演技の本質

わりと最近までアニメーション作品において演技は声優さんがやるものだと思っていました。
けど、実は声優さん以上に演技が必要になるものがあったのです。それは、絵。登場人物のちょっとした仕草や表情の変化で彼(彼女)の心境を的確に伝えなければいくら声で演技したって嘘くさくなってしまうことに気付きました。当り前のことだけど目から鱗だったなぁ。
お芝居における演技の役割ってなんでしょう? ストーリーを伝えるだけであれば台本を朗読すれば事足ります。あるいは、観客に台本を配って読んでもらえば下手な棒読み朗読より的確に伝わるかもしれません。けれど、台本はあくまでセリフが書かれた紙に過ぎません。そのセリフを口にする登場人物の感情を観客に伝え、共感させるために演技は必要なのです。ありきたりな表現ですが舞台と客席の一体化を実現するためのツールが演技なわけですね。
ですので、役者は登場人物の喜怒哀楽を的確に観客に伝える任務を負います。けど、これがなかなかに難しい。例えば「泣く」という演技からすぐに連想するのは悲しみの感情表現ですが、必ずしもそうではありません。人は嬉しくても泣きます。驚いても泣きます。涙をぼろぼろこぼしながら怒る時もあります。更に複数の感情がない混ざる時もあります。役者は登場人物の感情に合わせて「泣き分け」をしなくちゃならないのです。
一口に「気持ちを込める」と言いますが、力めば良いわけでもありません。むしろ、それは駆け出しの役者がやりがちなミスで観客をシラケさせる危険が高い演技法だと思います。どんなに激しい演技をしていても演者は常に冷静に冷徹に一人の観客として自分を観察している必要があると僕は思います。達者な方になると迫真の演技をしながら頭の中で「今日の夕飯は何にしようかな」と考えてたりする人もいるというエピソードを聞いたことがあります。彼はその直後、我に返って、今がどの場面で次のセリフが何か全く分からず頭の中が真っ白になったそうなのですが
19世紀までの演技法の主流はシェークスピアの時代をまだ引きずっていて、××な感情は〇〇と表現するという様式的なものだったと聞きます。が、20世紀になってスタニスラフスキーが提唱するメソッド演技法が台頭して来ます。それは一口で言うと「いやいや、日常生活ではそんな動作や表情はしないでしょ。もっと自然な演技をしようよ」と言ったほどのもので、芝居の場が舞台劇から俳優のアップが多用される映画やTVドラマに移行するにつれもてはやされるようになりました。舞台では客席まで距離がありますから、ある程度オーバーに演じないと伝わりにくい表情も映画ではわざとらしくなっていまうという弊害がもあったんでしょうね。
登場人物の感情という目に見えないものを具現化させて観客に共感させる──それが演技の本質です。役者一人一人は思い思いに演じたとしても最終的には芝居として伝えるべきテーマに反すれば演出からダメ出しを喰らいます。一本の芝居(=物語)を通して観客に伝えたいことという大きな絵があって、役者の演技はその絵を構成するジグソーパズルのピースでなければなりません。自分の演技をごり押しして無理矢理ピースをはめ込むのではなく、そのピースの形を見極めて自分の演技のカタチをそれに合わせる。的確な感情表現に加えて役者はそういった任務も負ってるんだと僕は思います。
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夜明け前

別に「木曾路はすべて山の中である」なんてことが言いたいわけじゃありません
近頃、朝起きると真っ暗だなぁと当たり前のことを思ってみただけです。それもそのはず。明日は冬至。一年で一番日が短い日です。それでも、朝6時を過ぎると空が白み始めます。うちは東と南に大きく窓が切られているのでその日一番の太陽の光がいち早く差し込んできます(夏場はむちゃくちゃ迷惑なのですが)。よし、また新しい一日が始まったと身が引き締まる気分になります。
冬場の中ではこの時期が一番好きかな。明日を境にして少しずつ、少しずつ夜明けが早くなっていく。気温はまだまだ極寒だけど春の足音が聞こえてくるような気分になれるので。

