社会と世間さま

他所の国がどうかは知りませんが、この国では自分と他者を取り巻く環境が二重になっていると思っています。
誰もが社会の一員であり法律という規律を守ることを義務付けられています。それとは別に自分を取り巻く世間さまという環境があって、こちらでは法とは別の不文律が活きているように思うのです。
その二つの環境のどちらの規律に重きを置くかという意識が変わった転換点は第二次世界大戦の終結、アメリカ式民主主義の流入にあったと僕は思います。それより前は、社会的に問題なくても(法を守っていても)、世間さまに顔向けできないような生き方は強く非難されていました。それが戦後から時代が下れば下るほど、法律を犯してないんだから問題ないでしょという風潮が横行しているように思います。たとえば、数日前に見掛けたニュースで飲食店で食べ残した料理をわざわざ写真に撮ってSNSにアップする人がいるというのがありました。確かに無銭飲食しているわけではないので法に触れることはありません。でも、それって世間さまに顔向けできるないとは思わないのでしょうか? 思いのほか多い量の料理が出てきたらまずは減らしてもらえないか交渉すべきです(それ以前に量がウリの店なら注文時にそうすべきですよね)。それでも食べきれなくて残してしまった場合でも、ごめんなさいとお店に一言詫びるくらいの気遣いは欲しいところです。料理を残したことを誇らしげに、これみよがしに世間さまに公表するなんて言語道断、というか僕には理解不能な行動です。「金は払ったんだから、買ったものをどうしようが俺の勝手」とでも思っているのならこの国の民度の未来に昏い不安を抱きます。
過日、福知山線脱線事故の裁判で歴代の社長が全員無罪となりました。確かに法に照らせば彼らを有罪にするのは難しいと思います。もちろん、自分が運転していたわけではありませんし、安全対策や社員の指導はいくらやっても、事故は起きる時は起きてしまうものだと思います。JRも全くの無策だったわけではなく、相応の対策は打っていたわけですから罪に問うのは酷かもしれません。けどね、それはあくまでも社会的に許されたということで世間さまに赦されたかというとそれはまた別の話だと思うのです。この裁判はもともと、神戸地検に不起訴とされていましたが、市民からなる検察審査会の2度の起訴相当議決を受け、強制起訴されたものです。法律は起訴しないと言い、市民は起訴相当というこのギャップがまさに社会と世間さまとのギャップだと思います。
遺族でもない僕が口を挟む非礼を赦してもらえるならば、彼らが一番望んでいたのは歴代社長が刑務所に入ることではなく、一人一人の遺族の前で「自社の不手際で大切な方を死なせてしまって申し訳ありませんでした」と手をついて謝ることだったんじゃないでしょうか?
終始、事故は予見できなかった、私は悪くない、社会的には問題ない、詫びの言葉より先に保身の言葉を並べ立てていた彼らを見ていると、社会は許しても世間さまは赦さないと思わないのか? いったいどういう育ち方をしてきたんだ? と強く思いました。──会見のニュースを見る度に昏い気持ちになったものです。
裁判で無罪になれば法律的には問題ありませんから社会からは赦されたことになります。けど、自分の胸に手を当てて世間さまに顔向けできないことをしてはいないか? そう問うことを疎かにする国に明るい未来はないと僕は思うのです。
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作家でごはん

