課題図書がきらい

巷の小中学生は夏休み真っ盛り、夏休みといえば定番の宿題に読書感想文というのがあったなぁと思い出し、課題図書のことを思い出しました。
夏休みに入る前に「今年の課題図書はこれだ!」てなプリントが配られ、できれば読書感想文はその本を読んで書くようにと先生に言われた記憶があります。今でもこの制度は活きてるのかしらんとネットで調べてみると……ありましたありました。2017年度課題図書が告知されています。どんなのがあるのかちょっと覗いてみましょう。
ばあばは、だいじょうぶ
 認知症になったおばあさんと家族とのふれあいの物語
なにがあってもずっといっしょ
 ペットと飼い主の心の交流の物語
すばこ
 巣箱の歴史や利用方法を学べる本
耳の聞こえないメジャーリーガー ウィリアム・ホイ
 実はに基づく伝記的な物語
空にむかってともだち宣言
 今の児童生徒の周りにはさまざまな国からいろいろな事情を抱えた外国の子どもがいる。そんな彼らに国際理解を促す本

 うーん、40年前に比べるといくぶん多様化はしているような気はしますが基本的に傾向はあまり変わっていないみたい。やっぱり僕は課題図書というのはきらいかも。
 読めば面白い本もたくさんあると思うんですよ。僕が小学校の頃もそうでしたし、そういう意味では僕が嫌いな理由は作者さんに責任のあることではないといえると思います。作者さんは真摯に作品と向き合って筆を執っておられると思います。なら、何がいやだったのかちょっと考えてみました。
人から読めと言われて読まされるのがイヤ
 僕は本に出会いを求めるタイプです。図書館や書店でふと手に取った本。その瞬間、ビビっと心に電気が走ってその本から目が離せなくなる。僕はこの本を今すぐ読むべきだと心が命ずる。そんな運命的な出会いを大事にしたいタイプです。読んでみると大して面白くもなかったり軽佻浮薄な物語だったりすることもありますがそれでも自分が選んだということに拘りたいのです。
選者の「ためになるでしょ」と言わんばかりのドヤ顔が目に浮かぶのがイヤ
 何も道徳教育に役立ちそうな本ばかりが選考されているわけではないのはわかっています。けど、子供の科学的理解を促したり、社会情勢に対する理解を促したりなんだかお説教臭さが透けて見える気がするのです。小学生の頃もそう感じていましたが、五十過ぎのおっさんが今年のラインナップを見ても同じように感じました。繰り返し言いますがこれは作者の責任ではありません。本の与え方の問題だと思います。
選考が教育者視点に偏向していて、読者視点が軽視されているのがイヤ
 全ての歴代課題図書をリサーチしたわけではありませんが、おそらくはライトノベル的な本が選考されたことはないんじゃないでしょうか? あるいは絶海の孤島で血まみれの連続殺人事件が起きるようなミステリー、手に汗握るタイムトラベル、思春期の恋物語なんて本が選ばれたこともないんじゃないでしょうか?(選ばれたことがあったのならごめんなさい)
 インターネットが発達した現代は読者が気軽に人気投票ができる仕組みができあがっていて「この✕✕がすごい大賞」といった読者視点で選考される文学賞が数多あります。その上位に選ばれたものはまず間違いなく面白く、本好きの読書欲を満たしてくれる作品群です。省みて課題図書に選ばれた本がそういったランキングに喰い込んでくることは失礼ながら皆無なんじゃないかな。
 この違いはどこから生じるかというと選考基準が「読んでためになるかどうか」を重視していて「読書欲を満たすかどうか」という読者視点を軽視しているからだと思うのです。

 僕が読書をするのはその本を読めば何かためになることがあるからではありません。純粋に本を読んでわくわくしたいからです。その本からなんの教訓も得られなかったとしても、最後のページを閉じた後に物語の続きに想いを馳せて想像を膨らませる至福のひとときがあればそれで十分なのです。
 課題図書の選考基準は以下の6つなのだそうです。
(1)児童生徒の発達段階に適合しており、楽しい読書体験が得られるものであるか。 
(2)現代の児童生徒の思考や心情に適合し、多くの児童生徒に興味や関心を持たせることができるものであるか。 
(3)児童生徒に深い感動や新たな認識をあたえ、豊かな心の成長が図れるものであるか。 
(4)内容や主題に独創性があるか。またその取り扱いは、時流に迎合的であったり、興味本位のものになっていないか。 
(5)正義と真実を愛する精神に支えられ、人権尊重の精神が貫かれているか。 
(6)特に、ノンフィクションについては、事実の叙述が科学的に正確で、かつ主題の取り扱い方が新鮮で、創意や工夫がみられるか。

