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テンペスト

なんでも2週連続で台風がやってきているらしく夜来の雨。今は朝の6時ですが、これから夜にかけてますます風雨が苛烈になっていくようです。なんか今年はお盆休みも連日の雨、紅葉が楽しめる時期にも最大級の台風が来たりしてまるで誰かが意地悪でお休みを台無しにしてるような天気が続いています。そんなことを考えているとシェークスピアのテンペストというお芝居を思い出しました(日本では「あらし」とも訳される作品です)。
彼の最後の作品と言われるこの物語を僕が読んだのは小学校5年の頃。戯曲としてではなくシェークスピア物語で読みました。シェークスピア物語とはイギリスのラム姉弟によるシェークスピア作品を小説化したものでシェークスピアの時代からおよそ100年後に出版されました。精神疾患のあった姉のメアリー・ラムが喜劇を担当し(悲劇を読ませると台本通りに人死がでそうでやばかったらしい。実際彼女は発狂して実母を殺してます)、弟のチャールズ・ラムが悲劇を担当。テンペストは喜劇なのでメアリー・ラムが書いています。
けど、喜劇とは言え暴風雨による船の遭難から始まって十数年前に孤島送りにされたことへの復讐を企てたり(暴風雨も魔法を使った復讐の一環です)、自らの野望を叶えるために王の暗殺を教唆したり、恐ろしい怪獣が出てきたりする話なのにメアリーの精神は大丈夫だったのかな?
数あるシェークスピア作品の中でも大掛かりな舞台装置が欲しくなる本作は何度も映画化された一大スペクタクルなのですが、彼があと300年くらい後に生まれてたら自らメガホンを取ったかもしれないな、なんて想像をたくましくしちゃいます。シェークスピア監督による映画ってどんな感じだろ。

随分、空が明るくなってまいりました。テンペストもラストでは野望はことごとく潰え、復讐も放棄されて、その復讐の申し子だった若い男女が結ばれる大団円にたどり着きます。今日はきっと一日、雨も風も荒れ狂うのでしょう。けど、明日は台風一過、秋晴れの良い天気を迎えられるはず。それを楽しみにしながら今日の一日を始めましょう。
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情の時代の終焉

2017年秋アニメで一番お気に入りな作品は「infinity-force」です。タツノコプロ55周年記念の作品とのことで、懐かしのヒーローたちがまさかの共闘。科学忍者隊ガッチャマン、破裏拳ポリマー、宇宙の騎士テッカマン、新造人間キャシャーンが画面狭しと大活躍するという昭和の少年世代には嬉しい内容。全編3D CGで構成されているのも21世紀のヒーローっぽくて良い良い。
彼らはCASEと呼ばれる謎のアイテムの力で元いた世界からこちらの世界に転移してきたという設定で要は今戦っているこの世界は昭和の彼らの世界とは別物だよというお約束になっています。
ヒーローたちのキャラクターはオリジナルをそのまま引き継いでいなくて再設定されているところも新鮮。ポリマーは二枚目半の陽気なお兄ちゃん(これはオリジナルに近いか)、テッカマンは落ち着き払った青年(オリジナルは猪突猛進型でした)、キャシャーンはナイーブな少年、そしてガッチャマン、ケンの役どころは『昭和の頑固おやじ』。24歳の設定にも関わらず、みんなから「おっさん」呼ばわりされてイジられるのが笑いを誘います。
「女なら料理の一つくらい作れるだろう」と言ってはヒロインを呆れさせ、「こういうのは女の仕事だろうが」と言っては「また、差別発言。訴えられたら負けるよ」と冷たい視線を向けられる。それ以外でも「スパゲティはいつからパスタなんて呼ばれるようになったんだ」と驚いたり、「おい、火をつけるつまみがないぞ」と言ってIHヒーターに載ってる鍋をつかもうとしてヤケドしそうになったりします。これらのくすぐりのツボって、昭和の頃には当たり前だったことが今では通用しなくなっていて観客(視聴者)はみんなそれが分かっているのに昭和から転移してきたガッチャマンだけがわかっていないというところにあるんですよね。
毎回笑いながら観ているのですがふと冷静になると寂しいものを感じます。振り返ると日常の中にもいつの間にか常識にかからなくなってしまったことってあるよなぁと気付くから。
僕が子供の頃のCMソングで「ニッセイのおばちゃん、自転車で笑顔を運ぶふるさとよ」なんてのがありました。あの頃は保険のおばちゃんが家々を回って勧誘できてたんですね。あるいは昼休みに職場にやってきて新入社員を総ざらいするなんて光景も当たり前でした。売られている商品は今考えるとあまり良いものではなくご主人が右肩上がりに給料が上がることを前提に先々で掛け金が高くなっていくタイプが多かった。なので、掛け金がぐっと抑えられて保証も充実した外資系の保険が入ってくると勝てなくなっちゃった。
僕が子供の頃は名前の通りの「ドブ板選挙」って感じに活動する政治家がいました。一軒、一軒家を訪ねてお願いして回ってそれで無名のおじさんが当選したりしていた。今、そういう人情に訴えるような戦略を取っても大半は門前払いされるのがオチな気がします。マンションなんてそれ以前にオートロックで中にすら入れないし。
良くも悪くも昭和の頃はビジネスの世界で「情に訴える」という要素がありました。損得勘定だけでなく人情を大切にするという風土が暗黙のうち培われていました。今は情で動いたらコンプライアンスに反すると言われるでしょうね。ビジネスチャンスは公平になったかもしれませんが(実は寡占が却って進んでいる気がしてしょうがないのですが)、少し味気ない時代になったな──ガッチャマンの熱いおっさんぶりを笑いながらそんなことを感じています。

さあ太陽を呼んでこい

今もやっているのかどうか知りませんが、僕が小学校の頃は年に一度、クラス別に合唱や合奏を全校に披露する会がありました。中学校に上がるとクラス対抗の合唱コンクールになってましたね。
で、選曲の手間を省く意図なのか、あるいは指導内容を教員で共有できるからか演奏する曲が2択くらいで決まっていて、小学校5年の時の課題曲は「冬の行進」と「さあ太陽を呼んでこい」の2択でした(2択と言っても最初からクラスに曲が割り振られていて生徒に選択権はなかったんですけどね)。
うちのクラスは「冬の行進」で、僕は「さあ太陽を呼んでこい」の方が良かったのにとずっと思っていました。理由は簡単、「冬の行進」は途中で僕の苦手な口笛が入るからです 吹けない僕は口パクならぬ……なんていうんだろう ……でした。ま、もう一つ理由を挙げると「さあ太陽を呼んでこい」という楽曲の歌詞もメロディも豪快ですっごく格好良かったからなんですよね。

