読解力

仕事柄あちこちに出張に出かけるのですが、行ったことがない土地での楽しみと言えば僕の場合、食事に尽きます。その土地の名物、地元の名店、その店でしか食べられないスペシャリテ。そういったものを想像するだけでワクワクして仕事のモチベーションも爆上がりするというもの(をいをい)。
とはいえ、不案内な土地ですので情報が不足しがち。そんな時僕は食べログなどのネットの飲食店紹介サイトをよく活用します。「ステマ(ステルス・マーケティング)記事が大量に混ざっている」だとか「意見が偏っていて参考にならない」なんてコメントもネットでは散見されますが、少なくとも僕の場合、不思議なくらい当たりの店を引くことができます。確かに、明らかに提灯記事だろと思えるものや、自分が食通ぶりたくて店の料理にケチを付けているだけにしか見えない記事もあるにはあるのですが、そんな中で店の雰囲気が、料理が、明らかに書き手の琴線に触れたと思われる記事、書かずにはいられなくて筆を執った記事の見分けが付くのです。そういった記事の誉め言葉も、お叱りの言葉も、どうして書き手がそう感じて、そう書きたくなったかが読めるのです。
僕の読書歴は4歳の頃、仮名文字が読めるようになった頃に端を発します。以来五十年、読書の習慣が途切れたことはありません。そのおかげか高校の頃は理系のクラスに籍を置いていましたが、国語だけはずっと学年で主席でした。そして今、半世紀にわたって蓄積してきた読書歴は思わぬところで役に立っているようなのです。
飲食店紹介サイトのコメントを読むと単に情報が頭に入って来るだけではなく、その書き手の背景が見えてきます。年齢、性別、性格(穏やかなのか粗暴なのか、謙虚なのか傲慢なのかなどなど)、普段どんなものを食べているのか? どんな味を好むのか。子供の頃、食事のしつけが厳しかったかどうか。団らんを知っているか長く孤食を通しているのか。そういった情報がコメントの行間に溢れているのが見えるのです。結果、信頼に足るコメントと無視した方が良いコメントの区別が付いてその店の良し悪しを垣間見ることができるようです。

Wikipediaによると、従来、日本で読解力と言えば「国語教育を想定した上で、「教材としての文章の内容を正確に読み取る」という意味合い」が強かったそうです。ところが、PISA(OECDが定める生徒の学力到達度調査)によると日本の読解力の水準は決して高くないそうです。
PISAの規定が従来の日本の読解力の定義と異なる点はこんな感じ。
テキストに書かれた情報を理解するだけでなく、「解釈」し、「熟考」することを含む。
テキストを単に読むだけでなく、テキストを利用したり、テキストに基づいて自分の意見を論じたりすることが求められている。
テキストの内容だけでなく、構造・形式・表現法も評価の対象となる。
言われてみるとなるほどと思うところがあります。高校の頃、僕は国語の試験勉強をしたことがありませんでした。それでも、試験問題を読めば「いや、この答えはこれしかないだろう」と自ずから答えが見えてきたものです。ところが、文系クラスの友人に聞くと「国語の成績向上は詰め込み学習しかない」と言うんですね。問題をパターン化し、パターンAなら答えは××になるというのをひたすら丸暗記するらしいのです。
それって、全然楽しくないじゃんと当時も思っていましたが、それ以前にこの学習方法には致命的な欠陥があります。それは、

この学習方法では、読解力が全く向上しない。

ということ。確かに受験では高得点が取れるかもしれませんがそれって極論を言えばカンニングと何ら変わらないと思うのです。問題を自分のスキルで解くのではなく、誰かが用意した答えを丸暗記して書き写すだけ。なるほど、PISAに読解職の水準が低いと言われるわけです。少なくともこの学習で得た知識では食べログのコメントを読み解くのはおぼつかないだろうなと思います。
僕は別に高校の試験で高得点を取るためや、食べログのコメントを読解したくて半世紀も読書をしてきたわけではありません。けど、結果として文章を読めば書き手の人となり、書いた時の状況を理解できるスキルを身に着けることができたようです。
未だに国語の受験勉強方法が詰め込み式ならすぐにでも方向転換することを提言します。その方法は読解力がなくても試験で高得点を取るという目的は果たせても、実生活で役に立つスキルは何も身に着きはしませんから。
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概算の薦め

