできるし、聞くことも、匂いを嗅ぐこともできるのに。その人々からこっちは見えていない。聞こえていない。匂ってもいない。車道に飛び出して、走って来た車にぶつかられそうになってもすり抜けてしまう。
タイムパラドックスを防ぐための時間のメカニズムの本能なのか、未来から来た主人公たちは過去に影響を与えることができず、ただ見ているだけなのです。
という世界観の中で物語を書こうとしているのですが、どうにも座りが悪いのです。だったら、なんで過去の地面の上に立っていられるんだって思っちゃうんですよね。友人からはいっそ、頭にヘッドギア付けて意識だけが過去に飛ぶなんて設定にしてみたらどう? などと、アドバイスを受けましたが、そんな手垢のついたようなステロタイプ、今更書けやしませんって。SAOかベーカー街の亡霊か? っつうの。(あ、わかる人しかわからないようなネタですみません)
で、新たに考えた設定は「過去の世界を自由に歩き回れるよう、人は舟を作った」というもの。例えば、海の向こうの島に渡ろうと思っても人は海の上を歩くことはできません。海の上を自由に行き来するために人は舟を発明しました。例えば、月の世界に行こうと思っても人は空を飛べません。だから人はロケットを作り、宇宙服を作り、月面車を作りました。同じように過去の世界に行っても人はその中を自由に歩き回ることはできません。だから人は船を作りました。最初はごつい乗り物を。やがて身にまとう衣のような自然なスタイルのものを。繭のようなシールドに包まれることで人は過去の街を自由に散策することができるようになったのです。

うーん、まだしっくりこない。だいたい「繭=コクーン」って、ベーカー街の亡霊とネーミング被ってるし。
プロットは7、8話分できていて物語としては十分書けるんですよね。僕にとってタイムトラベルできる世界という設定はただの小道具に過ぎず、ドラマのフォーカスはそこに当てるべきじゃないと思っているのですが……。もう少し悩む必要がありそうですね。

アニバーサリー

年を取ると1年、1年があっという間に過ぎるようになるとよく言われます。でも、それは単なる錯覚だと僕は思っています。年を取ったって1年は365日あります。その365日分の思い出を記憶する力が衰えて断片的にしか思い出せなくなるから、あたかも1年が数日で過ぎて行ったような錯覚に陥ってるだけなんだろうなぁって思っています。たった1年がそうなのですから、20年ともなるとなおさらのこと……

神戸で育った僕にとって「震災」といわれれば阪神大震災を指します。大揺れしたあの街にいて思い切り実体験してしまいました。その年の暮れも押し迫った11月、所属していた合唱団に新入団員が入ってきました。ちょっと季節外れな印象(三月に大学を卒業しましたといって入団する人が多いのです)。大人しめな女子大生でした。入団してすぐ小さなコンサートがあってそこで僕は初めて彼女を見かけたのですが、ふーんってな感じでした。地味な子だったのです。
まさかね、その1年後の11月にその人が学生結婚することになるとは想像すらできませんでした。ましてや、その結婚相手が僕だったなんてもっと想像できませんでした。

こうして、震災の翌年、1996年11月3日。僕は独身生活にピリオードを打つことになったのです。気が付けば2016年11月3日。今日は20年目の結婚記念日です。ふり返ればあっという間に過ぎて行った気がして仕方がないのですが、間違いなく1年365日。その20回分の思い出を僕は彼女と共有しました。途中からは二人の娘達とも共有しました。
先週末、関西に戻った僕は結婚式を挙げたフレンチレストラン(移転していてびっくりした)で家族と夕食をともにしました。今日は一人で横浜で過ごしますが何か美味しいものでも作ろうかな。11月3日は晴れの特異日(統計上、晴れが特に多い日)、今日も横浜は綺麗な秋晴れです。
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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