当り前に巧いということ

2012年3月頃。ネットのニュースか何かで見かけたとある記事。
「米澤穂信原作の『氷菓』がアニメ化されます」
彼のファンとしてこれは観ねばと心に誓いました(誓うほどのことでもないけれど)。
制作は……京都アニメーション? 聞いたこともない会社だな。なんか中途半端な地名を冠にしてるし、やっぱりメジャーどころに頼むには予算が厳しいから地方の中小に委託したってところかな。好きな作品なのでひどい出来にならないと良いのだけれど完成度がちと心配。
なんて、放送までは思っていたのですが……。失礼しました。とんでもなく素晴らしい出来でした。よくぞあの分量の原作を毎回24分の尺に収めたものだと舌を巻きました。加えて絵が美しい。活き活きと動く。けっこうやるじゃん、京都アニメーション。
あれから4年半。氷菓を皮切りにどっぷりと深夜アニメ漬けになっちゃったのですが、今振り返ってみると↑のような感想を持っていた当時の自分が初々しいやら、無知さ加減が恥ずかしいやら。京都アニメーション、通称京アニは当時すでに業界の雄。押しも押されぬ大手の制作会社だったのです。ジブリぐらいしか知らなかった自分はたぶん、シャフトといわれようが、ボンズ、IG、どこが来ようが、「なにそれ? 聞いたこともない」と不遜なリアクションをしていたことでしょう。

けど、4年もアニメを観ているとそれなりに知識も豊富になりますし、目も肥えてきます。中には素人目にも「作画がひどいなぁ」と思う作品に出合うこともあります。登場人物の顔が明らかに違う。動きが単調で不自然。中には喫茶店のシーンで一瞬前のカットと座っている位置が変わっているなんてとんでもないのもありました。そういった作品に出合うと改めて思い知らされるんですよね。「当り前に巧い」というのがどれだけ凄いことかって。例えば、今放送中の「舟を編む」にはトラさんという飼い猫が登場します。実に自然に廊下を歩いて来て、腰高窓からベランダに出て行ったりします。その動きはうちの近所で見かける猫とそん色ないのですがよく考えるとこれとんでもない手間とち密な観察力の成果なのです。猫が歩くときには体のどの部分が伸び縮みして重心がどう移動するかを把握した上で、1秒間に24コマの絵を手で描いて動かしているのです。その一瞬、一瞬は止まった絵なのに繋がっていくと自然に歩いたり、走ったり、飛び上がったりしているように見える。見る側からすればたった数秒のシーン。一瞬後にはもう忘れてしまっているようなカット。でも、それ自体が凄いことなのです。だって、自然に動いてなければ気になってすらっと忘れることなんてできませんから。

数年前、入院していた時、デイルームに漫画か美術の専門学校の卒業制作誌が置いてあってパラパラとめくったことがあります。それなりに面白い作品もあるのですが、ストーリーではなく絵に時々ひっかかりがあるのです。なんかバランスが良くない。構図が変。顔の造作が不自然。上手に描けているコマとそうでないコマにバラツキがあって安定感がないんですよね。それを見てしまうと普通に書店に並んでいるコミックスがいかに凄いかを改めて思い知らされました。ページをめくってもめくってもめくっても、絵が安定している。不自然じゃない。それで当り前と思っていたことが如何に凄いか、自分にはとても真似ができない才能の産物かが良く分かりました。

作品の出来不出来を表する前に、素人の作品に触れてみるというのは面白いアプローチなのかもしれません。アマチュア作品を観てしまったら、出来が悪いと思っていた作品でも一定のクオリティをコンスタントに(←ここ重要)クリアしていることがよくわかりますから。

シン・ゴジラ

前から観ようと思いながらなんとなく行きそびれていた「シン・ゴジラ」を観てきました。
有楽町のスバル座。来週で放映終了じゃん。危なかった。
一言で感想をいうと「リアリティのあるド迫力」ってとこでしょうか。
特に音が凄いのです。ホントにその重量物が落下する、ぶつかるといったような腹に響く音を再現していました。政府の対応も多少の笑いを織り交ぜながらもリアリティに拘った観があり、多くの人が言うように「大人向けの映画」に仕上がっていました。
今年の興行成績ランキング3位。1位は言わずと知れた「君の名は。」です。惜しかったですね。公開が別の年なら間違いなく話題総ざらえだった気がします。(ちなみに、2位はスターウォーズシリーズだよ)
あっという間の2時間。楽しませていただきました。

遥かなるバカンス

「なぜ日本人はこれで満足できるのか不思議で仕方ない」
と外国人が思うことはいろいろあるみたいんです。中には「365日、お米を食べていて飽きないのか?」とか「久しぶりに会った人にもハグしない」とか、大きなお世話と言いたくなるような文化の違いによるものもありますが、一番に挙がったのはやっぱりそれかというものでした。