できれば七番目の選考基準に「児童生徒の読書欲を存分に満たし、読書の楽しさを知る機会を与えうる作品か。それに叶う場合、(1)~(6)の基準を充足しなくても選考可能とする」というのを加えて頂きたい。その基準に則って今まで見たこともないようなぶっ飛んだ本が選ばれるようになれば、少しは課題図書が好きになるかもしれません。
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RPG

システムエンジニアの仕事は単独でこなすミッションは少なく、チームを組んでプロジェクトとして進めるのが一般的です。
「チーム」とか「プロジェクト」と聞くと何だかミッションインポッシブルや24のような映画やドラマをイメージしてしまいますが、だいたいそれで合っております。
多くの人にとって「あと、何秒でこれを解除しなければいけない」とか「あと、何分後にここまで辿り着かなければならない」というのはスクリーンやブラウン管(今なら液晶?)の向こうの絵空事なのだと思うのですが我々エンジニアにとっては現実なのです。
また、大げさなと思われるかもしれませんがホントなんですよ。ちょっと例を挙げてみましょう。
入社して2年めの頃でしたでしょうか? とあるお客様にてスクランブルがかかりました。切り替えて本番を迎えたばかりのホストコンピューターで稼働する基幹業務(工場の出荷伝票を発行するシステムでした)の処理速度が遅い。前のコンピュータの100分の1くらいしか性能が出ていないという異常事態。夜明けには工場から製品を出荷するために大量のトラックがやってきます。タイムリミットはおよそ8時間。その間に、問題の原因を突き止めて対処をしなければ1時間あたり数千万円の損失が発生する。性能情報を採取して原因を追うチーム、プログラムを分散させて代替策で凌ぐチーム、前のコンピュータに切り戻す準備を進める(大容量のデータベースを書き戻さないといけないので何時間もかかるのだ)チームが即座に編成されて並行稼働。30分おきに開かれるミーティング、遅々として捗らない原因究明、3時を過ぎても一向にらちがあかず、4時が迫る頃には焦りもピークに達していました。工場の外にはトラックが続々と並び始める、一旦原因究明と復旧作業は放棄して手作業で出荷伝票が切れないかという議論が飛び交わされ始めました。
と、その時「わかった!」ととある先輩が叫びました。ディスクからのIOを追いかけていた先輩はIOの回数が異常に多いことを発見。その回数は実に通常の100倍くらい。で、その処理の記述を追ってみるとIOをレコード単位で行っていることが判明したのです。80年台当時のコンピュータのディスクは今のPCのそれより劣っていて効率よくディスク上のデータをメモリに引っ張り出す工夫をするのがセオリーでした。なので、データは最小単位のレコードではなくその集合体であるブロックで引っ張り出してとりあえずメモリに乗せてから処理を行うのが定石。このシステムでは1ブロック=100レコードだったので処理が100分の1になるのは当たり前だったわけです。
夜明け──。大至急で記述を書き直したプログラムは本来のスピードで回り始め、次々に出荷伝票が発行されていく。プリンターが吐き出す伝票を抱えてオペレータさんが工場に走っていく。間一髪、なんとか数千万円の損失は免れました。弛緩した空気の中、口にしたカップベンダーのコーヒーが美味しかったな。
後日談ですが、そもそもの原因は前のホストコンピューターと新しいのとではブロック単位のIOを行うかどうかの既定値が逆だったことにあることが判明しました。前のコンピュータでは何も記述しなければブロック単位のIO、新しいのでは何も記述しなければレコード単位のIO。なので、きちんと書かなければいけませんよと、うちから報告していたことが議事録で明らかになりました。が、お客様の中で伝達が不十分だったようで、新人さんが担当した中に記述が漏れていたものがあったそうです。ということで、うちは伝えることは伝えていたのでお咎めなし。改めて胸をなでおろしました。
あるいは、今から10年ほど前、とあるプロジェクトに参加していた僕はある日突然、別のプロジェクトに引き抜かれました。しかも、「今日中に引き継ぎを済ませてこちらのプロジェクトルーム(九州でした)まで出頭するように」という性急な要請。なんとなく噂は聞いていたのでヤバそうな予感はしていたのですが、予想以上にヤバかった。
プロジェクトのミッションは他所のメーカーのホストコンピューターから移植したプログラムの単体テスト3000本完了。納期は9月30日。その日はちょうど海の日の前日だったのですが、もうあと2ヶ月少ししかないのに単体テストはほぼ何もできていない状態。バグの発生率から逆算すると1日にこなさないといけない単体テストの回数は約180回。これは20人がかりで朝9時から0時までかけてなんとかこなせるボリュームでした。
僕はその単体テストのチーフ(監督)だったのですが、もし9月30日までのどこか1日でも落としたら一巻の終わり、ミクロで見ていくとどこか1時間でも、どこか数分でも遅滞を見逃せば取り返しが付かなくなる状況でした。後にも先にもあれだけ緊張感のある2ヶ月は経験したことがなかったな。
って、サラッと書いてますが、朝9時から夜中の2時がデフォルト、土日なしの生活を2ヶ月強やっていたという正気を疑うようなプロジェクトだったのです。プロジェクトメンバは150人超えの大所帯、毎日が文化祭前日みたいで妙にテンション高かったのでなんとかなりましたけど。
よく仲間内の冗談で「SEの日常業務を描いた映画とかできないかな」と言ったりするんですが、「誰が観るんだよ。少なくとも俺は嫌だぞ、なんで休みの日までそんな胃の痛くなるような映画を観なけりゃならん」と切り替えされます。けど、実際に作ったらロールプレイングゲームも真っ青なドラマチックな作品になると思うんですよねぇ