ふと、思い立って「さあ太陽を呼んでこい」のプロフィールを調べてみました。
リリース:1963年12月 NHKみんなのうたで紹介。僕が生まれる半年前ですね。ちなみに、この1ヶ月前にはケネディ大統領が暗殺されるという歴史的事件が起きたりしてます。
作詞:石原慎太郎。うーん、安直。小説、「太陽の季節」(1955年)を書き、太陽族という言葉を流行させた方ですが、太陽といえば慎太郎だろうという発想は……安直。余談ですが、若くして亡くなったことを惜しまれる方は大勢いらっしゃいますが、忌憚なく言わせてもらうと彼はその逆。若くして亡くならなかったことが惜しい人だと思っています。あと二十年早くに亡くなっていれば著名な作家として長く人の記憶に留まったでしょうに。都知事のぐだぐだは戴けなかった。
作曲:山本直純。うーん、安直。「大きいことはいいことだ~」というCMソングで名を馳せた作曲家、指揮者ですが、豪快な曲といえば山本直純という発想は……安直。余談ですが、ずっと後に「大阪で1万人で第九を歌うイベントをやろう」という企画が持ち上がった時、いの一番に指揮者として名前が挙がったのはやはり彼だったそうです(関西なので朝比奈さんの名前も挙がったのですが、「このイベントはお祭り要素も濃い」という意見があり朝比奈さん向けじゃないってなったらしい)。「大きいことはいいことだ」……うーん、安直。結局、彼は初演から第16回まで指揮者を務めすっかり第九の顔になりました。1990年代には何度か僕もバスのパートで歌って彼の飛び跳ねるような指揮を拝見しました。

今年の関東はお盆の頃に連日の雨、かと思えば行楽シーズンの秋に桁外れの台風。そしてまた、今週末も2連続で台風がやってくるという予報。とにかく、太陽が恋しい日々を送っています。なので、今日のように朝から晴れの予報の日は気持ちが浮き立ちます。

暁の空、明けの空 もうじき若い日が昇る

さあ、線路の向こうのマンションの影が濃くなり。空が明るくなり始めました。新しい夜明けです。

二次創作

アニメ制作でずっと不思議だったことがあるのですが、原作のないアニメのストーリーって誰が考えているんだろうということです。原作付きの場合はそもそも既刊の小説や漫画があり、それにそってアニメ制作が進むわけですが、それがない場合、小説家(または漫画家)がいないのになんで物語が作れるんだろうと。
で、調べてみました。答えは監督、プロデューサー、脚本家が寄ってたかって作るということみたいです。中でもそのアニメの企画を立ち上げた人がコンセプトを決める権限を持つみたいで企画者が監督なら最終判断は監督が、企画者が脚本家なら脚本家が「これでよし」というみたいです。ただ、ややこしいのは制作者がよしと思ってもスポンサーがNO!という場合があるらしく、例えば玩具メーカーがスポンサーに付いた場合、「主人公が大人? おもちゃを買ってくれる子供たちが観ないじゃないか。主人公は少年にしなさい」とか、プラモを買ってほしい場合は「戦闘機じゃなくてロボット物にしようよ。それも次から次に新しいロボが出てくるようなやつ」なんてことを言い出すらしいんですよね。そうやってガンダムは作られたらしいです。原作がある場合はスポンサーが口を出してきても「いやいや、それはあまりに原作からかけ離れているから」と反論のしようもあるのでしょうが、元々物語のないところから始めているので「このアニメはこういう話なんです」と言いようがない。ひどい場合は企画はすごく良かったのに大人の事情で変なアニメになっちゃったってのもあったんじゃないかな。
アニメの面白いところはそうやって、ストーリーが決まっても監督やプロデューサー、脚本家が絵を描くわけではないというところです。原画や動画はアニメーターが脚本や絵コンテを読んで頭のなかで絵面や登場人物の表情を咀嚼して描きます。いわゆる二次創作というやつですね。また、登場人物の演技の要となる「声」は声優が演じるわけで彼らも脚本を咀嚼して演じ方を決めます。こうやってみるとアニメーション作品っていろいろな人の作品に対する解釈が合わさってできているんだなぁと思います。で、人によって場面場面の情景や演技の解釈は異なるのが普通ですから対立が起きることだってあります。それを高いところから俯瞰して一本のストーリーにまとめ上げるのが監督のお仕事。つくづく大変だなぁ。人によってはそこだけは絶対譲れないと侃々諤々の議論になることもしょっちゅうじゃないですかね。
アニメってこんな風に多くの人の二次創作の重ね合わせでできるわけですから、当然、最初の企画とは似ても似つかない設定や場面ができあがって「なんでこうなった」と言いたくなることもあるでしょう。庵野秀明監督がかつて嘆いたことがあるそうです。
「ジブリのアニメーションは宮崎監督の絵コンテ(アニメの設計図)がとにかくできが良い。なのに、それを元にアニメーターが描き、声優が演じるとその何分の一も再現されない。勿体無いことこの上ない」
観客である我々が劇場で観ることができるのは完成品だけですから、その元になった「できの良い絵コンテ」の方がすっごく気になります(観てみたいな)。

小説を書く作業というのは一から十まで一人で行う作業です(エラリー・クイーンみたいに二人で書いているケースもありますが)。なので、大勢がああでもない、こうでもないと議論しながら物語を構築していく現場というのはちょっと想像しづらい一面があります。「あそこはもっとこうしたかった」、「この場面はボツにしたくなかった」そんな怨嗟が完成品の陰にうず高く積もっていそう。僕は「みんなで決める」とか「集団行動」とかいうのがすっごく苦手なのでとても務まらない現場だろうなと思ってしまいます。

シェフの料理、主婦の料理

野球の試合が終盤に差し掛かってピッチャーが疲れてくるとアマのピッチャーは配球が散ってストライクが入りにくくなる。プロのピッチャーは配球が真ん中に集まって打たれ易くなる、と聞いたことがあります。どちらも集中力が落ちてきて思うような配球ができなくなって起きる現象なのですが結果が真逆というのが面白いですね。
似たような言葉でプロのシェフは100皿作っても同じ味に作る。家庭の主婦は都度味が変わる、と知人に聞いたことがあります。字面だけ読み取ると、ピッチャーの話と似ているようにも見えますが実は似て非なる話です。なぜなら、シェフも主婦も意図して(狙って)そうしているから。
シェフは不特定多数の客に料理を提供するのが仕事です。客によって味の嗜好は異なりますが、一日に何百皿も作るシェフにとって一人一人の嗜好に合わせた料理を作ることは不可能です。なので、より多くの客の嗜好の琴線に触れる料理を探求し無骨にその味を再現し続けるのが彼の仕事なのです。
対して主婦は特定の人物(=家族)に日々料理を提供します。家族の嗜好を熟知し、その上で体調やその日の予定を勘案して料理の味を変えていきます。「今日はお兄ちゃんは部活の特別練習があって汗をかくだろうから」と塩分を少し濃くしたり、「お姉ちゃんは病み上がりだから」と煮物をいつもより柔らかくしたり、ベテランの主婦は無意識のうちに同じ料理でも状況に応じて味や仕上がりを変えていくものだそうなのです(今日日の主婦でもホントそうなのかなという気もしますが)。
その上でシェフは客が食べている様子をチェックし、返ってきた皿に残り物がないかチェックして更に多くの人に愛される味を追求していきます。主婦は食卓で家族の反応を見てより彼らが喜ぶ、そして彼らの体に良い料理を探求していくのです。
僕が想い描く理想の料理屋はその中間に当たります。こじんまりとした店構え、常連であふれる店内、そして常連の嗜好を熟知した店主。店主は客一人一人の好みに合わせて料理にひと手間かけて出す。そんな料理店があったら素敵だなと思います。