バカンスがない。

夏の長期休暇が当たり前な国の人から見ると、申し訳程度の夏休みを申し訳なさそうに取る日本人はとても不思議に見えるらしい。「バカンスがないのになんでそんなに一所懸命に働けるの?」だとか「ストライキ起こそうって人はいないのかな」とか「労働組合の力がなさすぎでは」なんて意見もあるみたいです。
そんな疑問に日本人として敢えて応えるとすれば「国民性だから」としか言いようがないんじゃないかなと思います。元々、江戸時代までは90%が農民で朝起きたら田畑に行って働く。夜になったら家に帰って寝るをルーティンにしてきた暮らしが何百年も続いていたわけですから、なかなかその気質は抜けないわけで、未だに多くの日本人が休むことに罪悪感を抱いているのではないでしょうか? 日本人にとって休む=さぼる、怠けるが同義になっている限りバカンスは夢のまた夢かなと思っちゃいます。

でもね、外国に比べたらまだまだですが、この国の休暇も進化してきたのですよ。夏休みは明治時代に生まれたらしいのですが、最初は1週間とか20日とか今よりずっと短かったらしいのです。しかも、「そもそも夏季休業のあるわけは、この暑さを避け、心身を休め、さわりなきようにするためであります。(中略)そこでただいたづらに遊びくらすために設けているわけではありませんから其間は各各の家を学校と心得てみずからを修練せねばなりません」なんて、ありがたくもない指導要領が配られてたらしいです。お前ら休みだと思って休むなよという矛盾に満ちた指導ですね
その後、外国人教師たちのブーイングに始まって夏休み期間は今の7月20日から8月末に変わっていきます。大人の人も僕が子供の頃は週休一日が当たり前でしたが、土曜が半ドンになり、やがて週休二日が定着し、僕が社会人になった頃は夏休みも1週間くらい取るところが増えました。少しずつですけど確実に進化しているのです。

いつか外国のように日本人も一か月のバカンスを取るようになったら何をしましょうか? 旅行? 旧友と遊ぶ? ひたすらぼーっとする? 何をするにせよ。いつか来るかもしれないバカンスに備えて今からしておくべきことが二つあると思います。一つは何をやっても後悔や罪悪感を抱かないように精神を鍛えること。でないときっと言うんですよ「何もしないうちに終わっちゃった」とか「なんであんなことに折角のお休みを使っちゃったんだろ」って。何をやったにしろ、何もやらなかったにしろ、「ああ楽しかった」と言えるようにならないとせっかくのバカンスが勿体ないです。
で、もう一つはいい加減サービス業の過剰なサービスは止めてお店もきっぱり休業すること。でないと、サービス業の人は休めなくて不公平です。我々もそれは仕方がないことだと納得すること。少なくとも「今日が世界最後の日なら遊園地で思いっきり遊びたいな」なんてKYな夢を抱く人にはならないようにしましょう。
もう一つ加えると病院や警察で働く人には何か別の方法でご褒美を差し上げたいですね。それだけは長期休暇を取るわけにいかないお仕事ですから。