幽冥無実

雨ばかりの今夏の中で、昨日は珍しく曇りの予報だったので、かねてから行ってみたかった場所にお出かけしました。JR 山手線「日暮里駅」。関東以外の人だと案外読みづらい地名かもしれませんが、「にっぽり」と読みます。まあ、用がなければそうそう行く場所でもないように思います。
日暮里駅の周辺は谷中(やなか)という地名で寺と墓地が密集しているエリアです。さすがは徳川の菩提寺「寛永寺」のある土地柄。で、僕の目的地もとあるお寺なのでした。「普門山 全生庵」、臨済宗のお寺で開基はかの山岡鉄舟(勝海舟に先立って西郷隆盛と会見し、江戸城無血開城に貢献した人です)。
ここは鉄舟の菩提寺でもあるのですが、もう一人明治の有名人の菩提寺でもあります。初代三遊亭圓朝。怪談噺で有名な噺家さんですが、その芸の精進のため多くの幽霊画をコレクションしたことでも有名な方です。そう、僕が行ってみたかったのはこれ。
全生庵 
幽霊画は本やテレビなどで見たことはあったのですが、生で見たことはなく一度見てみたいと思っていたのです。ましてや、今夏は毎日毎日、じめっとした曇り空、昼間でもなんとなく薄暗く幽霊気分を味わうには却ってよかろうと思った次第。加えて今年はスペシャルな幽霊画も特別展示されているのです。
お菊さん 
関東大震災の折に焼失されていたと思われていた鏑木清方作「茶を献ずるお菊さん」が、ネットオークションにかけられているところを発見され鑑定の結果本物と判明。94年振りに展示されるとのこと。これは見に行かねばなりますまい。(NHKニュースから)
展示室はもちろん撮影禁止なので写真を残せていないのが少し残念ですが、全ての掛け軸はショーケースではなくそのまま壁に掛けているだけという展示スタイル。まじまじと顔を近づけて鑑賞することができました(触っちゃだめですよ)。件のお菊さんの絵は茶器を捧げ持って深々と頭を垂れている構図でどんな顔をなさっているかは伺い知れない。けど、だからこそ余計に想像力を掻き立てられるんですよね。怒っているのかな? 恨めしい顔をしているのかな? 泣いているのかな? とつい考えちゃいます。
一わたり見て回って、僕が一番気に入ったのは円山応挙の幽霊図かな。すっごい美人なのです。けど、よく見るとこれは生きてる人じゃないなとなんとなくわかるという。
一口に幽霊画と言っても老婆のような痩せさらばえた絵から、西洋画のデッサンを取り入れたちょっとバタ臭い美人画風のものまでいろんなタイプがあって面白かったのですが、おしなべてどれも顔が笑ってない(ま、当たり前か)、寂しそうな恨めしそうな顔立ちのものばかり。天才圓朝は夜、乏しい灯りの中でこれらの絵を眺めながら新作の噺を練ったのでしょうか。写真で見ると圓朝自身が幽霊みたいに痩せた爺さんのような雰囲気があるので、傍から見てるとその場面がもうひとつの怪談みたいなもんだったんじゃなかったのかしらん^^;

振り返らない合理性

システムエンジニアという仕事柄、日々いろいろなお客様とお会いしていろいろな会話をします。
中にはこの人にはかなわないなと思わせる頭の切れる方もいらっしゃいまして……
あれは僕がまだ社会人5年目くらいだった頃でしょうか。とあるお客様の運用担当者の方がやはりとてもクレバーな方でした。打ち合わせの席で「ああ、だったらこうですね」と結論をぽんとおっしゃるのですが、こっちはポカンとするばかり。
え? なんで? なんで、この話の流れでその結論になった? 理解できていないまま会話は進み、10分くらいしてから、

あああああっ

やっとわかった。その方が結論に至った筋道が。てなことが、しばしばありました。まるで、大人と子供の徒競走。とっとと、ゴールインしてしまっているその方は手持ち無沙汰そうにしながら、こっちが必死こいて走ってくるのを待っておられるのでした。
何か問題が起きた時の対応も際立っていました。「誰の責任だ?」といった追求を一切されないのです。ただ一言。

で、どうするの?