ビストロの実力

誰かのエッセイで「フランスに料理の修行に行くなら三星レストランではなく、ビストロで修行すべき」という記事を読んだことがあります。一般にフレンチのレストランは厳格な分業制が敷かれていて例えばプロンジュールと呼ばれる役職は皿洗いの専門職です。もちろん、プロとして食器を洗う高い技術(短時間で美しく食器を洗う)は身につきますが料理をすることは一切ありません。新人ならさしづめアプランティ(研修生)と呼ばれてせいぜい野菜の皮剥きなどを任される可能性が高い。下手をすると3年修行をして皮剥き以外に何もしなかったなんてこともあり得るというのです。
その点、小さなビストロは元々人手が足りていないので皮剥きから調理、下手をすると給仕まで(もちろん皿洗いも)オールラウンドで経験することになり結果スキルアップに繋がり易いというのです。もちろん、ビストロで修行するデメリットもあって、習得できる料理スキルはその店のシェフの技量が上限。更に洗練された技術の習得は望むべくもないという一面もあります。ただ、目的が「パリで一番の店を構える」といったものではなく「料理人として食っていく」というものであればそのデメリットはあまり重視しなくても良いかもしれませんね。
話は変わりますが、僕の職場は元々、大阪の一拠点に事務所を構えるものでした。うちを含めてそういった拠点は北海道、東京、神戸、岡山、広島などなどにあって親会社が統括していたのですが、会社として独立していたので基本的に社員同士の交流は皆無だったんですね。それが2000年を過ぎた頃から合併が進み、今では1万2千人を擁する全国区の巨大なIT企業になっちゃいました。当然、他の拠点の社員だった人たちとの交流も生じるのですがたまに目を剥くくらい何もできない社員がいたりします。ホント、今までどうやって仕事してきたんだろうと不思議になるくらい。いわゆる、大企業病というやつなんですかね。一定数、そういった社員がいることを前提として運営していくしかないんだろうなと今は腹を括っています。けど、腹は括っても時にはため息がでそうになることもあります そんな時、冒頭で紹介したビストロの話を思い出すのです。SEも同じこと。経験しなければスキルは身につかない。自分がやらなくても誰かがやってくれる、そんな大プロジェクトの中で身を低くして、椅子を温めるだけの仕事をしているとこういった社員になってしまうのかも。自分がやらなきゃ誰もやらない、自分が逃げたら客に料理を届けられない、そんな緊張感の中で仕事をしてこそスキルは身についていくのかも。部下を新しいプロジェクトに参画させる時はこのプロジェクトで何を身に着けてほしいか、どんなスキルを伸ばしてほしいかそんなことを気にかけながら采配するようにしています。

3%の威力

うちから自転車で10分そこそこのところにあるスーパーは特売を滅多にやりません。その代わり、全品他店より少し安めですよっていうのがポリシーみたい。スーパーに行くとよく「広告の品」なんてシールが貼られた商品があって、「おおっ」て思うくらい安い値段だったりしますよね。あれは一種の釣り餌なのです。それを目当てに店に来た人がついでにあれもこれも買って行ってくれるのを狙ってるんですよね。なので、その分他の商品はより希望小売価格に近くトータルの買い物額は案外安くならなかったりします。なので、広告の品を狙う時、僕はその一点のみ購入してそそくさと店を出るというのをよくやっちゃうんですけどね(せこいなぁ)。
で、くだんのスーパーは100円の入会金で会員になることができて、買い物する際に会員証を提示すると食料品が全品3%引きになる特典があります。10%引きや20%引き、果ては半額なんてシールを見慣れた方からすると3%ってびみょーと思われるかもしれませんがこれがなかなか侮れないのですよ。だって、そこで買い物している限り消費税5%で生活していることになるのですから
僕はざっと一ヶ月2万円くらいの食費で生活をしています。それが3%オフになるということは約600円浮くという計算。1年で7200円浮きますから。この生活をしていれば1年に1回はちょっと豪華な夕飯を外食できるくらいの余裕ができるのです。
それにね、ここのスーパーは全商品の値段を等し並に押し下げてくれているのでホントお得なものが多いのです。例えば500mlのペットボトルジュースが平気で68円なんかで売られています。それもキリンレモンや三ツ矢サイダー、カルピスなどメジャーどころが。バイヤーさんの腕が良いんでしょうね。例えば、職場の売店だと同じジュース類はコンビニ価格でだいたい130円はするので、大方倍近い差が出ちゃいます。
僕は1日1本、こういった清涼飲料水を飲む習慣があるので週末に5本(=出勤日の本数)をここでまとめ買いします。するとね、こういう計算ができるのです。職場の売店で買う場合に比べて1本あたり約62円浮くことになる。ということは1週間で310円、1ヶ月で1240円浮く。つまり1年ではなんと1万4千880円浮くのです。会員特典の3%引きと合わせるとこのスーパーを贔屓にしている限り実に2万2千80円も浮いちゃうという現実。素晴らしいですね。
人は倹約する時、すぐ我慢することを考えます。「コーヒー飲みたいけど今月はピンチだから我慢我慢」だとか「あ、これ美味しそう。けど、ちょっと高いな。こっちの定食にしとこうか」だとか。けどね、このやり方なら毎日ジュースを1本飲むという生活を我慢することなく、年に2回くらいフレンチのコースを優雅に楽しめちゃうのです。
たかが3%、たかが数十円と思うなかれ。毎週の出費を判で押したようにほんの少し少なくする工夫ができれば積もり積もってすごい額になります。倹約ってのはこんな風に我慢していると自覚しないやり方をする方が長続きするんじゃないかな。