えと、禁酒宣言はわりと守られてます。呑んじゃった日もあったけどここ数年で一番お酒を飲まなった一週間だった気がする。このままがんばろー
で、タイトル。たまに「そろばんやってたの?」とか「計算速いね」と言われることがあるのですが、そろばんは小学校で習った以外はやったことがないです。でも、たとえばスーパーで398円の商品に2割引きのシールが貼られていたら「あ、319円か」と一瞬で分かっちゃいます。で、びっくりされるのですが、それってちょっとしたコツなんですよね。398円×0.8と考えるから難しいわけで「おおよそ400円」と考えれば2割引きは320円というのは誰だってわかります。で、実際にはそれより2円低いからおそらく2割引き後は1円下がって320-1=319円くらいかなと考えるわけです。
なら、258円の商品の2割引きならどうでしょう? 答えは207円くらいかな。
この問題を出されると多くの人が258円×0.8という掛け算をしようとするのにびっくりするのですが、2割「引き」といってるんですから引き算をすればいいはずなんです。258円の1割は25.8円でえすから2割ならざっと51円。なら258-51=207と一瞬で計算できるじゃないですか。
僕の大叔父は学校の先生だったのですが、僕が小学校の頃にうちに寄られた時に「概算の大切さ」を教えてくれました。算数の試験で問題を解いた時、検算するのにもう一度同じ計算をするのではなく答えが大よそどれくらいの数字になるかを予想してみろというのです。で、自分が導き出した答えがその予想の範囲であれば正解の可能性が高いし、外れていれば間違いなく不正解。概算であればきちんと計算するよりはずっと短時間でできるし、その分他の回答のチェックに時間が回せるというのです。システムエンジニアという仕事を30年以上やっていますが、未だに役に立つ教訓でよく活用しています。もし時代が少し違えば、あの大叔父もスーパーで2割引きのシールとにらめっこすることなんかあったかもと思うと厳めしい顔を思い出しながら笑っちゃいますけどね。

禁酒宣言

普段このブログは深い意図もなく、思い浮かぶよしなしごとを書きなぐっているだけで実益を兼ねるものではないのですが、たまには実益を兼ねて。
太った。半年で4kgくらい太った。だから体が重くて日常生活の動きにキレがない。加えてここ数日、シャレにならない程足がむくんでいる。原因は明らか。酒の飲み過ぎによる肝臓の疲弊あるいは障害。
とりあえずは酒をやめなさい。夜、口寂しくなったら原稿用紙に字を埋めなさい。その方がよほど建設的です。
そして、1週間経ってもむくみが引かないようであれば必ず近所のクリニック行くように。独断は厳禁。肝臓は重要臓器だけど障害が起きても痛みなどを発しない傾向にあるので放置はヤバイ。
わかったら、返事は……。はい、よろしい。

頂を目指す

例えばビルの前に立っていてそのビルの10階に行きたいと考えたとします。
えいっ、という掛け声もろともスーパーマンみたいに10階まで飛べたら楽ちんでしょうね。けど、残念ながらクリプトン星生まれでない人類にそんなことはできません。
もし、ビルにエレベーターが付いてなかったら、階段を上がっていくしかないんですね。最初の一歩で上がれるのは1段分。しょぼい段差です。2歩で2段目、3歩で3段目、4歩で4段目。それでようやく1メートルほど高い所に辿り着いたといったところでしょうか。それでもね。それを続けていればいつかは2階に辿り着けます。更に続けていけば3階、4階……。いずれ10階に辿り着けるのです。
登山も同じこと。どんな高名な登山家でも最初の一歩は一歩でしかありません。凡人と彼の違いは次の一歩を出し続けていけるかどうかだけ。たったそれだけが頂に辿り着くかどうかを分けるのです。

ところが世の中にはそんな登山家をも凌ぐ鋼の精神力を持った創作者と呼ばれる人たちがいます。何しろ彼らは頂のない山を生涯上り続けるのですから。不世出と呼ばれる映画や小説の名作がもてはやされることはしばしばあります。けれど、その作品を超える作品がその後、世に出ないということは決してないんですよね。それどころか、それを超える作品を同じ創作者が世に出すことだってあるのです。巨匠ともてはやされる彼らの心情を慮ると身が震えます。今作で自分の全てを出し切ると心に決めて、最後の1行まで全身全霊を込めて書き終えて、ふと周りを見渡すと自分は頂になど立っていない。見上げれば頂は雲を抱いて遥か上方にそびえている。溜息をついてまたペンを執り次の一歩を踏み出す。
それが一生続いて行くのです。創作者の業の深さとはそういうところにあるのではないでしょうか? それでもね、山を歩いていると綺麗な花を見ることもあれば川の冷え冷えとした水でのどを潤すこともある。それは、掛け声一つでビルの10階まで飛んで行ってしまうクリプトン星人には決して味わうことができないものなのです。だからまた一歩を踏み出す。ありもしない頂を目指して、業が深いと感じる同じ心で、それはなんてすばらしい生涯だろうとも思ってしまうのです。