と尋ねられるだけ。起きてしまったことに対して「なんでこんなことが起きるんだよぉ」とぐちぐち言ってもなんの益もないということを知り尽くされていたんでしょうね。起きてしまったことは解決するしかない。と思い定めて後ろは振り返らずただ前に進んでいく、そんな人でした。
あれから二十数年経ちますがあれほど合理性の塊のような人にはついぞ逢ったことありません。僕より少し年上でしたから、そろそろ定年が迫っている頃かな。今頃どうしておられるかしらん。
とまれ、彼はSEとして独り歩き始めたばかりの頃の僕を育ててくださった方の一人に間違いはありません。

ねこやのこと

2017年夏アニメの『異世界食堂』が気に入っています。
騎士や魔法が存在するファンタジー世界のあちこちに7日に一度土曜の日にだけ現れる扉がある。その扉の向こうはなぜかこっちの世界の洋食屋につながっていて、今日もまた獣人やエルフ、大賢者といった異世界の住人が店のテーブルにつき、見たこともない料理に舌鼓を打つ──といった話です。
1回で2話ずつ詰め込まれたストーリー構成で客たちの抱える屈託が出される料理で癒されるというのはありがちといえばありがちな展開なのですが、ほっこりさせられるものがあります。出される料理はオムライスやロースカツ、チキンカレーにフルーツパフェとありふれているけど夜中に見るとむしょうに食べたくなるものばかり。
その洋食屋の名は「洋食のねこや」。ねこの絵がついた看板が目印です。店の料理に魅了された客たちは7日一度、扉が現れるのを心待ちにして、足繁く店に通うようになります。けど、毎回毎回、お気に入りの一品しか頼まず、その料理こそが店一番の料理だと信じて疑わないあたりはご愛嬌ですけど

ふと思ったのですが、こういった店って現実にもあるんじゃないかしらん。すっごく旨い料理を出すけれど店主の気まぐれで店が開いてたり閉まってたりとか。その料理にありつけるのには運が絡むとなると料理の味も3割増しくらいになりそう。
なんてラッキーなんだ。たまたま前を通ったら今日は店の看板に灯が入っている──となれば、迷うことなくその木の扉を押しちゃいそうです。
という例は極端だとしてもたとえば、手に入りにくい食材を使う料理でそれが入ったときだけ臨時に店のメニューに加わるといったことならありそうです。
関西にいた頃、通い慣らした焼き鳥屋に「下心」という串物がありました。なんだかいかがわしいネーミングですが心臓の下の部位なのでこの名前。店主のシャレが利いています。名前はともかくこの串はむちゃくちゃ美味しいので、あるといの一番に頼みます。
けど、鶏の心臓の下の小さな肉ですから一羽から採れる量は本当にちょびっとなのです。この串が店に出されるのはおよそ3ヶ月に一度。店のメニューに登場してから品切れになるまでは長くて1週間くらい。よほど、頻繁に通うか運が強くなければありつけない一品なのです。

あの串を思うと異世界の住人たちが次の土曜日を心待ちにする心情がちょっとわかる気がするな。案外、この物語の作者にも焼き鳥屋の「下心」のように出会うには運が必要な料理を心待ちにした経験があるんじゃないのかなと想像を膨らませたりしています。

