炎上するツボ

SNSのニュースなどにたまにコメントを付けることがあります。多くは「いいね」が一つか二つ付けば良い方。そのまま本人からも忘れ去られていくコメントなのですが、たまに大量のいいねが付いて書いた本人が一番びっくりするような事態になったりします。
基本僕はネガティブなコメントや人が不快に感じるようなコメントは書かないので(そういう感想を抱いた時は何もせずにスルー)、概ね好意的な賛同の意図でいいねを付けて戴けているようなのですが、未だに大量<いいね>が付く時のツボが良く分かりません。このコメントのどこがこの人の琴線に触れていいねを付けてくれたんだろう? と考えてしまいます。あまり真面目に分析したことがないので答えを出せてはいませんが、うっすらと思うのは「目から鱗の視点で書いたコメント」、「正論を書いたコメント」がウケる傾向にあるような気がします。
大量のいいねが付くのも、炎上するのもその根っこは同じで、読んだ人の感情を揺さぶる要素があるんだと思っています。この辺りが分かって来るともっと良い小説(というか、読者の心を揺さぶる小説)が書けるきがするな。当り前ですけど、小説だって狙って書くものですから。
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罪悪感の正体

自分を許せるのは自分だけだ。

過日読んだ小説にこんな一節がありました。穿った言葉だなぁと感心することしきり。

人に迷惑をかけたり、傷つけた時に人は罪悪感を感じます。誰が責めるわけでもない、自分が自分を責める。これが罪悪感の正体です。
罪悪感を抱くととても居心地が悪くなります。それは仕方のないことだけどと自分を宥めつつ、居心地よく日々を過ごしたいと希求するのが人情。何とかして償いたい、詫びを入れたいと考えるのは何のことはない、相手を思ってのことではなく自分の居心地を良くしたいという欲求からくるものなのです。
けど、誰かが「もういいよ」と言ってくれたとしても、自分が納得できていないといくら頑張って償っても、詫びても居心地が良くなってくれないんですね。
仕方がないから人は自分に折り合いを付けます。もう良いんじゃないか? お前は十分償ったんじゃないか。そう、自分に言い聞かせて、宥めて、人はようやく居心地の悪さから解放されるのです。

自分を許せるのは自分だけだ。

一片の真理かもしれません。

食後にお飲みください

過日、せっかくの三連休を熱発(38度台)で過ごし連休明けに近所のクリニックで検査を受けたら、「はい、インフルエンザです」と宣告されてしまいました。お蔭さまで強制的に1週間出歩かずに家にこもることになり、思わぬ休養を取らせて戴いたのですが、その余波は咳となって残っていて、荒野の七人やらこの世界の片隅にやら見たい映画は数多あるのに映画館にいけないジレンマに悩まされています。来週には復活してると良いな。
クリニックで2種類のお薬を戴いたのですが、1つは食前30分前に、もう1つは食後にお飲みくださいと指示されました。食前は良いのです。ちょっと注意して「そろそろご飯の支度をしようかな」という頃合いに忘れずに飲めば済む。問題は夜の食後。晩酌を日々嗜む身としてはいつが食後かが判じかねる。だいたい2時間くらいだらだらと飲み続けているのでいつになっても『食後』がやってこないんですね。で、そろそろ寝るべかと思う頃には良い感じに酩酊してしまっていて薬のことなど忘却の彼方。結果、酒を1本空けたところで勝手に「そろそろ食後」ということにして薬を飲んで、再び晩酌を続けるという強引なことをやっておりました。
いい加減、食生活を改めないとな。

ゴールを見据える

生きることは選択し続けることだと言った人がいる。
システムの課題対応はプランAで行くべきか、プランBで行くべきか
お昼ご飯は和食にすべきか、中華にすべきか
帰りに寄ったレンタル屋で、DVDを選ぶ時。今晩見るのは洋画にすべきか、アニメにすべきか

確かに僕らは毎日のように何らかの選択に迫られ、いずれかの選択肢を選んで前に進んでいく。「どの選択肢も選ばない」という判断もありだけれど、それすら「どの選択肢も選ばない」という選択肢を選んだに過ぎない。結局、本当の意味で選択をせずにその場にうずくまっているということはできない。
選択肢の中には容易に選べるものもあれば、どれを選ぶのも躊躇われるものもある。だからしばしば僕らは選択に迷う。なぜ、選択に迷うのだろう? 失敗したくないから? 後悔したくないから? 迷いに絡みつく感情はさまざまだけど、陥っている状況は案外どれも似通っている気がする。

選択に迷う時、僕らはゴールを見失っている。

どこを目指しているのか、何を達成したいのか、卑近な選択に悩む時、僕らは往々にしてゴールを失念している。右の道の方が狭そうだとか、左側は街灯もなくて薄暗いだとか目の前の状況にばかり気を奪われて、その道を抜けて最終的にどこに行こうとしているのかを考えあわせないと僕らは迷う。そして、往々にして判断を誤る。
だから選択に迷う時は少し頭をあげて遠くを見ると良い。目の前の道が険しく見えようが、凶暴な犬がうなりをあげていようが、遠くに見えるゴール地点を見据えれば自ずとどちらを選ぶかは決まってくる。付け加えると、そもそもゴールを決めずに選択に挑もうとするのは愚の骨頂。目指すべきゴールを決めなければ選択のよりどころがあるはずもなし。
「それが最終ゴールじゃない、もっと遠くその向こうに目指すべきところがあるだろう」という心の声には蓋をする。もっと遠くその向こうにあるのは今のゴールではなく次に目指すべきゴール。そのまた向こうには更に次のゴールが際限なく続いている。いずれにしても、今目指すべきゴールはそれではない。

