脱テンプレート

マイブームの深夜アニメ「月がきれい」も後半に突入。以前、演出が視聴者の予想の半歩先を先行して秀逸とブログに書きましたが、それだけでなくストーリー展開もラブストーリーのお約束から敢えて逸脱していて新鮮です。
既成のラブストーリー、特にラブコメと呼ばれるジャンルのストーリー展開は主人公二人がお互いを意識し合っているんだけど何らかの理由で恋愛に消極的であったり(ふられたトラウマとか男嫌いとかバリエーションはいろいろ)、優柔不断だったりして恋愛の進展にブレーキがかかる仕掛けになっているのが王道です。で、進展しないことに視聴者を散々やきもきさせておいてハプニングを起こして一気に進展……と見せかけておいて寸止め。基本この停滞⇒進展⇒寸止めコンボの繰り返しで視聴者をけん引していっていました。けどね、いい加減手垢が付いたテンプレートになっちゃっているので視聴者も展開が読めちゃうんですよ。
恋愛が足踏みしてるなと思えば、「そろそろラッキーなアクシデントが起きて二人っきりになるんじゃないかしらん」と考えたり、「キタキタキター、けどどうせキスまでいかないんでしょ」と冷めた目で見てしまったり。
やった者勝ちのコロンブスの卵的な発想なのですが、「月がきれい」のストーリー展開はこのテンプレートから逸脱するところがキモになっています。まず、主人公二人がお互いに相手のことを好きだときちんと意思表示をする。そして特に主人公小太郎はここぞというポイントで臆せず前に踏み出す。今週(第七回)でもヒロインの茜がフリーだと思い込んで遊園地でバックレた陸上部の部長の前に立ち、「彼女、俺達付き合ってるから」と言い切って茜を取り戻しました。この積極性と勇敢さは既成のアニメやラノベの主人公が持ち合わせていなかったもので、とても新鮮に見え、視聴者をけん引していく起爆剤になっています。
既成のテンプレートでは恋愛の進展役はハプニングやアクシデントあるいは友人のアシストと言った他力本願のものが多く、主人公はどちらかというと流されっぱなしの優柔不断なキャラでした(良くも悪くもなるようになるさと考えている節がありました)。時にあまりにご都合主義な展開があっても視聴者は「ま、所詮お話だから」と苦笑するのがお約束でした。
対して、今作は偶然やチャンスをあてにせず主人公は自分の意思で恋愛を前に進めていきます。これには「待っていたって恋は成就しないよ。好きな人がいるなら自分の意思で前に踏み出せ」という監督のメッセージが込められている気がします。で、そのメッセージはとてもリアルだと思うんですよね。現実の恋愛ではラブコメのようなハプニングはそうそう起きるわけもなく、自ら勇気を振り絞って手を伸ばし勝ち取るものですから。
あと、5話。ますます目が離せない作品です。
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虚実混同

かつて、おしんという伝説的な高視聴率ドラマが放送されていた頃、おしんの姑役だった高森和子さんは日常生活で苦労されたそうです。ドラマの中でおしんを苛め抜く姑というキャラの印象が強烈過ぎたみたいで、街で買い物をしていても他の客から冷たい目を向けられるのは日常茶飯、中には面と向かって説教を始める人もいたとか。いやいや、役がそういう役なだけで、高森和子さんがそういう性格なわけじゃないからと擁護してあげたくなりますよね。おしんは海外でも大反響を呼んだようで、カナダでは放送局に「これをおしんちゃんに渡して、生活の足しにしてもらって下さい」という手紙を添えて、お金や食べ物が送られて来たなんて嘘みたいなホントの話があったそうです。いやいやいや、彼女は架空の人物なので。
良くできたドラマ、迫真の演技に時に我々はそれが虚構であることを忘れてしまっていることがあります。夢中で応援したり、一緒に泣いたり、笑ったり。かくいう僕もそういう傾向は強いかな。役者の名前はなかなか覚えられないクセに顔と役名はすぐに結びつくという。
で、ふと我に返ってリアルとして観てみるとドラマの中の立場とリアルでの立場が逆転してることがあったりするのです。例えばこんな感じ。
高校生の主人公男子の成長物語の冒頭、クラスで気になっている女子に勇気を奮って告白するもこっぴごく振られるなんてシーン。成長物語では最初主人公がどれだけダメダメかを観客に分かり易く伝える必要がありますのでこれなんかはありがちな演出だったりします。で、ドラマの中では主人公の立ち位置はクラスのカーストの底辺、根は暗いし、スポーツも勉強もダメというしょぼいキャラです。一方、彼を振った女子はクラスの中の人気者、スポーツも勉強も得意で狙っている男子も多いという役どころ──僕なんかはそういう設定がリアルとしてすっと受け入れてしまうんですよね。
でも、監督の「カット」が入った途端に、主人公のダメダメ男子は多くのスタッフから「おつかれさまです」って言われたり、付き人がいそいそと飲み物とタオルを持って駆けつけたりします。一方、彼を振ったハイスペック女子は「失礼します」と言ってスタジオを去っていく、そう彼女の出番はここまで。この後の主人公を励ます美味しい役どころはメインヒロインが持って行ってしまうのです。
そんなことに気付いてしまうと、今度はついつい「あ、今この人けちょんけちょんに叱られてるけど、芸歴は先輩だからあとで楽屋で逆の展開やってるんじゃないかな」とか変な見方をしたりします。ま、それもドラマの一つの楽しみ方なのでしょうけど、やっぱり観ている間は物語の世界に没頭したいな