昔、ライトノベル作法研究所というサイトにお世話になったことがあります。サイト名だけ見るとオタクっぽい印象がありますが、わりとガチにエンタメ系の小説を構築する方法論が丁寧に紹介されていて非常に勉強になりました。このサイトの1コーナーに小説の投稿サイトのリンク集があったのですが、その中に「作家でごはん」というサイトが紹介されていました。
「本気で作家を目指す人たちが集まり、意見を交換するためのサイト」とあって、数ある投稿サイトの中でもガチの作家の卵(一日の多くの時間を執筆に費やしているような人たち)やセミプロが集まってくることで定評のあるサイトのようでした。投稿コーナーは鍛錬場と呼ばれて、ここに投稿すればそういった人達から書評を投げてもらえるという仕組み。但し、「初めて小説を書いてみました、お手柔らかにね」なんて作品を投稿しようものなら「ここは貴様のような者が来るところではない」と袋叩きに遭うのは必至、そうとうな自信作でもそれこそ重箱の隅をつつくような辛辣な意見が並ぶよと恐ろし気な但し書きがしてありました。
根が臆病者なので存在は知っていながら長らく足が向かなかったサイトなのですが、満を持して仕上げた六百数十枚の短編連作小説が公募の一次選考に落っこちてしまったのをきっかけに、その鍛錬場を覗いてみることにしたのです。おこがましい言い方ですが、その小説は知人の間では評判が良く「早く続きを読ませろ」と催促されながらせっせと書いたこともあり、審査に納得がいってなかったのですね。何が悪かったのか知りたいし、そのためには罵声を浴びるくらい屁でもないと自分を鼓舞して第一話を投稿してみました。
投稿して最初に付いた書評は好評で、「なんだ噂と違ってちょろいじゃん」などと正直鼻で笑いたい気分になりました。が、……。時を置かずして来るわ来るわ。酷評のオンパレード。曰く
・視点が定まらないから悪酔いしそうになる。
・居酒屋の人情噺、コメディ、ミステリーなどジャンルを詰め込み過ぎて闇鍋を食わされている気分になる。
・ミステリーと銘打つならくだくだと料理の描写など書いてるんじゃねぇよ。謎解きに移行するまでに寝そうになった。
などなど。もちろん、好意的な書評も戴いて「続きを楽しみにしてます」なんて嬉しい言葉も戴けたのですが、全体では半々くらいだったかな。それでも、噂に違わず感想文のようなコメントは皆無でどのコメントも具体的で、もっとこうした方が良いという改善案も付いていて一定レベル以上の書き手、読み手による書評でした。
1度投稿すると、2週間間を空けないといけないルールなので、全7話を投稿し終えるまでには3か月ほどを要したのですが、回を重ねるうちにわかってきたことがあります。僕の小説は小説の体をなしてはいるけれど、商業小説になっていない。ストーリー展開にしろ、キャラの構築にしろ、ただなんとなく、それなりにやっているだけでアマチュアの域を出ていないのだと気付きました。
中に非常に感情的なコメントを書かれる方がいらっしゃって「僕はくだくだしい料理の描写なんか読みたくない。キャラクタも似たり寄ったりでまるで立ってない。もっとラノベ的なキャラをなぜ登場させないの」と言った調子。平たくいうと「僕が読みたくないものは書くな。僕が読みたい物だけ書け」と言っているようでした。コメントの文章は稚拙で誤字脱字だらけ、恐らくは二十代、下手すると十代の経験の浅い書き手という印象を受けました。
最初は僕もカツンと来て、だったら読むなよ。あんたのためだけに書いてるんじゃねぇよ。と思ったものです。でもね、回を重ねるうちにこの人はどうして、怒ってるんだろう? なんで、こう感じたんだろう。僕の小説のどこに反発を覚えさせる要素があったんだろう? と思うようになりました。で、彼のコメントを徹底的に分析して、小説を読み直してみたんです。すると、見えてきました。僕が読ませたいと思っていることと、この読者が読みたいと思っていることのギャップが。その時、僕は完成品の短編連作を投稿してしまったことを後悔しました。短編連作は各話が独立した物語ではなく密接に連携し合っている構成になっています。彼のコメントを反映してあげたかったけど、書き直してしまうとそれまでに投稿した話、これから投稿する話との整合が取れなくなってしまう。めげずにコメントを寄せてくれる彼に申し訳ないと思いながら(実際コメントのお返事にそういった言い訳も書きながら)、僕は最後まで投稿しました。
お褒め戴いたコメントは非常に励みになりましたし、勇気がもらえました。けれど、一番勉強させてもらえたのは辛辣な批評コメントだったと思います。この投稿を通じて僕は生まれて初めて身びいき抜きの赤の他人さまの意見に触れました。そして、彼らが僕の小説に何を求めているかの片りんを掴むことができました。
あれから、ラジオドラマの原作公募で人生初の優秀賞(202作品中次点)を戴いたり、応募数が最大規模の地方文学賞の一次選考を抜けたり(千数十作から選ばれた五十作に残りました)、まだまだ途上ですが、少しずつではありますが前に進めている気がします。もし、作家でごはんというサイトを訪れ自作を投稿しなかったら僕は今でも生の読者が何を求めているか知らないまま無為に原稿用紙を埋めていたに違いないと思います。縁は異なものと申しますが、かのサイトとコメントを寄せて下さった全ての方に感謝を込めて。