また、1年。新しい1年を走り出す、少し遅ればせの年頭の所感に替えて。

狂気を受け入れる人

人には向き不向きというものがあります。僕なんかスポーツはまるで苦手。小学校の頃からスポーツができる人は異星からやってきたスーパーマンみたいに見えてました。
話が飛びますがブラック企業の過酷な労働時間が問題視されております。「長時間残業を強いる職場許すまじ」という強い論調に圧されてとても言いにくいのですが、ある種の職業ではそれは必要なことだと僕は思うのです。例えば、僕がいるIT業界。アニメーションや映画制作の現場。もしかしたら、警察や医療の現場もそうかもしれません。なぜなら、良いものを作ろうと思えば、時間は際限なく必要だからです。
僕の周りにもこんな人がいます。
昼休みも仕事をしている
終電を気にせずずっと机に向かっている
土日に出勤すると必ずいる
で、「仕事好きなんですか?」と聞くと「んなわけないだろ」というお返事。その返事は半分合っていて半分は誤りな気がします。「帰れるものなら定時で帰ってゆっくりしたいよ」と思っている自分がいるのも本当。けれど、目の前の作業にのめり込みだすと、あと少し、あと少し……もっと、もっと、もっと。仕事に区切りを付けられず、ひたすらのめり込んでいく自分がいるのも事実なのです。
傍から見ればワーカホリックにしか見えませんが、本人は作業に没頭し出すと周囲がまるで見えなくなっていてまさか自分が中毒症状を起こしているだなんて思いもしない、そんな人がIT業界にはたくさんいます。困ったことに彼らは他者も同じだと思い込んでいる節がありまして、これがいわゆるブラック企業を生み出す根源になっているのだと思います。「え、まだこんな時間なのに帰るの?」、「じゃ、土曜日9時から続きを始めようか」、「次の進捗会議23時スタートだから」なんてことを平気口にします。そこまでのめり込めない人がそれを聞いたら間違いなくモチベーション急降下。「だったら、お前だけでやってろよ」、「俺達にはプライベートとか許されないのかよ」、「俺は会社の奴隷じゃねぇよ」
巨匠宮崎駿監督は自らの仕事ぶりを評して狂気と呼んだとか。彼が監督する作品に関わったスタッフは作品完成まで過酷な長時間労働を強いられるみたいですが、当の監督自身3時、4時帰宅、9時出社を繰り返す過激な仕事ぶり。もっと、もっと、もっと良い作品にしてみせる。狂気じみたバイタリティに背中を押されてひたすら走り続けるようです。その結果、多くの人が感銘を受ける名作が誕生するわけで一概にその狂気を悪と呼ぶべきかは躊躇を感じます。たとえば、「仕事は毎日定時までにしましょうね。その範囲内で頑張って作品を作りましょう。その結果、クォリティが下がってもそれは仕方のないことです」なんて方針で作品を作って、結果、ラピュタから躍動感がごっそりそぎ落とされたとしたら見る人は「ま、健康第一だし仕方ないよね」と言ってくれるでしょうか? 多くの人が「いや、そこはもうちょっと頑張ろうよ」と口にすると思います。「もうちょっとってどれくらい?」と尋ねると「もうちょっとは、もうちょっとだよ」という答えが返ってくる。あと、1時間頑張れば今より良いものになる。あと、もう1時間、もう1時間……。結局、際限のない狂気に突入していくことになるのです。

人生の多くの時間を仕事に捧げる人を等し並みに悪と指弾することに僕は違和を感じます。かといって、それを望まない他者にそれを求めるのも間違っていると思っています。それを望まないのであれば、強いるのではなく去ってもらうのが正しいのではないでしょうか?
スポーツに向き不向きがあるのと一緒で、職人気質の職場の狂気を受け入れられる人とそうでない人がいる、そこのところを議論せずに一律長時間残業を撲滅させようとするムーブメントはより大きなゆがみを生み出す気がしてなりません。

明けましておめでとうございます。

2017年が明けてしまいました。
9年前、少し重い病気をして季節の感じ方が少し変わりました。
「今日、明日に死ぬことはないだろうけど、次にこの季節が巡って来るまでは生きていないかもしれない」
と思うようになりました。冬が旬の味覚を楽しめるのもこれが最後かも……なんて毎年考えていたら早や9年。結構、しぶとく生きてるもんですね。最近では「まだまだ美味しいものを食べるぞ」と欲が出てきたりして
どこまでも、食べることにしか執着がないあたり自分らしいのですが、今年も元気に走り続けられそうな気がします。
綺麗な朝日を眺めながら。2017年、年初の所感です。
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
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