本音をぶつけない

ネットのコラムでこんなのを見つけました。ある男性からの相談。同棲している恋人から結婚の意思を伝えられたので、「君が結婚したいのなら、結婚してあげても良い」と言ったらブチ切れられました。僕は生涯彼女と一緒にいたいと思っているけど、結婚とかそういう縛りはどうでも良い。正直にそれを言っただけなのに彼女の態度はどう思います?
いや、どう思います? と、聞かれれば。あんたはアホかと思いますとしか答えようがないのですが この男性が結婚に対してどういうポリシーを持とうがそれは勝手ですけど。相手が同じポリシーを持っていると無思考で考える(というより信じて疑わないというべきか)のは浅慮も良いところ。ましてや、それをストレートに口に出すのが許されるのは「お前の母ちゃんで・べ・そっ」って言ってられた幼稚園児くらいまでです。つまり、この男性は就学以降全く成長していないんでしょうね。少なくとも人とのコミュニケーションに関しては。
似たような話で職場の後輩が結婚することになって「披露宴に出席して戴けませんでしょうか」と何人かの同僚にお願いして回っていた時のことを思いだします。中の一人(これも僕の後輩)が一言、「うーん、行きたくないから良いや」。…………、なんと申しましょうか。普段の彼の言動から、結婚式なんてただの形骸化したセレモニーと思っている節があったので言動に他意がないことはわかるのですが、ストレートに言ってどうする。そこは無難に「その日はどうしても外せない用事があって」と言うべきでしょと教わらないとそれすらできないんですかね。この後輩はそれ以外でも問題のある言動が重なって職場を辞めていくことになりましたが。

ネットニュースに対するコメントで、「普通××だろ」という言い回しを見かけます。この<普通>って単語はすごく上から目線なニュアンスがあって暗に相手に対して「この常識知らずが」と言ってるようなものだと思うのです。一面識もない相手にそれをぶつけることがどれだけ失礼か発言者はまるで気付いていないようなんですよね。これも「××であることが多いと思うのですが」という言い回しにするのが気遣いってもんだよと教えてやらないと分からないのでしょうか?
人はそれぞれ自分の中に規範と呼ばれる物差しを持っています。その規範は一人一人異なっていて相手が自分と同じ物差しを持っていないと知っていないのは無知か幼稚、あるいはその両方です。ましてや、自分の規範に即して言葉をぶつけるのは暴挙以外の何物でもありません。ぶつけられた相手が十分大人ならやんわりと気遣いをしてその場を収めてくれると思いますがぶつけた相手が気遣いをすることは終にありません。ただ、そういう人は敬遠されていずれ周りに親しい人がいなくなるだけだと思います。本音はストレートにぶつけるものではなく胸に秘めるものと、肝に銘じたいですね。

万策尽き始めた

僕の本業はSEですので、納期の重さ、厳しさはよくわかります。プロジェクトの中では実に様々なトラブルが起きて、理不尽とも言うべきクライアントの我儘や都合に振り回されることもしばしば(つか、日常茶飯事)。それでも、納期を伸ばしてもらえることなどまずありません。往々にして自分に甘くて、自分の都合で周囲を振り回すクライアントに限って、「徹夜してでも」とか「休日返上で」などとお前が言うかというようなことを平気で言うものなのです(あ、愚痴ってしまった)。