悪書追放運動

過日、ネットのニュースで「このような漫画を子どもたちの目に触れさせるのは害毒以外にほかならない。書店の棚から追放すべき」なんて声高な意見を高名な誰かさん(←誰だかすっかり忘れた)が叫んでいるなんてのがありました。このような漫画がどのような漫画かも忘れてしまったのですが、歴史は繰り返してるなぁと思いながら読んだ記憶があります。
明治時代には大手新聞社のコラムに「近頃の学生は夏目漱石などの小説ばかり読みふけって漢籍を読まない」と嘆く記事が載ったことがあるそうです。けしからんから漱石の本など販売するなという論調。まさかその記者も100年後には漱石が文豪と謳われるようになり、その小説が未だに書店に並び、多くの人に読まれるとは想像できなかったのではないかしらん。というか、彼の大好きな漢籍を読む人が誰もいなくなったことに愕然とするのではないかしらん。今、巷で持て囃されている小説や漫画やアニメを彼が目にしたらどう思うでしょうね
発想の根っこは同じだと思うのですが、昭和30年代初頭、漫画受難の時代がやってきます。「近頃の子どもたちは漫画ばかり読んで本を読まない」と一部PTAの面々から声が上がり悪書追放運動が大いに盛り上がりました。政治的な思惑に反するという動機から政府主導で一部の作家や小説が迫害されることは歴史上何度もありました。けれど、政府は特に何も言ってないのに草の根から悪書を追放する運動が起こったのは珍しいことだと思います。そのやり玉には後に神様と呼ばれる手塚治虫も上がりました。曰く「高速道路だの、宇宙旅行だの荒唐無稽な物語ばかり子どもたちに見せる作者はけしからん」なのだそうです。逆にこれは読んで良しとされたのが赤胴鈴之助。なぜなら、主人公が親孝行だからという馬鹿馬鹿しい理由。いやいや、高速道路も宇宙旅行もあなた方が騒いでた時代から十年も経たずして実現するけれど、真空斬りは21世紀の今なお体得した人物はいないのですよ
この運動の結果、多くの漫画本が山積みされてキャンプファイヤーの如く焼き払われました(本当に焚書をやったらしいのです)。多くの漫画家が食べて行けず歴史の影に消えていきました。中にはその運動さえなければ後に名を残した作者もいたのではないかと想像するとなんとも悔しい思いがします。そのくせ、運動をやっている人に「その本のどこがいけないか具体的に教えてください」とインタビューすると「読んだことがないからわからない」と平然と答えたというのですから呆れちゃいます。
昭和の悪書追放運動から漫画を救ったのは子どもたちでした。いくら、読んではだめと漫画を取り上げられても友達から借りて回し読みしちゃいます。逆に親から「ためになるから読みなさい」と与えられた本には見向きもしません。それが気になったお父さんが件の漫画本を読んでみると「結構、読ませるじゃないか」と感心したりします。やがて、漫画を読みたいという気運は小手先のPTAの思惑を駆逐し、昭和30年代後半から40年代の漫画雑誌爛熟期へと移行していったのでした。

読む本は他者によって規制されるべきではないと僕は思います。その本を読むべきかどうか取捨選択するのは自分自身だけです。ましてや一部の人間の浅薄な公序良俗思想で本が焼かれたり、作家が迫害される時代など来るべきではありません。

いろいろ咲きて世は楽し

心に響くから多くの人の共感を生む。つまらないから読まれない。読書はかくあるべきと僕は切に願います。

恐怖の一眼国

小説のネタ帳にこんな手控えがあります。
朝、家を出て駅に向かう道すがら、前を数人の男性が歩いている。いつもと変わらない風景。けど、前を歩いているのがこうだったらどうだろう?
歩いているのが全てOL:結構、違和感がある。れれれ? 家を出る時間を間違えたかなとか。
歩いているのが全て外人:これもかなり引く。道を聞かれたらどうしよう。
歩いているのが全て幼児:遠足でもあるのか? 引率の先生はどこだ?
歩いているのが全てお相撲さん:これは圧迫感と恐怖を感じる。
歩いている女性が全て同じワンピース姿:で、色違いとか。
これは発想力を鍛える課題で、時々思い出したようにシチュエーションを書き足しています。違和感の根源は非日常、いつもと違う景色であるということ。普段はサラリーマン風のおじさんが駅に向かっているのが当たり前でそれに女性がちらほら。ところがおじさんが全く歩いていないというところがミソです。
で、この光景に恐怖を覚えてしまう根源は何かというと「全て○○」であること。○○は自分と違う属性を持つ何かで、外人だったり幼児だったりするわけです。

世界中、もしかして自分以外は全て○○になっちまったんじゃないか?

この想像に恐怖を覚えるわけですね。
落語のネタに一眼国というのがあります。目が1つの男が捕まって見世物小屋に出される話。その男から彼の故郷では誰もが目を1つしか持っていないという話を聞いた男が一山当てようとその彼の故郷に向かいます。そこで、1つ目人間を捕まえてこっちの見世物小屋にかけようって考えたんですね。ところが、その国に入った途端、彼のほうが捕まってしまいます。「おい、二つ目の男がいるぞ。珍しいじゃないか、見世物小屋にかけようぜ」と騒がれるわけです。
なかなかブラックなオチの噺ですが、このネタの肝は「常識は案外、多数決で覆される」ということです。自分が勝手に「目は2つあるのが当たり前」と思い込んでいるのは自分の身の回りに一つ目の人間がいないからなだけ。周りが一つ目だらけになった途端、その常識は非常識になってしまうのです。