ランニングコストの重要性

一昔前なら新しい家電製品を買おうと考えると、まずは電気屋さんに行ってカタログを集めてきたものです。で、複数のメーカーの製品仕様を突き合わせてあーでもない、こーでもないと悩んだりしました。その上でまたまた電気屋さんに行って店員さんにいろいろ聴きながら的を絞って、値切り交渉してお財布を開くといった流れでした。ただ、カタログは製品のウィークポイントは書いてくれていませんし、店員さんもハズレな人に当たると自分の売りたい商品ばかりプッシュされたりしてなかなか正確な情報が掴めませんでした。
その点、今はネットに情報が氾濫していて、その情報を上手に掬い取れば電気屋さんに行く前にけっこう良い戦略を立てることもできます。ただ、掬い取るには情報が多すぎるのが難。どの情報を重視してどの情報を捨てるのかがわかっているのといないのでお買い物戦略に雲泥の差がでちゃいます。
僕はわりと調理家電を買うことが多いのですがその時、重視するポイントを2つ決めています。一つは掃除のしやすさ。調理家電というのはテレビやパソコンと違って、食材と接触するという特性があるため汚れは付き物です。その汚れを落とすのにどんな工夫がなされているか? 例えば今のオーブンは加熱した蒸気を庫内に吹き付けて脂を浮かせてくれる楽々お掃除機能が付いています。熱いうちに雑巾でふきとるとかなり綺麗に落ちるので気に入ってます。あと、次に冷蔵庫を買い換える時は奥の方まで楽に拭き掃除できるよう設計されているものが良いなとか考えています。
で、もう一つのポイントは消費電力、電化製品の燃費ですね。買い物をする時って、当然お財布の中身と相談することになるので値札が気になるのは人情です。似た機能の製品なら安い方についつい目が行っちゃいます。けどね、他の家具と違って家電製品は買ってからもお金がかかるということを忘れてはいけないのです。経理の用語では買い物をする際にかかる費用をイニシャルコスト、買ってからそれを維持するためにかかるもろもろの費用をランニングコストと呼びます。例えばイニシャルコストが5万円の製品Aと7万円の製品Bでどっちを買うか迷ったとします。消費電力を見るとAは120ワット、Bは100ワットと書いてあれば同じように使っても月々の電気代はAの方が2割り増しになります。つまりBを買った場合の電気代が月に5千円だとするとAの場合は6千円になるわけで、1年使い続ければ1万2千円の差が出ます。そのまま使い続けると1年8ヶ月でイニシャルコストとランニングコストの合算(その家電に投資したお金の総額)は横並びになり、それ以降はAの方がお金を喰っていくということになるわけです。このランニングコストを見落として値札だけでAを買っちゃうとあとあとお財布に響いてくることがあるので要注意。
逆に例えば同じ製品のラインナップで1ランク上の製品が2万円差だった場合、僕は何が違うのかをつぶさに調べて、その機能はあった方が良いと判断すれば迷わず2万円高いほうを買います。家電は結構長持ちしますので例えば10年使い続けるとすればそのイニシャルコストの差は月々、166円くらいなんですよね(計算式:20000/(12*10))。わかり易い例でいうとパソコンの場合、値段差は内蔵ディスクの容量、CPU、メモリのスペック差(性能差)、USBインターフェースなどの口の数で差をつけて来ます。一見、安い方ので十分な容量、スペックがあるからいいやと思いがちですが、パソコンが扱うアプリは年々重くなる傾向にありますし、データファイルは間違いなくたまり続けていつかディスクを食いつぶします。ましてや、マイクロソフトがまたぞろ新しいOSを出したりした日には安い方のパソコンはついていけなくなるかもしれません。安い方のパソコンは間違いなく先に買い替えを考えたくなる商品なのです。
まとめると、イニシャルコストは欲しい機能を睨んで時には大胆に投資する。ランニングコストは徹底的にケチに徹するというのが、僕の家電お買い物哲学だったりします。

休むこと怠けること

秋アニメ「このはな綺譚」でこんな場面がありました。舞台はあやかしが集う湯治場「此花亭」なのですが、頑張り屋の中居さんが仲居頭に「明日は休みを取りな、お前このところ働き詰めだろ」と言われて反発するのです。「体調も問題なし、普通に働けます」って。
ネットのコメントには社畜だ~なんてコメントが案の定ちらほら飛び交っていましたが、僕は「日本人にとって休む=サボるという考え方はやっぱり根強いんだな」と思っちゃいました。
有給休暇が取りにくいという話はよく聞きますが、一因は上司や同僚が「サボりやがって」という目で見ることにあると思います。海外では夏のバカンスが1ヶ月なんて国があったり、昼休みが2時間なんて国もあると聞きますが、そういう国の人ってお互いにそれがずっと前から当たり前であまり何も思わないんじゃないのかな。取引している会社も「ああ、今はバカンス期間だから仕方がないか」と思ってくれる気がします。浦沢直樹の「マスター・キートン」に誘拐犯のネゴシエイターの話が出てきますが、スコットランドヤードの誘拐専門班のメンバーは事件対応中でも1日に8時間の睡眠を義務付けられていると紹介されていました。日本人の感覚からすると人命がかかっているのに寝るなんて不謹慎なと怒りそうですが、エキスパートの人員は限られていますから、いざという時睡眠不足で十分な働きができないようでは困るという合理的判断なんですよね。
今更な意見な気もしますが、日本人って余暇を過ごすという概念がなく、休む=怠ける=悪という考え方が刷り込まれた民族なのではないでしょうか。そのルーツは明治維新まで9割の国民が農業をやっていて夜が明けたら田んぼに出るのが当たり前の生活習慣だったことにあって、それが未だに伝承されているからではないかと僕は思うのです。DNAに刻まれているといったSFチックな話ではなく(いや、ホントは刻まれてもいるのかもしれませんが)、子は親の背中を見て育つというやつですね。僕の曾祖母は慶応年間の生まれで僕自身、娘がようやく二十歳になろうとしている身です。つまり戦後第2世代の僕らはまだまだ明治や大正生まれの人、場合によっては維新前の人を生で見て育った世代なのです。子供だった僕らは当然彼らの行いを真似、言動を是として大人になったわけで良くも悪くもいろいろ刷り込まれています。僕の娘達も僕や家内の背中を見て育った世代でその人格形成において僕らの言動の影響が皆無ではないでしょう。日本人の中から休む=怠けるという概念が抜け落ち切るにはまだまだ時間がかかるのかなと思います。
若い世代を中心に、「給料より休みがほしい」というムーブメントが起きていると言われて久しいですが、獲得した休みで何をするかというと「家でゆっくりする」という意見が多いのを見ると西欧のバカンスとはまだまだかけ離れている気がします。何も真似をする必要はないのでしょうけど、単に休息を取っているだけで、余暇を過ごす域に達していない気がするんですよね。
前途はまだまだ多難な予感ですが、いつの日か余暇を過ごすことと本当に怠けてることの区別がつく日がこの国に訪れることを切に願います。

リハビリ

一昨日から2クール目の投薬開始、昨日終わりました。
なんかそれなりに負担がかかるみたいで昨夜は38.3度の熱発。お腹は空いていたけど食べるのがめんどくさくて7時半頃には床に就きました。それから5時まで……うーん。寝すぎだろ 10時間近く寝てしまった。
僕は子供の頃から体が弱くて冬になると風邪を引いて寝込むというのは年中行事でした。ラジオのNHK第二の番組にやたら詳しくなったり、天井の木目が動物や植物に見えたり、熱が下がると暇になるのでやたら空想を泳がせる子供だった気がします。小説を書く原点もそんなところにあったのかも。
あれから40年。まさか同じことをやってるとはねぇ。ドクターのお話では週末まで様子を見て問題ないようなら職場復帰して良いよとのことなのですが、そこはかとなく不安。そういえば小学生の時もどうみても風邪は治っているのに「大事を取ってあと1日」とかサボってた気がする。ま、今は社会人ですから、無理はダメだけど問題なければとっと復帰しましょうか。