虚構のリアリズム

僕が大学生だった三十年ほど前、日本映画は角川書店が全盛期を迎えておりました。横溝ブームを皮切りに大流行したミステリーブーム。SF、ファンタジー、青春ラブストーリーなど百花繚乱状態でしたね。その勢いに押し上げられて小説もよく売れていたように思います。特にすごかったのは赤川次郎。けっこう長い期間、彼は長者番付の上位にいた記憶があります。
けど、当時から感じていたことなのですが、彼の小説ってリアリティが薄いんですよね。読んでいても街並みが見えてこない、ホテルの中にいても宿泊客たちの賑わいが聞こえてこない。まるで、あからさまな書き割りのなかで芝居をしている感じがするのです。まあ、それが彼の持ち味であり余分な描写をそぎ落とすことですいすいとストーリーを追うことができるスタイルとも言えたのですが。
30年後となった今、小説のトレンドは真逆に向かっているように見えます。例えば、高野和明の『ジェノサイド』。人類から万物の霊長を引き継ぐ次世代の生物がアフリカの奥地で誕生する話なのですが、ジャングルの息苦しくなるような暑さや匂いが伝わってくるのです。彼らを根絶やしにしようとするアメリカが雇った傭兵達の行動が本物さながらなのです。同時進行する難病の特効薬開発(実は陰でその新人類が関与している)が大学で専攻していた僕の目から見てもリアルなのです。どんだけ、掘り下げたんだてくらい調査や取材していることがひしひしと伝わってきました。
今野敏の警察小説。清王朝時代の中国を精細に描いた浅田次郎の蒼穹の昴。ロードレース小説の決定版、近藤史恵のサクリファイス。有川浩の自衛隊シリーズなどなど。ちょっと息苦しくなるくらいリアリティに溢れています。もちろん、一級のエンターテイメント作品に仕上がっているので不満はないのですがふと思うのです。フィクションの世界でリアリティはどこまで追及されるべきなんだろうって。
明治の頃に誕生した近代小説は長いことエンターテイメント性より人間の内面を描くことに傾注していたように思えます。当時は日本独特の小説分野である純文学がもてはやされていました。恐らくその頃は本当に原稿用紙とペンがあれば小説が書けていたのではないでしょうか? それに対して昨今の執筆事情はだいぶ違うようです。浅田次郎がエッセイの中で書いていましたが、ホテルに缶詰めになって執筆する際はサムソナイトのスーツケース3つ分の資料を持ち込むのだそうです。一本の小説ができあがるまでに何十冊もの資料を読み漁るのも当たり前らしい。それはそれで凄いことだし、重厚なエンタメ作品が期待できそうなのですが、リアリティは作者を縛ります。想像力を膨らませて格好良い場面を描こうとしても、「待て待て、リアルではそれはあり得ないぞ」とか思い始めて書けなくなったらつまりません。そのあたりどうやって折り合いをつけているんでしょうね。
アニメSHIROBAKOの戦闘機を描くアニメの制作場面でこんな議論が出てきました。
監督「この雲、良いですね。ぜひ、主人公が帰還するシーンで使いましょう」
美術「いやダメです。彼女たちが飛んでいる高度にこの雲はできません。もっと低い高度でできる雲なんです」
議論の果てで監督が結論を出します。
監督「この雲でいきましょう。格好良く嘘を吐くというのはあっても良いと思います。知らずに描いてしまうのと、知っていて敢えて描くのは違いますから」
僕は小説にはやっぱりリアリティが必要だと思っています。けど、生々しいだけでは小説にならない。現実にはどうかを知った上でその現実を越える虚構を描く、読者を楽しませるために嘘を吐く、時にはリアルや理詰めより外連味を大事にする。そうしてこそ、一級のエンターテイメント作品に仕上がるんじゃないでしょうか。

イクスキューズ

Excuse me.(すみません、失礼しますといったほどの意味)
というフレーズで覚えられているので案外excuseという単語単体の意味は知られていないような気がするのですが、「言い訳け(名詞)」とか「容赦する(動詞)」といった意味になります。
で、今日の本題。僕は自分の行動に言い訳する人が嫌いです。「そうしたいからそうするんだ」と言えば良いのに「ああだから、こうだから」と自分を正当化するもっともらしい理由を付けるのは卑怯な気がするからです。
例えば、石田純一さんが以前「不倫は文化だ」と公言していましたが、なんで「僕はセックスが好きなんだ」とか「女にだらしない男なんです」と公言しないんだろうと思いました。どう言いつくろったって、他人の連れ合いと関係を持つということは多くの関係者を苦しめたり悲しませるだけで決して褒められたり祝福されるべきことではないのにと思います。
似たようなフレーズで「自分へのご褒美」という言葉が僕は嫌いです。なぜ、素直に「今日はケーキが食べたい気分なんだ」とか「どうしても、あの洋服が欲しかったの」って言わないんでしょう? このフレーズを使う人の行動原理は「予定外の出費をする」という共通点を持つわけですが、ご褒美という言葉は予定外の出費に対する体の良い言い訳に過ぎません。体重が気になっているのにどうしてもケーキを食べたいのであれば、駅一つ分くらいのウォーキングすれば良いだけのこと、その洋服が欲しいんなら月々決まったお金を避けて貯金すれば良いだけのこと、なのに罪悪感を解消するために「ご褒美」という言葉を使って自分に言い訳するのはやっぱり卑怯です。
このフレーズを使う人にはもう一つ共通点があると思っています。ぜったい、間違いなく、100%、

彼(彼女)が自分への罰を下すことはない。

ということ。うーん、のび太君並に自分に甘いですよねぇ。
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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