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ニュアンスの妙

演劇漫画の金字塔、ガラスの仮面の初期のエピソードにこんなのがありました。ある日の稽古で台本が配られます。書かれていたのはたったの4文字、「はい」、「いいえ」、「ありがとう」、「ごめんなさい」。セリフの暗記は一瞬で出来ちゃうし一見簡単そうに見える課題なのですがこれが意外と難しい。例えば相手が「すみません。駅への道を教えてくれませんか」と言ってきたらいきなり苦戦してしまいます。恐らくそのセリフに対する最も妥当な受け答えは「ごめんなさい」でしょうね。僕もこのあたりの地理には暗くて駅への道を知らないのですというニュアンスです。
物語は姫川亜弓が質問役を買って出て飛び入り参加、その相手役に北島マヤが指名されるという展開になります。「校長先生の名前は?」なんて意地の悪い質問を連投する亜弓にマヤはそつなく答え続けるのですが最後に「お好きなレコードをかけてあげましょう。(なんなりと)おっしゃって」という難題をふっかけてきます。マヤはパントマイムでレコードラックを探す仕草。目当てのレコード(もちろんエア・レコードです)を見つけ出すと亜弓に差し出して「はい」と言います。マヤの天才性を演出する良いエピソードなのですが、惜しむらくは音声のないコミックでの表現だったこと。実際にはこの最後の「はい」は呼吸とイントネーションに物凄く神経を遣う必要があって、例えば別の研究生が全く同じ演技をやっても大失敗する可能性もあるのです。特に呼吸は大事。マヤの演技は相手の姫川亜弓がこのあと「ありがとう」と言ってレコードを受け取って初めて成立するもの。つまりマヤはセリフを発する瞬間に亜弓が言葉のボールを受け取る体勢にあることを見極めなければなりません。もし受け取る体勢になっていなければ、思わず受け取ってしまうようなボールの投げ方をする必要があります。これが難しい。いわば不意打ちを食らわすわけですがそれができるのは努力の範疇ではなく才能の範疇だからです(もちろん、努力で近いことはできると思うのですが)。

ネットニュースで年配のお客様に褒められたエピソードが書かれていました。ところが「ありがとうございます。励みになります」と言ったところ、「いや、そこは謙遜しなさいよ」と憮然とされたとか。また、無礼なお客がいたものですが、それでも客には違いありませんから無視するわけにはいかず、なんらかの受け答えをする必要があります。このケースで最悪の切り返しは相手を説得しにかかること。「いや、わたしが言いたいのはですね……」というのは下の下です。相手はご年配。褒められたら謙遜するものという固定観念に凝り固まっている人にそんなことをしても大不興を買うだけでしょう。僕が考えたベストの切り返しはシンプルに

「失礼しました」

とだけ切り返すこと。で、以降、このお客様に対してはそういう人だと頭において接客すること。けどねこのたった一言の「失礼しました」が難しいのです。呼吸とイントネーションを間違えると慇懃無礼に取られかねない。相手の目を読んでボールを投げるタイミングを図って、いささか不意打ち気味にボールを相手の掌の中に投げ入れる。相手はおやっと手元を見て思わずにやりと笑う。場の空気が緩む。「ありがとうございます。励みになります」という一言を失言から笑い話に変えてしまう。そんな離れ業を要求されるのです。
「はい」、「いいえ」、「ありがとう」、「ごめんなさい」の試練は意外に日常の中に潜んでいます。予期せぬタイミングでいきなり喉元にナイフを突きつけられるように返答を求められることがあります。演技の天才の北島マヤならいざしらず、平凡な一社員、一OLに降りかかる試練は過酷を極めるでしょう。言えることは日々言葉のキャッチボールの鍛錬に励もうよということくらいかなぁ。けど、断言しますが9割以上の人はいくら鍛錬に励んでもこの切り返しは無理だと思います。これができるのなら芸人になれますよ。
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