ウミガメのスープ

2017年秋アニメ『妹さえいればいい。』を視聴。作品内でウミガメのスープというゲームが紹介されていました。
数人で遊ぶゲームで出題者1人と残りは回答者になります。出題者は5W1H(なぜ✕✕か?、誰が✕✕したのか? など)を含む問題を出し、回答者がそれに答えるというもの。回答者は出題者に質問することを許されますが、して良い質問は「はい」、「いいえ」で答えられるもののみ。例題としてウミガメのスープにちなむ問題が使われるからこの名前が付いたらしい。その例題はこんな感じ。
「海の見えるレストランである男がウミガメのスープを注文した。男は一口それを飲むとウエイターを呼んで、「これは本当にウミガメのスープか?」と訊いた。ウエイターは「間違いなくウミガメのスープです」と答えた。男はそのまま立ち上がり店を出ていき、家に帰って自殺した。なぜか?」
これに対して回答者は「自殺の理由はそのスープに関係があるのか」とか「他殺の可能性はないのか」とか訊くわけです。ちなみに、模範解答は以下の通り。
「男はかつて船の事故に遭い仲間とともに無人島に流れ着いた。食料は枯渇し仲間たちは亡くなった仲間の肉を食したが男は固辞しやせ衰えていった。見兼ねた仲間が「これはウミガメのスープだから」と嘘を言って男に人肉のスープを食べさせ男は一命を取り留めた。男はレストランでウミガメのスープを一口食べ、自分がかつて食べたスープがそれでないことを知ってしまった。真相を知った男は自殺した」
かつてNHKのラジオで人気を博した二十の扉(二十個質問をしてお題になっている動物(又は植物、鉱物)を当てるゲーム)にちょっと似ていますね。ただ、ウミガメのスープの方が問題は複雑でその分、質問の数に制限がないのが特徴かな。
で、ふと思ったのです。このゲームで出される問題と正解ってそのまんまショートショートで使えるネタじゃんって。上に紹介したウミガメのスープの問題なんて上手に構成すれば原稿用紙2、3枚のショートショートに仕立てられます。ネットには問題集もあるみたいだし、まんま使うとパクリがバレちゃうけどヒントくらいにはなりそう。ちょっと覗いてみようかな。って、せこいぞ

完成品に腹をくくる

2017年春~夏アニメ。22話構成の「Re:CREATORS」は創作についていろいろ考えさせられる作品でした。
物語の大筋は小説やアニメの登場人物たちが、現実世界に具現化してしまうお話。中世の騎士だったり、スーパーロボットのパイロットだったり、学園モノのキャラクターだったりが入り乱れて登場し、それぞれの作品の創作者をも巻き込んで、やがてはこの世界を崩壊させる一派と守る一派に分かれてバトルを繰り広げます。
具現化した登場人物たちは元の世界で過酷な運命を背負っている者も少なくありません。民衆や友を死なせてしまい、あまつさえ敵方に改造されて変わり果てた姿になった自分の娘を手に掛けた男もいました。彼らはこちら側の世界に来てそんな過酷な運命が「読者」を楽しませるためだけの見世物だったことを知って愕然とします。中には作者と対峙し詰問したり、復讐を遂げようとする者もいました。自らの創作物に深手を負わされたとある作者は詰問されてこう言い放ちます。
「読者がそれを望むなら、自分は何度でも書く」
書いていれば登場人物に愛着だって湧いてきます。誰にも死んで欲しくくはないと思うようになります。けど、それでは物語にはならない。山場を迎えるためには深い谷に一旦落ちなければならないのは物語としては必定なんですよね。いくら登場人物たちに「もうやめて」と泣いて縋られようとも、やめるわけにはいかない──それが作家の業だと思います。中には達観した登場人物もいて、「そいつら(=作者)は神様じゃない。単に運命が人の形をしただけのもんだ。運命に文句言っても仕方ないよな」と言い放ち、あくまでも敵は作者ではなく創作世界の中にいると悟った姿は天晴でした。
それ以外にも創作者の本音があちこち散りばめられていたのですが、中でも印象に残ったセリフがこれ。

「俺たちプロだって常に完璧な作品が作れているわけじゃない。締切に縛られて限られた時間の中で書いている限りは納得がいかない時だってある。それでもできあがった作品に腹をくくってるだけだ」

生々しいなって思いました。あと、数日あればもっと良いものができる。せめてあと1日あればと思うことだってあるでしょう。でも、出版社は待ってはくれない。「これが完成原稿です」と腹をくくって編集者に渡すことだってあるんでしょうね。
ふと、スペインにあるサグラダ・ファミリアという建造物を思い出しました。設計者のガウディーはとっくに亡くなっているのにいまだに建築され続けている教会建築です。あの建物の施主ってガウディとどういう契約を結んでいたんでしょうか。ホントに「完成まで何百年かかっても良いから」なんて契約だったのかしらん??? 物語も出版社と締め切り無期限の契約をして親子何代にも渡って紡がれたら面白いだろうなとかちょっと想像しちゃいましたが、いやいやいや、読者は自分が生きてるうちに結末を知りたがるだろうと思い直しました。
創作物にとって、真に無慈悲な神とは読者なんだな──Re:CREATORSはそんなことを再認識させてくれた作品でした。

引き出しを増やす

2017年夏アニメ、アクションヒロインチアフルーツの最終回はなかなか感動的でした。
とてつもない厄を背負い、自分が参加する試合、舞台ことごとくで大コケするジンクスを持つチームのキャップがひっそりと身を引いて舞台から降りてしまうところからスタート。それをメンバーがアドリブの応酬で無理やり舞台に引きずり上げるという強引で危険だけど熱い展開になりました。
ネットのコメントでは、「みんなアドリブ力あり過ぎ」なんてコメントがちらほら。けどね、舞台に立っていた人間として言わせてもらいますとアドリブ力なんてものは存在しないのですよ。
アドリブの本質は引き出しです。一度もやったことがないことをぶっつけ本番でやってみるなんてまず無理。持ってる引き出しを開け閉めして適切な演技を引っ張り出しているのです。アドリブ力と呼ぶものがあるとすれば、それは引き出しの多さとそこから適切な演技を一瞬で選び出して一瞬で引っ張り出せる瞬発力のことを指すのだと思います。

じゃあ、その引き出しを増やしたり、瞬発力を磨くにはどうしたら良いか?