昨年の暮れ頃からアニメーション制作の2017年問題というのがささやかれておりました。今や深夜アニメは1クール(3か月)に数十本は制作される勢いなのですが、そんだけ作れば慢性的なアニメーター不足になるのは自明。で、2017年冬アニメくらいから制作現場が崩壊するという噂が流れていたのです。けど、蓋を開けてみると案外にそんなこともなく、結構良作揃いのクールだったじゃんと思っていたのですが、どっこい今クール(2017年春アニメ)から異常事態が頻発し始めました。いきなり動きがしょぼくなったり、更には動きが止まって止め絵が切り替わるだけの紙芝居になったり。そして、とうとう来たかという感じの総集編。総集編というのは今までのお話をまとめましたというような回なのですが、12~13話完結の短い物語のど真ん中に持って来る意味はほとんどありません(完結してから振り返りの意味でまとめられるのならまだわかるけど)。ここに総集編を持って来る理由はただ一つ、次の回の制作が間に合わなかったからです。特にクオリティが高くて評判が良いアニメに限って総集編が突っ込まれてファンをやきもきさせます。「せっかく楽しみにしていたのに」とネットでは大っぴらなブーイングも上がります。
けど、僕はどうにもそのブーイングに同調することはできないんですよね。だって、SEとして納期に対するプレッシャーは痛いほど分かりますから。納期を落としたらもう仕事はもらえないかもしれない。そう思うと胃に穴が開きそうになります。実際に穴が開いたり過労で倒れた同僚を何人も見てます。だから、容易に想像できてしまうんですよ。総集編の向こうで目を血走らせて必死で働く人たちの姿が。誰だって好きで納期を落としたりしません。楽をするために総集編でごまかす制作者もいません。それこそ寝食を惜しんで死にもの狂いで頑張ってそれでもどうにもならなくなって万策尽きて総集編に頼るしかなくなっているのです。その総集編が流れている間もアニメーターはひたすら描き続けているのです。ビール片手にへらへら笑ってそのアニメを観ているだけの人にブーイングやヤジなんか飛ばされたくないだろうなぁとそれは容易に想像できてしまいますから。
それに、同調しちゃったら「徹夜してでも」とか「休日返上で」なんて軽く言うクライアントと一緒になっちゃいますもんね。

願わくばもう少し淘汰されて製作本数が減ってアニメーターに安寧がもたらされんことを。今クールも半分を過ぎました。もう一頑張り。ゴールを駆け抜ける瞬間を胸に描いて走り続けて下さい。と、エールを送っておきます。くれぐれもお体には気を付けて下さいね。

縁はありやなしや

お見合いがお流れになった場合、よく「ご縁がなかった」という言い方をします。逆に縁談がまとまると「ご縁があったのですね」なんて言ったりします。良縁、くされ縁、奇妙な縁、私達は遥か昔から人と人の出会いや別れを必然と捉え、「縁」というもののなせる業と考える風習を持っているようです。
けど、非常に無味乾燥な話になっちゃいますが、縁というものを科学的に捉えてしまうと途端に胡散臭くなるんですよね。なぜなら、縁を語る時人は先に結果を見てしまうから。結果を捉えて縁があった、なかったかを判定するからです。科学的思考は原因から結果を予想するものなので思考のプロセスが真逆なのです。縁があるかどうかを判定するのはいつだって結果が出てから。縁のありやなしやの判定は究極の後付け作業なのです。