一眼国はもちろん創作された物語ですが、似た体験は現実世界でもできます。例えば、道を歩いていて遠足に向かう園児の集団に紛れてしまった場合、駅のホームで小学生の遠足とカチ遭った場合、身の置き所がなくてなんだかむずむずします。
僕も娘(女子高生)の学園祭に出かけたことがありますが、見た目は華やかだけど身の置き所がないものです。この集団の中で自分が異分子だと無言で指し示されてる気になるんですよね。

プロに挑む覚悟

知人(=男性)のお嬢さんが声優になりたいと言ってるんだが、という相談を受けたことがあります。
彼は休日には競馬かパチンコあるいは麻雀かゴルフと言った典型的なおっさんで、アニメの世界のことなんてよくわからないけどどうよ? と言ったノリの相談でした。
で、こういう相談に対して受けた僕の方が独断で結論を与えるのは無責任だと思いますので、判断材料を与えることにしました。
まず、ポジティブに考えれば夢を追うことは彼女にとって必ずプラスになる経験だと思うと伝えました。彼女はまだ十代。なら、何年か夢に傾注したって悪くない。夢が叶うにしろ叶わなかったにしろ、得た経験はその後の人生の大きな糧になると。
次にネガティブな意見として声優になれることは万に一つもないと伝えました。いくら深夜アニメが隆盛を極める産業で1クール(3ヶ月)に作られるコンテンツが数十はあると言われるご時世でも声優や声優予備軍は数万人とも言われます。1コンテンツの登場人物が平均十人前後と見積もっても椅子はたったの数百。百人以上で一つの椅子を奪い合う椅子取りゲームなのだと。しかもその業界には実力が新人とはかけ離れたベテランもいて売れっ子の彼らがメインキャストをほぼ独占しているのが現実なのだと。
彼女に直接アドバイスする機会があればこんな例え話をするんじゃないかなと思います。

「君がベストと思える声優を一人挙げなさい。そして、その声優の当たり役を挙げなさい。その役をその声優と競って勝てるのなら、君は声優になれると思う」

例が古くて恐縮ですが、例えば能登麻美子とオーディションで競って、閻魔あいや黒沼爽子の役を奪い取れるか? という話です。いやいやいや、それはいきなりハードルが高すぎでしょ。と言われるかもしれません。けれど、現実のオーディションの現場ではそれが日常茶飯事なのです。新人声優や声優の卵は何十回とオーディションを受けて全部落ちてやがて声優になることを諦めていくというのがほとんどというのが現実なのです。
芸事の世界は一歩足を踏み入れた瞬間からプロに挑み続けなければならない過酷な場所です。運良く芽が出てそれなりに売れ始めると周りから足を引っ張られます。いくつになっても自分に挑んでくる後続と芸を競い続けなければならない業を背負います。足を踏み入れることはできても脱落せずに居続けるのは非常に困難な世界なのです。

それでもやってみたいというならば、僕は彼女にガンバレとエールを送ります。声優は声を使って人の心を想いを届ける仕事。たとえ、いつか挫折する日が来るとしても、そこで覚えたプレゼンテーションの技術は現実社会もきっと役に立つと思うんですよね。そして何より、そこで泣いたり笑ったりした経験は人生の宝物になると思うからです。

プロの不在

近頃、うそ寒いニュースを散見します。
曰く、ヘリコプターから700kgの機材が落下した。工事現場で資材が落ちただの、人が落ちただの。大惨事には至っていなくても亡くなった人もいて痛ましい限り。これって大きな事故の予兆なんじゃないかな。
 労働災害の祖父と呼ばれるハインリッヒが提唱した法則によると「重大事故の陰に29倍の軽度事故と、300倍のニアミスが存在する」のだそうです。いわゆるヒヤリハットの法則ですね。今、起きている軽度の事故(ヘリからの貨物落下は軽度じゃないかもだけど)に何ら対策を取らなければいずれ大勢が死傷する事故が起きると思うのです。
 この国が高度成長期より培ってきた産業文化の中で特に誇っていいのは事故発生率の少なさだと思います。どこの工場に行っても「安全第一」という文字がでかでかと掲げられ、無事故を何日持続しているかが掲示されています。その数字が一つ積み上がるには一人一人が細心の注意を払って安全に配慮し、不安全な行動を取らないようにする必要があります。誰か一人でも迂闊な行動を取ればその数字は一気にゼロに戻ってしまう。そうさせてたまるかという気概があったと思うのです。そういう意味で、この国を豊かにしてきた先輩たちは間違いなくプロでした。
 事故のニュースを見る度に、ここへ来て、その先輩たちの安全を守る意識が十分に後輩に伝授されなくなってきてるのじゃないかな。現場にプロが不在で、右も左も分からない新米が迂闊な行動を取っても叱る人がいなくなってるんじゃないかなと心配になります。
 僕の仕事はシステムエンジニアです。入社したての頃に先輩から「失敗を恐れるな、だが失敗は許されない」と言われたことがあります。当たり前ですよね。ちょっとしたミスでも大量の個人情報が漏洩する事故に繋がったりします。それによって、その被害に遭った方は命を落とすよりひどい目に──残りの人生が大きく歪んでしまうような目に遭うことだってあるのです。だから、本番環境の作業をするときはチェックリストを作って、それを何人もでレビューして、作業をするときは二人以上で1ステップずつ声を出して確認しながら行います。けど、僕もあと数年でリタイア。今から十年後、二十年後に僕の後輩たちが同じことをやってくれているか近頃とみに不安になってきています。万一、たった一人でも「こんな煩雑な手順を踏むのは面倒だ」と手を抜いたらダムはその小さな穴から決壊します。
 事故のニュースを見る度に、後輩たちが「これをやるのは当たり前。なぜなら僕はプロなのだから」と思ってくれるよう厳しくしつけるのが今の僕の使命じゃないかなと思う次第です。