職人がいなくなる時代②

一日8時間労働制に感じた危機感は、労働時間の不足などではない。働くということが、ただの決まりきった作業になってしまうということだ。

かの発明王エジソンの言葉です。一部のごく単純な作業を除くと多くの仕事には熟練度によって生産性や品質に差が出ます。そして熟練度はどれだけその仕事をこなしたかによってしか上昇しないものなのです。8時間より10時間、10時間より16時間こなせばこなしただけ熟練度は増します。ただ、ロボットではなく人間がやることなので労働時間を増やせば疲弊が増して、いずれぼろぼろになるということを織り込まなければいけません。
多くの企業の現場ではこの辺りのバランスを読み誤っている気がするんですよね。分かり易くいうとロボットに仕事をさせているという思い違いがあるような気がします。更に、生産性と品質を重視するあまり、熟練工ほど酷使する傾向にある気がします(だって、その方が沢山製品ができて儲かるから)。腕に覚えのある職人の中には自分を酷使することに快感を覚える人も多くいますからその相乗効果で過労に倒れるなんて悲劇が生み出されるんだと思います。
資本主義に基づく企業の理念はアウトカムを抑えてインカムを増やすこと、これに尽きます。だから残業代も社員の給与さえもできれば払いたくない。払わずに労働だけさせていられればどれだけ素晴らしいことかという発想に行きつきます。けどね、従業員はロボットじゃありませんからそれではモチベーションが下がって当たり前。がむしゃらに働こうがサボっていようがもらえる給料が同じなら楽したいと思うのも残念ながら自然な発想です。こんな勤務態度で熟練度が増すわけもなくただ、機械的に作業をこなす人間を量産するだけになるのは目に見えてます。

職人がいなくなる時代を本気で危惧するのなら企業は給与体系を時間給から成果に対する評価に見直すべきだと僕は思います。外資系はそういった発想が進んでいますが、この国では随分と遅れています。
で、あともう一つ方策を提言します。
機械をもっと進化させること。東野圭吾のプラチナデータの中で、陶芸家の指遣いを精密に再現したロボットが登場します。そのロボットが作り出す陶器は陶芸家の作品と何の遜色もなく、ロボットが作ったということを知らない陶芸家の息子は「こっちの作品の方が良いね」と言って陶芸家に大きな衝撃を与えます。これは絵空事ではなくロボットやコンピュータのテクノロジーはそれを実現するところまで来ているのです。小説の公募に「コンピュータによる執筆も可」という断り書きが登場するようになってきていますし、事実コンピュータが執筆した小説が一次選考を抜けたなんてニュースも話題になりました。タダで働いてくれる熟練工が欲しいのなら企業はもっと真剣にロボットに投資すべきではないかなと僕は思います。