答えは一つしかありません。ひたすら稽古を重ねること。何千回も何万回も試行錯誤しながら稽古を繰り返すことでしか鍛えようがありません。どんな天才でもやったことがないことはできませんから。そして、これが演劇の怖いところでもあるのです。他者と比べれば才能の差が出ますが、自分自身と比べれば、百回しかやってない自分は千回やった自分には勝てませんし、千回しかやってない自分は1万回やった自分には勝てないのです。「俺にはやっぱ才能ないんだわ」と途中で稽古を投げ出す人はまだ幸せかも。芝居にのめり込む人はそうやって自分の持てる全ての時間を稽古につぎ込んでもまだ止めないし、やり足りないと思うのです。ある意味、パチンコより質が悪いかも
けど、そうやって重ねた稽古や場数は才能をも凌駕します。天才と言われる主役を何十年も芝居をしてきたベテランの脇役が喰っちゃうなんてことも往々にしてあります。ただ、一流と呼ばれる演者は間違いなく人知れず膨大な量の稽古や場数を踏んできていますからなかなか敵わないんですけどね。
デビュー当初は大根と呼ばれていたアイドル女優がそのうち観れる演技をしだすのも、偏に稽古を重ねて引き出しを増やしてきたから。最初はできなくても、「あ、これはあの時やったあの演技が応用できる」って、一瞬で気づくようになるからだと思いますよ。

百花繚乱

2017年春アニメはけっこう良作が多かったなと思っていたら2017年夏アニメはそれに負けず劣らずの豊作、百花繚乱の感がありました。SNSのアンケートでベスト3を書いてみたけどそれだけでは語りきれないので書いておきます。お勧めはこんな感じ。
異世界食堂:7日に一度、異世界とつながる洋食屋に訪れるファンタジー世界の住人たちの日常を描く作品。我々にとってはありふれた料理へのリアクションが楽しかった。
恋と嘘:近未来、政府から結婚相手を指名される社会における少年少女の恋愛模様を描いた作品。小学校の頃からの想い人への気持ちを断ち切れない中、指名相手にも惹かれていく少年の「こころ」がポイント。恋愛って人に言われてするものなの? と問われている気がした。
アホガール:頭を空っぽにして視聴しないと頭痛に襲われそうな突き抜けてアホなヒロインが織り成すドタバタ劇。中毒性がありました。回を追うごとに彼女のピュアな一面や勉強以外は異常にハイスペックな一面も見えてきてアホなエピソードを妙にシリアスに描かれるのもツボだった。
徒然チルドレン:キャッチコピーは「恋愛わんこそば」。これでもか、これでもかと高校生のムズ痒くなるような恋愛模様のショートエピソードが繰り広げられる作品。アホガールの中和剤に丁度良かった。
ノラと皇女と野良猫ハート:5分もののショートアニメ。全編、実写でヤギが写っているだけというよくわからん実験的な回があるかと思えば、シリアスなストーリーを描ききった回があったり、お馬鹿なことをやっているように見せかけながら、かなり見せ方を計算され尽くされた作品でした。
ようこそ実力至上主義の教室へ:教室での日常行動などを全てポイントで測られ、学校内でのカーストが構築されていく物語。密室内での騙し合いが見どころでライアーゲームなどが好きな方にはお勧めかな。ただ、物語としては中途半端なところで終わったのが残念。
アクションヒロインチアフルーツ:斜陽の地方都市を戦隊モノのご当地ヒロインを立ち上げて活気づかせようと奮闘する少女達の物語。昭和の特撮やアニメの小ネタがセリフや描写にふんだんに散りばめられおじさんにはツボでした。最終回は感動モノのフィナーレで今季のダークホース枠だった。
ゲーマーズ:ゲーム好きな高校生たちが織りなすすれ違いラブコメディ。一見会話が噛んでいるようで、両者が違う意図のことを言っているという笑いのスタイル。シナリオがよく練り込まれていて楽しめた。これもダークホースだったな。
メイドインアビス:王道ファンタジー物。世界最後の秘境と言われる大穴「アビス」に母を追って潜っていく少女の冒険譚。深く潜れば潜るほど環境は過酷になり、凶暴なモンスターに襲われる。病気や怪我の描写がリアルでエグいのでゆるい系のファンタジーを期待される方はちょっと注意。
賭ケグルイ:全てをギャンブルで決着させる風習のある学校に転校してきた美少女が次々に強者を賭けで撃破していく物語。顔芸アニメの異名を取っていてともかく登場人物たちが本性を剥き出しにした時の顔が見もの。
プリンセス・プリンシパル:今季の覇権。舞台は革命によって東西が壁で分断された架空都市ロンドン。時代背景は19世紀くらいかな。王国側のプリンセスを筆頭にスパイとして暗躍するヒロインたちの活躍を描く物語。キャラクターはルパン三世になぞらえたような設定で特にアクションが見もの。シナリオがよく練り込まれていて1話完結ながら毎回ラストが読めない展開が楽しめました。

とまれ、アニメ制作の方々、楽しい作品をありがとうございました。堪能させて頂きました。

つるかめつるかめ

こち亀のネタに血液型占いの話があって、例えばわりと悪く言われるB型の人は自らB型体質になっていくという説が紹介されていました。「自己中心的」だの「マイペース」だの「気分屋」だの「ワガママ」だのと言われ続けていると意識がそっちに引き寄せられて知らず知らずのうちにそういった性格に変遷していくというのだそうです。結構、当たっている気はして頷いてしまうのですが良くも悪くも人間って一つ事を意識しだすとそっちに寄っていってしまいますよね。
例えば、高い崖の上に立っていると危ない危ないと思いながら崖っぷちに寄って行って下を覗いてみたくなるとか……って、ちょっと違うか?
似た例で昔から不吉なことを見たり聞いたりした時に「つるかめつるかめ」と口に出して言うという風習があります。これは縁起の良いものを口にすることで不吉なことが寄ってくるのを防ぐという一種の迷信なのですが、実効果もあると思うのです。敢えて「つるかめつるかめ」と口に出して言うことで不吉なこと、危ないことを意識しそちらに近寄ってはいけないと注意するようになりますし、場合によっては遠回りしてでも危ない道を回避します。また、それを聞いた人も同じように意識して注意を怠らないようになるかもしれません。病は気からなんてふうにも申しますが、人の意識ってその人の行動を知らず知らずのうちにコントロールする力を持っていると思うんですよね。

ガチ勢いを嗤うな

ガチ勢とは元々、「ガチンコ勝負(真剣勝負)」を縮めた「ガチ」と「軍勢」を合わせた造語で、コンピュータゲームを極めるために大量の時間と情熱を注いで、ありとあらゆるテクニックを使って勝ちに行く人たちを指す言葉です。今ではそこから派生してコンピュータゲーム以外のジャンルにも使われるようになりました。ネット掲示板などのコメントを見ていると賛否両論あるみたいで、畏怖と敬意を持って賞賛する人もいれば、「そこまでやるか? それで本当に楽しいの?」と些かの侮蔑を持って臨む人もいるみたい。ま、人それぞれなのでしょう。ただね、ちょっと困ったことにプロの領域にまでこの観念を持ち込む人が増えているようなのです。
給料をもらってやってる仕事ですから真面目にやらなきゃいけないのは当たり前なのですが、極めだすとキリがない一面もあります。で、「ま、これくらいで良いんじゃないの」という妥協を持って多くの人は折り合いを付けるのですが、中には「まだまだ。まだだ、もっとできるはず」と極めて行くタイプの人もおります。ガチ勢とも呼べるそういった人たちを揶揄したり疎ましく思う外野がいて「何熱くなってんの」とか「そういう社畜がブラック企業を生むんだよ」とあからさまに侮蔑する風潮があるのです。
身内の恥でなんなのですが、先般、職場の幹部会議でとあるお客様で起きたトラブルでプロジェクトを仕切るマネージャーの発言が問題になっていました。