なら、縁を語ることは非科学的で無意味なことなのでしょうか? 結論から言うと僕はそうは思いません。第一に「非科学的=無意味」という風潮に疑問を感じます。第二に非科学的であると断じるのは早計だと思うのです。現実に、妙に気が合って結婚に至るカップルがいます。あるいは、付き合いたくもないのに妙に絡んでしまう悪友がいたりします。縁があったなかったとでも言わなければ確率論だけでは説明がつかないことは現実に世の中にあるのです。ただ、そのメカニズムは少なくとも現代科学では立証できない。だから非科学的というのは非論理的です。いずれ、縁と呼ばれる因子の正体が解明されれば不思議でも何でもない科学的理論として理解されるようになるかもしれません。で、縁を語ることが無意味じゃないと思う第三の、そして最大の理由は『人の感情を科学で宥めることはできないから』です。
好きで好きでたまらなかった人とついに結ばれることがなかった時、「それはあの時、君がああ言って、彼女がそれをこう捉えて……」なんて巧くいかなかったことを論理的に説明されたらどんな気分になるでしょう? ま、大概は余計に落ち込むか、ぶち切れるのが関の山ですよね。そんな時はただ一言、「縁がなかった」と言えば良いのです。慰めにはならないにしろ気持ちを切り替えるきっかけくらいにはなるんじゃないでしょうか? よくお葬式は故人のためではなく残された人の気持ちを切り替えるために行うものだなんて言われたりします。縁にも同じような効果があるんじゃないかと僕は思っています。
メカニズムは分からないけれど人と人の出会いや別れを司る因子として『縁』という装置があり、その装置に人は抗うことはできない──そう考えれば手の届かなかった人を諦めて前を向くこともできますし、結ばれた相手をありがたいと思い大切にすることもできます。人の感情の前では時に科学は無力です。そんな時、科学になり代わって感情を慰める装置の一つとして『縁』というものがあると考えれば無意味だなどとは言えますまい。

無限ループって……

「何言ってんスか絵麻先輩。怖いのは脚本家になれないことです!」
アニメSHIROBAKO、脚本家志望のりーちゃんのセリフです。自分が書いた台本を声優さんに読まれると思うと怖くならない? と訊かれた時の返事なのですが、物つくりを目指す人間なら肝に銘じないといけない一言だよなぁと思います。
小説家や脚本家なんていうものはなりたいと思った瞬間になってるものだという人がいます。ただ、それで食べられるかどうかは別の話で、食べていくためには寝食を惜しんで努力する必要があります。その努力は、したからといってなれる保証はどこにもない類の努力なのでかなりメンタルがタフでないとやっていけません。けど、メンタルがタフだからと言ってその努力が報われる保証はない。無限ループって怖くね? とでも言いたくなりますよね。
何度自分を焚きつけても執筆から逃げようとしてしまう自分の戒めとして自分宛てにひとこと。

日々の雑事に忙殺されて書かない日が続いている。今日も明日も、「ああ、また書けなかった」と嘆く日々は一見無限ループに見えるかもしれない。でもそれは幻想です。そんな生活が無限に続くわけがない。やがて老いて朽ちれば無限に見えたループは途切れるのは知れ切ったこと。そこんとこ肝に銘じなきゃダメでしょ。ちょっと、セルフ叱責モードのブログでした。

ネットのかまってちゃん

わりと最近のスラングだと思うのですが「かまってちゃん」という言葉があるようです。
一言でいうと人から注目を浴びたい、自分のことをかまって欲しいという欲求が過剰でそれを行動原理にしている人といったところでしょうか。なので、かまってちゃんの行動の特徴にはこんなのがあるみたい。「ネガティブなワードを頻繁に発言する(周囲が心配してくれることを期待している)」、「自慢話が多い(周囲に羨ましがられたい)」、「虚言癖がある」、「KY発言を頻発する」などなどどれも、周囲の人を振り返らせたいという欲求から来るアクションですね。
それに加えてもう一つ、かまってちゃんの特徴的な行動パターンは「周囲の人のことには無関心」ということ。つまり、人にはかまってほしいけど、自分は周りの人をかまう気はさらさらないという一方通行のコミュニケーションを期待する人が多いんじゃないかなと思うのです。ま、とっても自己中なキャラですね。
リアルに職場にそんな人がいるとめんどくさいことこの上ないでしょうけど、バーチャルなネットの掲示板に出現すると更にやっかいなキャラです。やたらKY発言を振り撒いて周囲がそれに反発すると嬉々として煽り立てる、周囲がスルーすると他者の会話に割り込んででも絡もうとする。場合によってはその人が現れるので廃れてしまったスレッドも沢山あります。
ネット上のかまってちゃんが更にやっかいと書いた理由は彼らは時々、バーチャルとリアルの区別がつかなくなるようなんですよね。まるで目の前に大勢の人がいて自分をのけ者にして会話を楽しんでいるんじゃないかという被害妄想に陥ったりするようなのです。実際には多くの人は実生活の合間にちょっとスレッドを覗いて気が向いたら発言するだけですから自分の発言に反応がなくてもあまり気にしないと思うのですがネットのかまってちゃんは相手の肩口をぐいと掴んで「おい、なにシカトしてんだよ」と言わんばかりに絡んできます。
ネットかまってちゃんの最悪のケースでは西鉄のバスジャック事件や秋葉原殺傷事件のような人の命を奪う行動に出ることもあります。いくらネット上で「人を殺します」と発言していても多くの人は(常識的に考えて)口先だけだろと考えて適当にスルーすると思うのですが、あの犯人たちのスレッドに関わっていた人たちはさぞ後味の悪い思いをしたと思います。
それぞれの事件を振り返っても結局、犯人は『つまり、人にはかまってほしいけど、自分は周りの人をかまう気はさらさらない』言い換えれば自分の命は大事だけど人の命はなんとも思っていない自己中キャラなのがよくわかります。そして、あの事件が最後なのではなく今もこの世界のどこかで潜在的な犯罪者予備軍のかまってちゃんは間違いなくいるのでしょう。そんな彼らの背中を押して犯罪の引き金を引くのはえてしてネット上の取るに足らない一言だったりします。だから、匿名性を良いことに無責任な発言はすべきじゃないと僕は肝に銘じています。