義務を果たす義務

ネットのニュースで「仕事は週2日 年収100万 20代での隠居」といった記事を見かけました。その人は東京の郊外に住んでいて月数万程度の収入で悠々と暮らしていると紹介されています。そのための衣食住はこんな感じ。
衣:着回しの利く服を数着、どこででも売ってるものを持ちそれ以上は購入しない。
食:三食自炊。郊外に住んでいるので道に生えている野草も豊富。材料も非常に安くついているらしい。
住:東京郊外で学生も多く住んでいるエリア、しかも駅徒歩20分で家賃は2万5千円
二十代前半はシャカリキにアルバイトをしてもしても、その大半が家賃や食費に消えていく日々。それが空しくて生活に要らないもの(携帯電話や家電製品など)を削っていきこの生活に至ったとのこと。記事は比較的好意的で誰にでも真似できる暮らしではないけれど、できればかくありたいと言わんばかりの持ち上げようでした。

読み終えて僕が感じたことはただ一つ。「この人は利己主義者だ」ということ。
誰だってしんどいのはいやです。週に2日程度働いてあとは全て自由時間、ぶらぶらして暮らせるならそれは楽ちんでしょう。けどね、ちょっと考えて下さい。貴方だって道路を歩くでしょ、水道の蛇口をひねるでしょ、ちゃんとした家に住んで、電気のある暮らしをしているじゃないですか。それなのに、貴方は社会に対して何も返せていない。
道路も水道も住民が税金を出し合って整備しているのです。ところが年収100万に満たない貴方は所得税を払うこともなくそのファシリティを利用している。道路にしろ、水道にしろ工事作業の方が暑い中、寒い夜、一所懸命に働いて整備しているのです。誰かがそれをやってくれているからそれ以外の人も道路や水道を利用できるのです。けど、それ以外の人だって電車を運転したり、交番に詰めたり、スーパーで物を売ったり、工場で物を作ったりなにがしか社会に貢献しているのです。
この社会は相見互いで成り立っています。社会に溢れる便利なファシリティや仕組みを享受する代わりに何か別のことで社会に貢献しています。そのために人は人生の多くの時間を費やさなければなりません。愚痴をこぼしたくなることだってたくさんあるでしょう。でも、多くの人はそれを呑み込んで寡黙に働いています。
けれど、貴方は税も払っていない。社会に貢献するために自分の時間を費やしてもいない。ただひたすら、自分を可愛がって生きているだけです。
はっきり言えば、この社会に貴方の存在は不要です。そして、道路も橋も水道も電気も貴方に使う権利はありません。貴方がその暮らしを続けたいのであれば、即刻道路も水道もお店も何もない孤島か山奥で原始生活をおくるのが妥当だと僕は考えます。
貴方は別に法を犯していないと主張するかもしれません。確かに刑法も民法も貴方の暮らしに異を唱えることはないでしょう。けれど、貴方は最も根源的な法を犯しています。

日本国憲法では国民に三つの義務を課しています。
第二十六条 その保護する子女に教育を受けさせる義務(この義務教育は無償とする)。
第二十七条 勤労の権利を有し、義務を負ふ。
第三十条  納税の義務。
ご存知ないかもしれないけれど憲法は国民の基本的人権を保障する代わりに三つのことを義務付けているのです。けれど、貴方はどの義務も十分に果たしていない。それが、この社会に貴方は不要であるという根拠であり、利己主義者だという所以です。