魔法のほうき

あまり評判にならなかったみたいなのですが、2017年冬アニメに南鎌倉高校女子自転車部というのがありました。ストーリーは女子高生のわりとゆる~い友情と成長物語でその機軸が女子自転車部の創設になっています。物語もさることながら自転車に関する基本的な解説(姿勢、シフトチェンジのコツ、注意事項などなど)がなされていて何十年も自転車に乗っていながら知らなかったことも多くためになりました。何より目から鱗だったのは「意外に遠出ができる乗り物」だと改めて気付かされたこと。僕にとって自転車は駅や近所のスーパーに速くいけるくらいの感覚だったので、乗るのはせいぜい10分か15分。けど、30分、1時間かければ思いもしない場所まで行けることに気付いたのです。
で、一念発起して隣駅まで行ってみることにしました。隣駅と言っても馬鹿にできなくて戸塚駅から大船駅までは電車でも10分ほどかかります。距離にして8km、自転車なら30分くらいかな。戸塚-大船間は川沿いに自転車専用道が伸びているので意外に楽ちん。車も歩行者もこない道はなかなか快適です。たどり着いた大船駅駅前は──夢のような場所でした。足しげく通った大阪の天満を思わせる細く長く伸びた商店街に人、人、人。みっしりと並んだ店舗には食料品を中心に所狭しと商品が並んでいる。で、結構安い。実家に帰ってきたような安心感に浸りながらそぞろ歩き、買物を楽しみました。ちょっと衝動買いなどもしちゃったな。
それもこれも自転車君のおかげ。

♪自転車は魔法のほうき、隣の町までお遣いだ。

子どもの頃に聞いた歌など思い出してしまいました。これからはちょくちょくあちこち行ってみようかな。

ネタ帳

もし、広辞苑が作家になったら文豪になれるか?

何をふざけたことをと思うかもしれませんが、今日日の小説、特にラノベならこの程度の擬人化は普通にありそうな気がします。
ある日、気が付くと僕はベッドの上で目覚めた。自分が何者でどうやって生きて来たのかわからない。頭の中にあるのは言葉だけ、言葉、言葉、言葉、24万に及ぶ膨大な語彙が渦巻く。僕は背広に袖を通すとマンションの部屋を出てみた……
みたいな始まり方をして、ご都合主義かよといわれようが、出版社の美人編集者と巡り合う強引な展開が待っているわけです。果たして、語彙力は豊富だけど人生経験が全くない「僕」は小説家になれるのか? みたいな。

唐突な書き出しですみません。小説のネタになりそうなことを思いついた時、忘れないようにメモしておくネタ帳というのを僕は持っています。このブログの冒頭1行は夕べ書いた最新のネタ。他にもこんなのがあります。

社畜のバカンス。社畜が一か月の休暇をもらってしまったらどう過ごすか?

SNSのニュースで有休休暇が取れないという記事が投稿されると、自虐的なコメントが並びますよね。「夢のまた夢」とか「人が少なすぎる」とか。中には「取らせろや」みたいに荒々しいコメントもあったりします。そんなコメントをつぶやいている人がある日突然、「一か月休んで良し」って休暇を与えられてしまったら果たして有意義にヴァカンスを楽しむことができるのか? これは休暇を取ることに不慣れな社畜青年の汗と涙の休日奮闘記である──みたいな。

読書や映画鑑賞の思い出リセット屋(初見に戻します)

シャッター商店街の奥にある見るからに怪しげな古書店。そこの店主に金を払って依頼すれば読書や映画の記憶を消してもらえるとか。まっさらになった頭でもう一度あの感動を味わいたいそんな人々が今日も店を訪れる。これなんか、リセットしたがる動機に意外なものを設定するとミステリーになりそうです。

無声映画でしかありえないトリックってなんだろ?

音がないからこそ成立する観客をだます仕掛けだとか。マスクを被った人間が誰かはトーキーならすぐにわかっちゃうけど、字幕オンリーならわからない。一人二役なんかを仕掛けられそうですね。

多くの人が日常生活の中で「はてな?」と思うことって多々あると思うのです。ただ、暮らしていくことに取り紛れてすぐに忘れてしまうのが常。そんな「はてな?」を書き溜めていけば誰もがストーリーテラーになれる気がするのですがいかがでしょう?