酒肴の極意

僕はこのブログに書くネタを思いついた時に忘れないようメモを採るようにしています。塵も積もればなんとやらでいつの間にか結構な量になっているのですが、根がいい加減なものでたまに書いた本人もなんのことやら理解できないメモがあったりします。その中の一つにこんなのがありまして長らく頭を悩まされておりました。

趣向の極意

それが夕べ晩酌をしている時にその料理が酒の肴足り得るための一定の条件ってあるよなぁと思い立ち忘れないように「酒肴の極意」と入力したところ「趣向の極意」と変換された これのことだったのかい(汗) ということで長年の謎も解けたことですし今日は酒の肴のお話です(前振りが長い)。
酒の肴の条件の一つ目、甘いものは向かない。落語できんとんを肴に酒を呑みたがる話がありますがあれはあくまでくすぐり(笑わせどころ)。一般には塩辛いものあるいは甘辛いものがやはり酒には合います。そしてやや濃いめの味付けのものが良いようです。
条件の二つ目、汁物はあまり向かない。酒自体が液体なので液体同士というのはあまり向かないように思います。ま、中にはすまし汁でビールを戴く通人もいらっしゃるようですが。
条件の三つ目、箸で細かく取ってちまちま食べられるものが向く。酒を一口すすっては肴を一口戴くというプロセスを繰り返しますので骨付きのがっつり系の肉を出されてしばらくは料理に専念しないといけないようなスタイルは向きません。同様の理由でラーメンのように一旦丼に向かえば食べ終えるまで専念しないといけないようなものも向かないと思います。
条件の三つ目は特に重要で万国共通みたい。昔のスペインの国王は「ワインを飲むときは必ずタパス(小皿料理)を食べるように」というお触れを出したそうですが、これもそこに通じるんじゃないかな。
おおよそ、この三つの条件を守っていればどんなものでも酒の肴になってしまいます。例えば、塩や味噌で日本酒を呑むなんて強者もいらっしゃいますが僕はありだと思います(塩は苦手なのでやったことないですが、味噌はあります)。酒の種別に合わせて和洋中に拘る必要もなく(日本酒には和食とかウィスキーには洋食とか)、例えばウィスキーに漬物なんてのが意外に合ったりするんですよ。
酒肴に向く料理はまた、お弁当のお菜にも向くことが多いです。お弁当が求める条件が「傷み予防のために味は濃いめに付ける」、「液状物は避ける」、「お弁当箱サイズに収まるよう小さく切り分けられるものが良い(骨付き肉等は収納しにくいので向かない)」と酒肴と被るから当然の帰結なのですが。
ということで(なにがだ)、僕の日々の食生活はお弁当を作る⇒残ったおかずが晩酌の肴になるという非常に合理的なルーチンを構築しております。って、酒を呑む言い訳にしかなってないなぁ。