記事を読んでいて、こんな暮らしが蔓延したら国が立ちいかなくなるなと思い警鐘を鳴らしたくてこの記事を書きました。それ以前に平然とこんな暮らしをして何の疑問も感じていない貴方に立腹したのでペンを執りました。
人は社会に守られて生きていく限り、社会に貢献するために働く義務があるのですよ。

夏日

台風五号がすごいらしい。明後日くらいには関東の方にもやって来るのかな。
とまれ、今日はからりと晴れた夏日です。その分、じっと座ってるだけで汗がじわっと出るわ出るわ(顔文字の意味が違うぞ)
大半の人はここで、「エアコン、スイッチオン」となるのでしょうけど、僕は結構この状況が好きなのです。ときたま吹く風の心地よいこと。エアコンをかけちゃったらそれは味わえないよなぁ。
昨日、今夏初めてのスイカを戴きました。食べながらしみじみ思ったのですが、このスイカだってエアコンを利かせた部屋で食べたらこんなには美味しくないだろうなぁということ。
夏は暑いものと割り切って多くの人がエアコンのスイッチを切れば随分と街は涼しくなる気はするんですけどね。ただ、特にご年配の方は熱中症など怖いですから無理はなさらずといったところかな。

群れるのが嫌い

女はすぐ群れる
というのは昔からよく聞きます。けど、電車に乗ったり、街を歩いているとホントにそうかな? と思う時があります。数人で騒がしくしながら歩いたり、たむろったりする男子をよく見かける気がするのです。部活動らしき集団はまあ仕方ないとして私服姿の同性が群れてるのを見ると「楽しいのかしらん」と他人事ながら気になったりします。僕なら女子とデートでもしてる方が楽しいけどな。
群れるのは学生ばかりではありません。スーツ姿のサラリーマンが数人、電車の中で円陣を組むように立っていてわやわや話しているのを見ると「この人たち一人で客先に行くこともできないのかしらん」と他人事ながら心配になります。明らかに仕事をリタイアして久しいようなご年配のお爺ちゃんが3人くらいで少しきこしめした様子で電車に乗り込んできてわやわやとしゃべっているのを見ると(また、押しなべて声がでかいんだ、これが)、「この人たちプライベートでじいさんどうしでつるんで嬉しいのかしらん」とかまたまたいらんことを考えてしまいます。僕なら品の良い年配のご婦人と(以下略)

自分が男性なので同性を見る視線が厳しくなることは自覚しているのですが、群れる男性を見ると「ひとりでは何もできないの?」とどうしても冷めた目で見てしまいます。それだけでなく、むさくるしいとか暑苦しいとかいらんことも感じてしまいます。女性が二、三人で笑いながら話しているのを見るとほほえましいなぁとほっこりするくせにね
でも、そんな風に見てしまう理由は僕の性別だけに原因があるわけではありません。自覚はありますが僕自身群れるのが嫌いなのです。仕事でも上司部下の関係でチームを形成するのは苦になりませんが、同列にならんで和気あいあいとした現場なんてのがあるとしたら想像するだけで背筋がぞっとします。それって、絶対できるやつに寄りかかったり、サボったりするやつが出てくる。都合のいい時だけ「助け合い」という言葉でお茶を濁す。そんなことを考えちゃうんですよね。でも、現実は助けられてるやつはずっと助けられっぱなしの方が多いです。
一万歩譲って仕事は仕事だから仕方ないと割り切ったとしましょう。なんでプライベートでまで男とつるまないといけないのか? 正直理解不能です。どう考えたって嫁か娘とデートしている方がずっと楽しいと思うんだけどな。一人なら他人の都合に合わせる必要もないし行きたいところに行ってしたいことができます。もちろん、一人ではできないことやできたとしてもハードルが高いことがあるのは理解しています。たとえば、週末に野球やサッカーをやりたいと思ったら人が集まらないと無理ですよね。けど、僕はスポーツ全般やりませんし、そもそも体育会系の群れるの大好きみたいな感覚についていけないところがあります。そんなところに放り込まれたら試合を始める前から早く帰りたいって思っちゃうだろうな──あ、群れるのが嫌いな理由がちょっと分かった気がする。
酒を呑むにしても群れなきゃ呑みに行けないという心理が僕には理解できません。酒は一人で呑めますし、複数で呑みに行くにしても会話を楽しむなら3~4人程度までというのが僕の感覚です。数人以上で群れて呑みに行くのは僕から見ると単に騒ぎたいだけで酒を楽しみたいように見えないのです。

人は一人では生きてはいけません。それは真理であり事実です。けれど、誰かにあるいは群れに依存しないと生きていけないような人にはなりたくないと言ったら毒を吐いていると思われたりするでしょうか?
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Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
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