縁はありやなしや

お見合いがお流れになった場合、よく「ご縁がなかった」という言い方をします。逆に縁談がまとまると「ご縁があったのですね」なんて言ったりします。良縁、くされ縁、奇妙な縁、私達は遥か昔から人と人の出会いや別れを必然と捉え、「縁」というもののなせる業と考える風習を持っているようです。
けど、非常に無味乾燥な話になっちゃいますが、縁というものを科学的に捉えてしまうと途端に胡散臭くなるんですよね。なぜなら、縁を語る時人は先に結果を見てしまうから。結果を捉えて縁があった、なかったかを判定するからです。科学的思考は原因から結果を予想するものなので思考のプロセスが真逆なのです。縁があるかどうかを判定するのはいつだって結果が出てから。縁のありやなしやの判定は究極の後付け作業なのです。

なら、縁を語ることは非科学的で無意味なことなのでしょうか? 結論から言うと僕はそうは思いません。第一に「非科学的=無意味」という風潮に疑問を感じます。第二に非科学的であると断じるのは早計だと思うのです。現実に、妙に気が合って結婚に至るカップルがいます。あるいは、付き合いたくもないのに妙に絡んでしまう悪友がいたりします。縁があったなかったとでも言わなければ確率論だけでは説明がつかないことは現実に世の中にあるのです。ただ、そのメカニズムは少なくとも現代科学では立証できない。だから非科学的というのは非論理的です。いずれ、縁と呼ばれる因子の正体が解明されれば不思議でも何でもない科学的理論として理解されるようになるかもしれません。で、縁を語ることが無意味じゃないと思う第三の、そして最大の理由は『人の感情を科学で宥めることはできないから』です。
好きで好きでたまらなかった人とついに結ばれることがなかった時、「それはあの時、君がああ言って、彼女がそれをこう捉えて……」なんて巧くいかなかったことを論理的に説明されたらどんな気分になるでしょう? ま、大概は余計に落ち込むか、ぶち切れるのが関の山ですよね。そんな時はただ一言、「縁がなかった」と言えば良いのです。慰めにはならないにしろ気持ちを切り替えるきっかけくらいにはなるんじゃないでしょうか? よくお葬式は故人のためではなく残された人の気持ちを切り替えるために行うものだなんて言われたりします。縁にも同じような効果があるんじゃないかと僕は思っています。
メカニズムは分からないけれど人と人の出会いや別れを司る因子として『縁』という装置があり、その装置に人は抗うことはできない──そう考えれば手の届かなかった人を諦めて前を向くこともできますし、結ばれた相手をありがたいと思い大切にすることもできます。人の感情の前では時に科学は無力です。そんな時、科学になり代わって感情を慰める装置の一つとして『縁』というものがあると考えれば無意味だなどとは言えますまい。
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