ラプラスの魔女

東野圭吾の「ラプラスの魔女」読了。以降、いくばくかのネタバレを含むためご注意を。
作家生活30周年記念の意欲作で僕としては極めて珍しく布団の中に入っても眠たくならずに引き込まれた作品でした(僕は入眠儀式として読書をする習慣があるので布団の中で活字を読むと自動的に眠ってしまうのです。ふつう)。
事故としか考えられない殺人が起きたり、家族を喪った男のブログに作為が隠されていたりとミステリーの要素もあるのですがジャンル的にはSFサスペンスといったところでしょうか。有川浩の自衛隊三部作にも似たとんでも設定がバックボーンになっているのですが、有川作品の軸が比較的ファンタジー寄りなのに対して本作は徹底してサイエンス寄りで論理的(誤解を恐れずに言えば理屈っぽい)というあたり如何にも東野圭吾らしい。
僕はリアルタイムでデビュー作「放課後」を読んで以来の彼のファンで、面白い作家が出て来たなくらいには思っていたのですが、正直ここまで化けるとは思っていなかったな。何より凄いのは彼のリリースする作品の多くがあたかも無名の新人が初めて公募に応募する作品のような渾身の一作でホントに応募したら大賞を獲ってしまうんじゃないかと思わせる力作であること。常に過去の作品を越えて何か新しいものに挑戦していこうとしていること。僕は彼のそんな執筆姿勢が大好きです。
本作も過去の自作を全てぶっ壊したいと思って臨んだそうで、頑張ってるなぁというのが窺える力作でした(だから眠くならなかったんだけど)。けれど、彼が狙った過去の作品をぶっ壊す企みは成功しなかったんじゃないかな。この作品は間違いなくこれまでの彼の全ての作品があってこそ書くことができた作品。今までの執筆経験の上に築き上げた集大成的なものだと思うのです。

ところで、本作は脳外科手術により未来を予測する異能を得た男女がキーパーソンになるのですが、ありがちな結末と違ってラストに二人が死ぬわけではありません。なので、続編を書いてくれないかなと我儘な期待を膨らませているのですがどうでしょう。書くとしたら本作を越えるものを期待されるだろうし、相当体力と気力がいるだろうなぁ

古びない芸能

とある落語家がこんなことを問われたそうです。
「古典落語ってのは今の時代に合わない、古い噺なんじゃないですかね?」
すると彼はこう答えました。
「古典ってのは古いって意味じゃない、古びないって意味でさ。だから、江戸の昔に作られて今でも生き残ってる」
一片の真理だと思います。けど、その古びないものに固執してきたことが落語の衰退の一因だったんじゃないかとも思うんですよね。
昨年オンエアされた「昭和元禄落語心中」を鑑賞してそんなことを思いました。戦前から戦後復興期にかけて若手のホープとして活躍した二人の噺家を軸に物語は展開します。方や豪放磊落で親分肌な芸風の助六。彼は実生活が落語の登場人物そのもののような男でなりは汚い、酒癖が悪い、女にはだらしないし、師匠連とはしょっちゅう衝突するという困ったちゃん。けど、高座に上がると客たちを笑いの渦に巻き込んで一番の喝采を浴びる天才肌。方やその助六のしりぬぐいばかりさせられている生真面目な菊比古。彼は日々、芸の研鑽に余念がないがその陰気な顔立ちと張れない声が災いして助六に比べると人気はいま一つ。けれど、艶っぽい女性の演技に開眼して、廓噺、艶笑噺で頭角を現します。
戦後復興が進む中、対照的な二人を悩ませるのは一つ。落語の行く末でした。古典芸能を究めようとする菊比古に対して、時代に合わせて客の喜ぶ噺を模索する助六。二人は反目し合うのではなく、たがいの主張を認め合いながら10年後、50年後、100年後の寄席をどうやったら守っていけるのか、残していけるのかを熱く語り合います。

僕は高校の頃、古典落語にハマりまして、ネタ本などずいぶん読み漁りました。受験生という制約があって寄席に行くなんてことはできませんでしたが、テレビの落語特番なども観ました。あの頃、桂三枝は創作落語に力を入れていたのですが、正直僕はあれが嫌いでした。舞台を現代にしてしまうとどうにも噺が浮ついて薄っぺらく聞こえてしまう(師匠すみません)。見たこともない江戸の町が舞台だからこそ落語という話芸は活きてくるんじゃないのかというのが当時の持論だったのですが、今振り返ってみると聞いたことのあるネタの古典は耳に心地よく、聞いたこともない新作には拒否反応を起こすただの懐古趣味だったのかもしれないと思ったりもします。
僕自身は噺ができるわけでもなし、一人の客として応援することしかできない身ですが、落語がこれからも多くの人に愛されるよう願ってやみません。当世人気を博している深夜アニメの中でも上々の評判を獲った本作。これを機会に落語に対する認知が広まって、一つ寄席に行ってみようかしらんという人が増える効果を期待してやみません。