「確かに失敗しましたが、みんな一所懸命やったんですから良いじゃないですか。頑張ってこの結果だったんだから仕方ないじゃないですか」

という風なことを言ったらしいんですよね。どこからツッコんで良いのかわからないくらいツッコミどころ満載なのですが、とりあえず一言で評するならば幼稚です。高い金を払ったクライアント(お客様)がこれを聞かされたらどう思うでしょう。誤解を恐れずに例え話を出すとすれば、甲子園を目指している野球部が地方予選で一回戦負けした時の言い訳みたいです(ガチで高校野球やってる方、ごめんんなさい)。趣味でやってる野球(負けてもなんのペナルティも課されない野球)と仕事を一緒にするなよと言いたくなります。
当たり前ですが、お金をもらってやっている限りプロジェクトは100戦100勝でなければなりません。信頼して任せてくれているお客様は当然それを期待するからお金を払っているのですし、その期待に応えてこそのプロだと思うのです。もちろん、プロジェクトですから困難な局面や度し難い課題を抱えることがあるのは当たり前です。時にはどん底まで叩き落されて泥をすすることだってあります。けどね、「もう諦めよう。みんな頑張ったからそれで良いじゃないか」というのは流石にあり得ないでしょう。そこからどうやってリカバリするかがプロの真価でありアマチュアとの違いなのですから。
ガチ勢という言葉を動画サイトや掲示板などの趣味の世界で使うのは勝手です。けど、プロの世界でその言葉を持ち出して真剣勝負している人を嗤うのは止めて頂きたい。ましてや、真剣勝負を放棄して「頑張ったから(結果は伴わなかったけど)良いじゃない」などという人とは一緒に仕事をしたくないなぁと思った次第です。

錯覚を利用した演出

以前、「ミステリーの書き方」という本を読んだことがあります。
多数の人気作家によるミステリーを書くヒントや作法を綴った指南書なのですが、その中で東野圭吾さんが書かれていた日常生活に向ける視点が面白かったです。日々の生活を送る中で「お、これはネタになるんじゃないか」と思えるものを探す目線を持ちましょうということなのですが、具体例としてこんなエピソードを挙げておられました。
評判になっていた映画「タイタニック」をレンタルして鑑賞した。あるシーンでヒロインが一つ前のシーンと微妙に体型が違うことが気になった。どうしてだろうと考えていて、「ああ、撮影した時期が違うんだ」と気づいた。お、これってネタになるんじゃね? とメモを取ったというものです。
映画の撮影期間が何ヶ月にも及ぶことも必ずしも一つ前のシーンの続きで撮っているわけでなくシーン毎にバラバラに撮影されていることも周知の事実です。けれど、実際に鑑賞する時は物語の時系列に情報が提供されるので観客はひと続きの場面として錯覚しちゃうっていうのはありそうな話ですよね。うん、ミステリーに使えるかも。
この錯覚を逆手に取った演出の例を僕は一つ知っています。大林宣彦監督の「ふたり」。
ヒロインの石田ひかりは中学三年生から高校生までを演じるのですが、中高一貫校らしく最後まで同じ制服なんですよね。最初に登場した時は制服が少しだぶついている感じがしていてまだ板についていない印象。それがラストシーンではぴったり合っていて、ああお姉さんになったんだなと伺えます。
けど、冷静に考えると2年以上かけて石田ひかりが大きくなるのに合わせて撮影なんてことはあり得ませんから、あれはきっと制服を2着用意したのでしょう。最初のシーンはサイズが大きめの制服を。ラストシーンではぴったりサイズの制服を。物語を追って彼女の成長を見守ってきた観客は服が変わったとは思わず彼女が成長したのだと錯覚を覚えるという仕掛けです。
映画ならではのトリックですが、こういうのはまだまだありそう。今ちょっと考えているのはサイレント映画ならではのトリックってないかしらん。というものです。すぐに思いつくのは音声がないことを活かしたトリックですけど目のこえた読者にはすぐばれそう。音声がないことはミスリードに使いながら実はモノクロであることがトリックになっていたとかできないかしらん。

鼻歌の歌謡曲

1970年代からずっと各年代でオリコンヒットチャート1位のメガヒット曲を出し続けているシンガー・ソング・ライターがいます。その人の名は中島みゆき。
1977年:「わかれうた」で1位を獲得
1981年:「悪女」で1位を獲得
1994年:「空と海とのあいだに」で1位を獲得(1995年 旅人のうたで1位獲得)
2003年:「地上の星」で1位を獲得

2010年代は自身のリリースでは未だ獲っていませんが、ももいろクローバーZに提供した「泣いてもいいんだよ」が2014年に1位獲得しています。俗に「歌は世につれ世は歌につれ」などと言われますが、1970年代と2017年の今では世相も人の考え方、価値観も大きく違います。それは80年代、90年代、2000年一桁でも同じこと。よくぞまあ、これだけ世相にピタリと寄り添って人の心を打つ楽曲を作り続けておられるよなぁと感心することしきり。僕が彼女のファンになったのは80年代前半の大学生になった頃でしたが、あの頃は「根暗な曲を作る代表選手」みたいなイメージがあって、まさかそれから30年後もこんなに活躍しているとは失礼ながら想像もしていませんでした。
彼女の楽曲の特徴は一言で言うと「歌詞が分かり易い」ということかな。ごく普通の人々が日々生きていく中でもやもやしていることを寸分の隙もなく誰もがわかる言葉で表現することで人の心を鷲掴みにしている気がします。特徴をもう一言加えるとすれば「メロディが平易であること」。夕飯をこしらえながら鼻歌で歌えるような曲が多いんですよね。
これは、彼女の楽曲に限らず昭和の歌謡曲の多くがそうだった気がします。ブログやyoutubeなど動画サイトのコメントを見ていると「昭和は名曲の宝箱、今の楽曲はその足元にも及ばない」なんてのをよく見かけますが、それは違うと僕は思っています。昭和の頃だって1年間に何千、何万といった曲がリリースされていました。レコードがわずか数百枚しか売れず、誰にも知られることなく消えていった楽曲は空の星の数より多いと思います。コメントの主が褒めそやしているのはそういった過酷な競争を勝ち抜いて今も歌い継がれている曲ばかり。言ってしまえば往年のオリンピックのゴールドメダリストを町内会の運動会に引っ張り出して、すごいすごいと言っているようなものだと思うのです。今作られている楽曲の中にだって10年後、30年後、歌い継がれていく曲は必ずあると思うんですよ。ごくごく一握りではありますが。
ただ、曲の特徴やコンセプトは明らかに違います。昭和の歌謡曲は素人が鼻歌で歌えるような親しみ易いものが多かった気がするのです。それに比べて今の楽曲は、やっぱりカラオケマシーンが必要かな。どちらが良い悪いではなくて一長一短だとは思うのですが、お手軽さから言えば昭和の歌謡曲に軍配が上がるでしょう。お母さんが晩御飯をこしらえながらなんとなく歌っている。それを毎日聴いている子どもたちが耳から覚える。インターネットがなかった時代のそれはレコードの売上につながる重要な営業戦略だったんだじゃないでしょうか。ま、そんなヤらしい見方をしなくても、カラオケなしででも歌えてしまう楽曲はお手軽で素晴らしいと僕は思います。
中島みゆきが紡ぎ出す楽曲は40年の時代を経てなお、そんな昭和の歌謡曲の伝統を脈々と受け継いでいます。2010年代もあと3年。そろそろ、次のオリコン1位となるメガヒットが出てくるんじゃないかな。自分的にはNHKの朝ドラ「マッサン」の主題歌、麦の唄あたりで獲ってほしかったな。あれは良い曲です。