夏らしい朝

今年はあまり雨が降らないこともあって7月半ばにして夏らしい天気が満喫できてます。
数年前、8月に晴れの日が数日もなかった年はひどかったな。いつまで経っても梅雨空で気が付くと秋が来ていたみたいな。
我が家は目の前がJRの線路で遮るものがないこともあり、強い風がひっきりなしに通ります。なので、夏場でもエアコンをつけることは皆無(てか、コンセント抜いてしまってるし)
アイスを食べるにせよ、スイカを食べるにせよ、トウモロコシを齧るにせよ、冷酒を呑むにせよ、やっぱ暑くなければ趣も半減するというもの。エアコンがガンガンかかった部屋で寒さに震えながらビールを飲むなんて論外です(って、お前は飲み食いでしか夏を体感しないのか)。
夕べは久しぶりにお酒を呑まずに寝たので今朝はすこぶる体調がよろしい。6時半にして既に30度超えている夏らしい朝を満喫しながら、今日一日どうやって夏を楽しもうかなと考えております。
あ、熱中症は怖いから水分補給だけは怠らないようにしないとね。

恋と覚悟

毎週楽しみにしていた「月がきれい」が最終回を迎えました。
物語は美しく畳まれ、多幸感溢れるラストだったと思います。ふり返ってみると、監督を初めとする製作スタッフは思春期の恋愛について相当研究し、議論したんだろうなと思える演出が随所に溢れていたように思います。
例えば、ヒロインの親友が主人公を好きになってしまったと告白する場面。困惑するヒロインは姉に助言を求めます。
「わたしだったら、即絶交する」
言い放つ姉にヒロインはたじろぎ、それはできないと拒みます。恋は大切だけど友情も大事にしたいと反論するんですね。一見、姉の方が暴論でヒロインの優しさが垣間見えるシーンに見えなくもないですが、よく考えると姉の方が正論なんですよね。要は恋と友情どちらか一つ選べと言われたらどちらを選ぶかという問題です。恋を守りたいのならたとえ相手が親友でも火種は断たなければならないということを姉は経験から知っているのです。一方、ヒロインの主張は優しさというより優柔不断なわがままです。案の定、その火種は後々くすぶり続けて禍根を残します。
そして、クライマックス。楽しみにしていたお祭りの夜、ヒロインは部活の部長と一緒にいるところを主人公に目撃されてしまいます。元々はゴミ出しじゃんけんに二人が負けてごみを捨てに来ていただけなのですが、その後芋モチなど買い食いしながら雑談しているうちに部長に想いを告げられたその場面に主人公は出くわしてしまうのです。主人公の不機嫌はマックス、邪険にされてお祭の雑踏に一人取り残されたヒロインは泣き出してしまいます。
ネットのレビューを見ると「ヒロインが可哀そう。何も悪くないのに」とか「主人公は心が狭すぎだろう。ま、中学生だからしかたないか」という意見が散見されたのですが僕はそれはどうだろうと、疑問に思いました。この一件は明らかにヒロインの方が悪いと思うのです。恋愛未経験だから仕方がないけど、脇が甘過ぎる。誰かと付き合いだしたのなら、他の異性と二人でいるなんてシチュエーションになっちゃだめです。ましてや、お祭りのようにどこで誰が見ているかわからない場所ならなおさらのこと。ゴミを出したらさっさと部活の面々と合流してしまうべきなのに、芋モチなんか食べてまんざらでもない顔して部長と雑談なんてしている。だから、部長に告白する隙を与えちゃったんだと思います。
恋をして誰かと付き合いだすのには覚悟が要ります。それまでの人間関係、友人を喪うかもしれないという覚悟、それは恋の成就と引き換えに、時には断腸の思いを以て支払わなければならない対価なのではないでしょうか?
制作者はそのあたりの恋の駆け引きをも研究し尽くした上で、恋愛未経験ゆえの未熟さというキャラクター設定を主人公とヒロインに付与しました。見事に計算しつくされた演出プランだったと思います。