職人がいなくなる時代①

過剰な残業が問題視されるようになって久しいですが、決定打になるような対策もなく改善はまだまだ難しいみたいですね。この話題が上がる度に人を増やせ、給料上げろなんて声をネットで見かけますが、発言している人はそうなったらどうなるか想像したことあるのかな?
給料上げろというのは、子供が親にお小遣いアップしてというのと同じことです。会社も無尽蔵にお金を持っているわけではありません。どんなに頑張っても一年で稼げるインカムは限りがあるのです。安易に子供の小遣いをアップしたら、被服費、遊興費など削り易い費目から削らないといけなくなります。お小遣いアップしてと安易にいう子どもに限って、服買ってくれない、旅行に連れてってくれない。と文句を言うんじゃないでしょうか?
人を増やすということは、自分の仕事を人に取られるということです。一人っ子だから晩御飯のおかずを独り占めできていたのに6人兄弟になったらおかずは奪い合いになるという想像は働かないのでしょうか? それとも一人当たりの仕事量は減るけど同じ給料がもらえるとでも思っているのかな。何度もいうように会社だってインカムには限りがあります。人を一人増やして養っていくのがどれだけ大変か、親の気持ちになれたなら安易には言えないセリフだと思います。
それにね、人を増やせば仕事が楽になるというのはたいした熟練を必要としない単純作業に限って言えることです。多くの仕事は未熟な人材を大量投入したらお荷物を押し付けられるだけでそれこそ職場が破たんを来すと想像できないのかな? ただでさえ、自分の仕事で手一杯なところに右も左もわからないひよっこが大量にやってきて「教えて、教えて」とぴぃちくぱぁちく囀り続けられる状況を想像したら僕ならぞっとしますが
ネットに横行する子供が親にねだる視点の発言にうんざりして益体もないことをつらつら書いてしまいました。けど、この発想の根底には、「会社はお金をもらいに行くところ」という考えが透けて見える気がするのです。本来、会社は働きに行くところです。給与はあくまでもその労働の対価に対して支払われるものです。時間給的発想の弊害だと思うのですが、何時間仕事したからいくらもらえるという発想が間違いなくこの国には横行しています。本当はどれだけの仕事量をこなしたからいくらもらえるであるべきなのに、多くの会社では1時間に10の仕事をする人も、1時間に1の仕事しかしない人もひとしなみに同じ給料に換算されます。だから、働いた時間=もらえるお金と勘違いする人がいてもおかしくはないんですけどね。
時流に反するコメントですが、残業の批判は職人を育てるという目的には相反するものだと僕は思います。何時間働くことに価値があるのではなく、何を創出したかにこそ価値はあるから。そして、価値あるものを創出するためには特に未熟なうちは相応の時間の労働が必要だと思うのです。残業代の未払は論外だと僕も思いますが、特に若手の頃に多くの残業をこなすことを僕は否定しません(仕事の質によりますが)。それを否定することは人を育てることを否定することで、やがてこの国から職人がいなくなってしまっても構わらないという発想に繋がると思うからです。
今日は従業員サイドの甘さについて書いてみましたけど、雇用サイドにももちろん問題はあります。もう少し書きたいので明日、続きを書きます。

異論を認めない

スポーツが嫌いな中学生を現在の半分に減らす――なんて、目標をスポーツ庁が掲げたそうですが、ネットなどで反発の声も挙がっているみたいですね。かくいう僕も運動は大の苦手で子供の頃から体育の授業は大嫌いだったので、正直ほっといてよと言いたい派かな。
体育の授業の何が嫌いって、たとえば「今日は跳び箱やります」と先生が言って一列に並ばされて順番に跳ぶだけ。跳べなかったら、「こんなに低いのになんで跳べないの」って目で見られることはあっても、どうやったら跳べるかという指導をされた記憶がまるでないのです。先生の視点はあくまでも跳べる子と跳べない子を選別して点数を付けるだけ。あれほど、教えるということが手抜きな授業はなかったんじゃないのかな。って、音楽とかもそうか。いきなり先生がピアノ弾いてそれに合わせて耳で覚えて歌うだけで、楽譜の読み方は教わらなかったもんなぁ。ホントはドの音はこれですよと順番に教えて覚え込ませれば初見でも楽譜は読めるはずなのですが、小中9年音楽の授業をやって曲の聞き覚えしかできない子を大量生産しているだけの授業でしたね。
そもそも「スポーツが嫌いな中学生を現在の半分に減らす」という発想自体が嫌で、それって「スポーツは好きで当たり前、嫌いになる奴がおかしい」的な考えが透けて見えるじゃないですか。スポーツが嫌いな人がいても当たり前という発想はないのかな? 人をひとくくりにして物を言うのは好きじゃないけど、体育会系の人にありがちな「俺が好きなんだから、みんなも好きに決まってる」的な独りよがりな発想、それに対して異論を唱えると「お前変わってるな」の一言で済ませてしまう無思考が僕は何より嫌いです。
体育が嫌いだったのに反比例するみたいにそれ以外の授業はそれなりになんでもできたので、僕もどこかで「この問題のどこが難しいんだ?」と傲慢なことを考えていたのかもしれません。でもね、いくらなんでも数学が嫌いなやつがいることが信じられないとか、理科が嫌いってお前変わってるなとは思いませんでしたよ。スポーツ庁の目標を見た時に「けっ」と思ってしまったのは、「数学が嫌いな中学生を半分に減らす」という目標が並行して掲げられてなかったからもしれません(ま、スポーツ庁の仕事じゃないでしょうけど)。
スポーツが好きな子は健全でまっとう、数学が好きな子はちょっと変わってるとでも言いたいのかな? なぁんて、運動の出来ない子のひがみでそう思っちゃうのですよ。