日常が終わる時

なんか不穏なタイトルですが、日々当り前にやっていることでもいつかは終わる時がくるものです。
例えば、お弁当。お母さんが息子、娘に毎日作っていて、時には倦むこともあるけれどこれだって、息子、娘が卒業を迎えれば終わります。僕も今は日々、お弁当を作ってますが退職すればさすがに作らなくなるでしょうね(お昼は作ってる気がするけど)。
仕事にしろ、学校での勉強にしろ、時には疎ましくて逃げ出したくなることもあるけれどいつかは終わります。辞めたくない、まだまだやりたいと思っても容赦なく終わります。そして、一日一日その終わりの日は近付いているのです。落ちた砂時計の砂が元に戻らないようにその日が遠ざかることはありません。
学校で卒業を何度も経験し、そんなことは分かり切っているハズなのに。この日常が永遠に続くように感じてしまうのは学習能力がないというよりは人の性、本性のようなものなのかもしれません。だから、たまにはこうやって立ち止まり、やがて来るその日のことを思い描いて日常の暮らしぶりを省みるのも意義あることなんじゃないかな?

ゴールデンウィークも半ば。長いお休みを堪能しながらあと5日でその休みも終わってしまうと思い至り、そんなことを考えました。

一人ぼっちに憧れて

何かの小説だったかアニメだったかで小さな子供が一人ぼっちで放り出されるのはかわいそうだというセリフがありました(ま、ありがちなプロットかもしれませんね)。それに異論を唱えるつもりはさらさらないのですが、ふと自分の幼少期を変な子供だったかもしれないと思い至りました。
物心ついた頃から僕は一人ぼっちに憧れていたのです。家族を含めて人に対する執着が薄く(というより皆無で)、いてもいなくても構わないくらいに思っていたところがあります。そんなことを口にすれば叱られるだろうなと考えるくらいの知恵はあったのでそぶりにも見せませんでしたがたまにそういう性格が垣間見えるのか奇異な目で見られることはありました。
他人から見れば情が薄いというのでしょうけど、どうにも僕は愛情(家族愛であれ、友愛であれ、恋愛であれ)というものが理解できなくて所詮誰もが一人ぼっちじゃんと思っていた節があります。むしろ、そういった感情をベタベタして気持ち悪いくらいに思っていました。なので、4つや5つの頃には生計の問題さえなければ一人暮らしがしたいと思うようになっていたのです。
あれから50年。そんな感情はおくびにも出さず適当に人に合わせながら生きて参りましたが、近頃になって思うのです。これって本当に自分だけだろうか? 案外、同じようにそういった感情を隠して「愛情は大切だよね。宝物だよね」なんて言いながら生きてる人って他にもいるんじゃないかなとか思うようになりました。半世紀を経てカミングアウトしてみましたが実際どうなんでしょうね^^

霊峰を拝む

いずれ僕は関西に帰る身なので(たぶん)、関東にいる間に行ってみたいところには行っておこうと日ごろから心がけているつもりです。
昨日、お天気がとても良かったのでそんな懸案の一つを果たすべく列車に乗りました。東海道線の下り列車、目指すは国府津。って、ここは目的地ではなく乗換駅。乗り換えまで40分ほどあったので駅の周辺を散策。海が綺麗でした。
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で、御殿場線に乗り換えて
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目指すは終点の御殿場。のどかな各駅停車に揺られること40数分。ついに到着!
御殿場駅 
ここはあの霊峰が間近に見られる町なのです。少し歩くとちらりと見える。けど、住宅が結構ジャマで全容が見られないのがちと残念。間近と言っても麓までは徒歩で1時間くらい。月が50円玉の穴くらいのサイズになっちゃうのと同じ遠近法のマジックですね。
DSCN4952.jpg DSCN4950.jpgDSCN4946.jpg
15分ほど歩いたところで公園を発見。ついに霊峰富士の全容が目の前に。
富士山 
なんか自然と手を合わせたくなる山ですね。美しい。
お昼にはおそばを食べて(静岡名物の桜海老と三つ葉のかき揚げが美味しかった)、
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お土産にフランクフルト(御殿場と言えばこれ)、馬刺し(ふらっと入った精肉店で衝動買い)、地酒などを買って帰りました。雲一つないお天気で楽しい小旅行になったなぁ。
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プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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