あなた任せ

多くの職場環境で人手不足とそれに伴う過重労働は深刻化しているようです。SNSのニュースでも再三取り上げられていて様々な意見が寄せられているのですが、ぞっとしないのはあなた任せの意見が多いこと。おしなべてまとめるとこんな感じの意見。

会社のトップが無能だからだろ。土日は休ませろよ。

この意見を投げた人って、ホントに土日休みたいと思ってるんですかね。僕にはとてもそうは思えないのですが。残業過多は雇用者にとっても被雇用者にとっても頭の痛い共通の課題だと思うのです。雇用者はその分余計な経費がかかるし(残業代未払いでも電気代諸々はばかにならないんだよ)、被雇用者はプライベートの時間を削られるし、何よりモチベーションが下がる。つまり、一緒になって知恵を出し合って解決すればみんながハッピーになれるはずの課題なのです。なのに、「僕は悪くない。僕じゃない誰かが悪い」なんて、どの口が言うんでしょうね。
プロジェクトにおける課題解決のコツは2つあります。
原因を他者ではなく自分の中に求めること
他者に原因を求めちゃうと事の解決はまず間違いなく行き詰まるのです。だって、他人の何かを変えるなんてそうそうできることじゃないから。けど、自分の中の何かを変えれば解決するという答えが見いだせればハードルはぐっと下がります。自分は自分を変えられますから。

課題に対して他のステークホルダー(=プロジェクトの関係者)と対立するのではなく一緒になって解決に取り組むという姿勢を貫くこと
端的にいうと会議の席で対面にテーブルを並べるのはお薦めできません。相手の顔を正面から見据えるスタイルは敵対関係を生みます。なんとなく対立しているような気がする。利害関係が相反している気がする。相手に責任をなすりつけたくなると何も良いことはありません。
逆に全員が視線を会議室正面のホワイトボードに向けて、この場のみんなでホワイトボードに書かれた課題を解決するんだという空気が作れればそれだけで課題は8割方解決したも同然なのです(ホントだよ)。

残業や休日出勤が多いのは人手が足りないから、ひいては現場の大変さを理解できていないトップが無能だからとコメントするのは愚痴に過ぎません。「お小遣いもっとあげてよ~」と親に駄々をこねる子供となんら変わりはありません。そういう子供が、お小遣いを上げてもらうためにはどうしたら良いか。お小遣いを上げることで親にどれだけのメリットがあるか。一度でも真剣に考えて親を説得したことがあるでしょうか。ましてや、残業の削減は雇用する側にとっても悲願なのです。本気で残業を減らしたいと社員が望んでいるのなら、あなた任せな愚痴は一旦棚の上に上げておいて、そのための具体的な方策を会社のトップに提案するほうがよほど建設的じゃないかなと思う次第です。

入院中の夢

入院中の生活は朝6時起床、夜9時消灯でした。けど、習い性で5時には目が覚めるので1時間ほどDSで静かに遊んでましたね(だって9時に寝ちゃうと5時でも8時間寝たことになるし)。
で、前に入院した時もそうでしたが見ちゃいました。「帰って来なくっちゃの夢」。夢の中でどこか見知らぬ街に行っちゃってるのです。で、消灯時間も近いし戻ってこねばと焦るのですが角を曲がれば曲がるほど不条理に、理不尽に街の様相は変貌し帰り着ける気がしなくなる。さんざ彷徨を重ねてはっと気がつけば病院のベッドの上。どこにも行っていない、帰ってくる必要のない自分に気づくという。
目が冷めている時は別に意識はしていないのですが、意識下で入院生活を忌避しているのかなぁ。
とまれ、寝酒無しで就寝となるからかこの夢に限らずいっぱい夢を見ましたね。最も不条理な夢は「アメリカのミサイル攻撃により日本では辛子明太子が生産できなくなり、明太子スパが食べられなくなる」というものでした 我ながら脈絡がないのですが、夢の中では深刻な問題になっていたんですよね。冷静に考えたら明太子スパ以外にも食べられなくなるものがもっとあってそっちを問題視すべきなのではと思うのですが(って、論点がやはりずれている?)。
退院してからはアルコール三昧の生活に戻ってしまって、ろくに夢を見なくなってますが、いやしくも病気療養中の身。少しは控えないといけないな。

油断

9/26に無事退院してきたのですが、翌日に39度の発熱。敢え無く9/28に再入院となりました。昨日ようやく再退院(?)してきたところ。
振り返ってみると今回の再入院はいろいろと間抜けな油断がなければ防げた気がするのですよね。発熱の原因は雑菌による感染症。普段なら体の免疫がやっつけてくれるレベルのインシデントだったみたい。ただ、治療薬の副作用で免疫が極端に落ちているのでまずはそれに気をつけないといけないのでした。で、雑菌の侵入箇所もだいたいわかっていて「足」だとおもうのです。実はそろそろ廃棄しなきゃと思う履き古した靴があるのですが、それを裸足で履いていた。病気の影響で足が思い切りむくんでいて靴下を履くのが面倒と考えた次第なのですがあれはなかったよなぁ。むき出しの足に雑菌が侵入してくる様子を想像すると下手なホラー映画よりゾッとするぞ。
ということで、今日は靴を買いに行くぞ。もちろん、靴下を履いてね。
とまれ、いらん出費がかさんでしまいましたが勉強代と思ってその反省を今日に活かさねばと思っています(ちなみに、明日に活かすという言葉はキライです。今日活かせよと思っちゃう)。
プロフィール

choal29

Author:choal29
食べることが大好きで料理をすることも大好きなシステムエンジニアです。 料理は年々マニアックになってきていて、近頃はamazonからレシピ本など出しております。
詳しくはhttps://www.amazon.co.jp/ref=nav_logo で「五島 悠介」を検索してね。

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