スマートな表現

小説でもドラマでも説明的な表現というのは見るものをシラケさせます。
たとえば、主人公とヒロインが新婚ほやほやだということを説明するのに
「楽しかった。ハネムーンがハワイなんて最高だわ」
とヒロインにしゃべらせたとしたらどうでしょう? このセリフを言われている主人公はそのハワイにハネムーンで行って来たばかりの当事者です。今更、「ハネムーン」だとか「ハワイ」だとか言われるのは極めて不自然でそれが観客をシラケさせる原因になります。
巨匠ヒッチコック監督はこの状況説明をたった2行のト書きで実現しました。

窓際にバラを活けた花瓶がある。
花瓶には結婚おめでとうと書かれたカードが立てかけてある。

シーンにして恐らく3秒、カードのアップがあったとしても5秒で全ての説明が付きます。バラの鮮度から見て活けられて間がないこと、結婚おめでとうなんて書かれたカードを飾るのは新婚さんしかいないこと。その2点から二人が式を挙げて間がないことが自然に理解できます。スマートな表現というのは総じて端的で自然なものじゃないかなと僕は思います。それは演出だけでなく演技にも言えることで、例えば悲しい場面で泣いて見せるというのは時に観客をシラケさせたりドン引きさせたりするリスクを負います。なぜなら、現実の世界ではいい大人が悲しがって泣くことはまれだから。大抵の場合はその悲しみを飲み込んで泣くまいとして取り繕おうとするから。ある人は気丈に振舞ったり、努めて明るくはしゃいだり、ある種挙動不審に陥ったり。それでも涙は見せない。その方がぐっとくる場合は多いのです。
だって、その状況が主人公に悲しみを与えていることなんて観客はみんな知っているから。その痛々しいまでの振舞に、「もう、泣いちゃえば良いのに」と思いながら、それでも涙を見せまいとする主人公に観客は共感するものなのです。
ただ、こういう現実に近い自然な表現が求められるようになったのは日本では割と最近のように思います。少なくとも戦後すぐの頃の映画では子役は大人が求める頑是ない子供像をストレートに演じることがもてはやされてたんじゃないかな。たとえば、あけすけなセリフをはきはきと口にさせることで無邪気を演出したり、悲しい場面ではなりふり構わず大泣きさせたりしていたきらいがありました。それは恐らく、日本には型を重んじる歌舞伎という演劇文化があってその延長線上に映画の文化が築かれたことに由来するのではないでしょうか? それが時代が下るにしたがって西洋風の演出、演技手法が取り入れられるようになっていった気がします。僕は決して歌舞伎の型を否定するつもりはありませんが、どちらが洗練された演出かと問われれば今風の自然で端的な演出の方かなと思う派です。
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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