一期一会を嫌う

いろいろあって、9月に横浜住まいを畳むことになるかもしれません。
ま、単身赴任で来てるわけで、いずれそうなることは分かっていた話なのですが、結構この街に愛着がわいているので寂寥感ははんぱないです。
でも、冷静に考えるとね、じゃああと1年後なら寂しくないのか? とか、10年後なら納得いくのかって話なんですよね。きっといくら時間を重ねても、いや時間を重ねれば重ねるほど名残惜しい気持ちはうずたかく積み上がっていくと思うのです。
極論を言えばある夜、死神が夢枕に立って「お前は余命2ヶ月だ」と宣告したとして「そんなぁ」と悲しがるようなものかな。じゃ、「お前は余命30年だ」と言われたら何か変わるのかという話。ぐうたらな性格ですからそんなこと言われたら29年と10ヶ月くらいはだらだらと暮らして残り2ヶ月になって泡を食うに違いないと思っちゃいます
で、夕べ馴染の居酒屋に顔を出してご報告して参りました。その折、ふと思い立って口にした言葉、

「僕、一期一会って言葉はあんまり好きじゃないんですよね」

なんかそれを意識するとせっかくの場を楽しめないというか、極端な譬えをすると侍が白装束を着て目の前に脇差が置かれてるみたいな、そんな気分になっちゃうのです。別に意識しなくてもいずれは店の暖簾をくぐる最後の日は必ずやって来ます。それは、今回ほど明確なけじめが付いている日じゃないかもしれません。いつもと何ら変わらない調子で酒を呑んで、おやすみなさいと言って店を出たところで車に轢かれちゃうなんてことだってあるかもしれません。
そういえば松田優作さんが大のお気に入りだった大阪のお好み焼き屋さん(豚もやしせいろ蒸しってのがすっごく美味しいのだ)のエピソードを思い出します。ある時、彼が顔を出すと店が混んでいて「あ、じゃまたにするわ」って体で手を振ったので店主も軽く頭を下げたとか。その時、彼は末期がんを患っていてそれから、顔を見せることは終になかったとか。店主は未だに心のどこかで悔いを抱えてるとその店をモデルにした「プリンセストヨトミ」という映画のパンフに書いてました。けどね、それは悔いるようなことではなく思い出にすることだと僕は思うのです。優作さんにとってはその1回前の来店が店にお別れを告げた時──そう思いましょうよ、なんて言いたくなります。

ご縁があったらいずれまた。

そう言って、店の暖簾をくぐって夜空を見上げる。一期一会というほど悲壮な物ではなくてぼくはそっちの方がずっと粋な生き方だと思います。

PC復活

世の中には天才的にものをすぐ壊してしまう方がいらっしゃるようで、僕の叔母などがこのタイプでした。
新婚早々、買いそろえたばかりの食器を次々に割って1年も経たない間にあらかた買い替えたり、家電製品も「なぜ、そんなことをした?」と尋ねたくなるうかつさで使用不能にしてしまったり、傍で見てるとわざとじゃないの? と疑いたくなるくらい
って、よそ様のことは言えた義理じゃなくて、うちの嫁もその傾向があります。うちに帰ってみるとなぜか食器の数が減ってたり(酷い時は生ごみと一緒にスプーンを捨ててしまったこともあるみたい)、急にキッチンスケールが巧く動かなくなったと思っていたら、「ごめんなさい」と言われたり(一体、何をした)。その点、僕は滅多に食器を割ったり物を壊したりしないと自負しているのですが、それでもたまに大チョンボをやらかしてしまうことがあります。
過日、家呑みをしながらPCでアニメを鑑賞していた時のこと、テーブルの上の何かを取ろうとして手を伸ばしたらビアグラスに指を引っ掛けてしまいました。グラスの中になみなみと注がれたオレンジ色のチューハイが一気にテーブルとPCのキーボードに放流。すぐさま思ったのは──「もったいない!」でした(って、どんだけ意地汚いんだよ)。慌てて拭いたのですが、翌朝からキーボードが挙動不審に陥り、翌晩にはキーボードは全く機能しなくなりました。
僕はわりと諦めと割り切りの良い質なので早々にメーカーに修理を依頼。翌日には宅配屋さんがPCを取りに来てくれて、PC君は速やかに入院と相成りました。
僕はスマホを持っていないのでそれ以来、ネットの世界からはログアウト。案外、日常生活が寂しくて、自覚はなかったのですが、多くの現代人の御多分に漏れず僕もネット依存症気味だったんだなぁと改めて認識しました。
昨日、宅配屋さんが無事復活を遂げたPCを届けてくれて(修理代はいささか痛かったけど)、今朝はその全快したPC君でこれを書いております。この悲劇を二度と繰り返さないためにもビアグラスは自分の左側に置くことを自戒しておきます。右利きなのでどうしても右手の方があちこち動くのです。そっち方向に倒したらまずいものを置いちゃいけませんて。(ホントは呑みながらPCを使わなきゃ良いんですけどね)
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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