若しもかの星に

大学時代に歌った男声合唱のスコアでこんな楽曲がありました。
若しもかの星に 百田宗治
もしもかの星に、
 夜の空の遠い一つの星のなかに、
 取残された一人の人間が居るならば、
そしてもし彼がそこから
吾々のこの世界を見るならば、
 吾々の、
この賑やかで樂しげな
地上の世界をみるならば、
おゝおそらく彼は孤獨に狂ふだろう、
 聲はり上げて叫ぶだらう、
 絶望の叫喚を投げるだらう、
 彼はそこから飛び降りたく思ふだらう、
が、彼はなほそこに止まらねばならぬ、
して、日夜、
 彼はたゞ獨り
この繋がりなき距りを見ねばならぬ、
そこに彼は生きねばならぬ、
あゝ若し吾々の一人がかゝる
おそろしい絶望のうちに生きるならば、
おゝ然して彼が尚ほ生きるならば‥‥。

ロビンソン・クルーソーも真っ青な恐ろしいシチュエーションですが、彼がこの詩を書いたのは第一次世界大戦が終わったばかりの大正時代。その豊かな想像力には畏怖すら感じます。

僕は昨年、病を得て入院し、職場に復帰すると元の部署には戻れず(ま、そんな状態で客商売はできないですよね)、わりとぽつんと取り残された状態の業務になりました。今また、体調を崩して在宅勤務にシフトし、朝から晩まで小さな部屋の中で暮らす日々。人と言葉を交わすこともなく(って、咳がひどいからそれはありがたいのですが)、今の自分ってこの詩に出てくる男によく似てるよなぁとふと気付きました。幸か不幸か僕は想像力、空想力は配って歩けるくらい持ち合わせていますのですぐに「いや全然ちゃうやろ」と気付きました。家を出れば大勢の人が歩いている、行きつけの呑み屋もあれば、家族に電話やメールをすることもできる。家の中にいてさえネットの友人たちと会話することもできる。そんな恵まれた境遇のロビンソン・クルーソーがいてたまりますか。

けれど中には自らを孤独の闇に追い詰めこの詩の男のように狂う人もいるようです。
新幹線で刃物を振り回して乗客を殺めた男がいました。
警官を殺して奪った拳銃で更に小学校の警備員を殺した男がいました。
ネットで揶揄されたと怒り、一面識もないITセミナーの講師を刺殺した男がいました。
彼らは立場も境遇も様々ですが、共通することが一つ。自分は孤独だと思い込んでいたこと。本当は家族もいれば職場の同僚もいたにも関わらず、闇雲に自分は孤独だと思い詰めていたこと。もし、彼らに一片の想像力が残っていて周りをもう一度見る余裕があったならば。深呼吸を一つして周りを見直せば決して自分は孤独でないことに気付けたならば。自分は孤独だという呪詛の言葉は単に現状から逃避するための安易な詭弁にほかならないと思い至っていれば。事件は起きなかったかもしれない──そう思うと残念でなりません。
一週間、在宅勤務をして人恋しくなったので昨夜は駅前の馴染みの店に顔を出しました。旨い日本酒を戴きながらふと30年前に出会った詩を思い出し、この男ともろもろの事件の犯人はどこか似ているなとふと思った次第。けれど、似ているのは想いだけであって境遇はまるで違います。彼らはこの詩の男のように真実の孤独の中になど身を置いていません。ただ、現実から逃避したくて安易に自暴自棄に身を任せただけです。願わくば似たことを胸に秘めている殺人者の予備軍たちに一片の想像力があらんことを。切に願ってやみません。

鎮める

はれのひ事件に始まり、首相と学園をめぐる愉快な仲間たちの茶番劇、レスリングのパワハラ、日大の危険タックル、かぼちゃの馬車……枚挙に暇がないとはこのことかしらん。今年はあとからあとから悪い大人、無責任な大人の見本市が24時間営業で開かれているようです。ま、大人というのもおこがましくてあの人たちは子供のまま数十年を生きてきたのでしょうね。だから糾弾されても不貞腐れた顔をして拗ねるだけ。
けど、怒りに任せてブログに言いたい放題を書くというのは如何なものか。身近な事例では特定の弁護士に根拠のない懲戒請求を繰り返して名誉毀損で訴えられている事件があります。あれも大半の被告はネット上のブログの内容をなんら検証せずに鵜呑みにしたのが発端。「だって、本当のことが書いてあると思ったんだもん」と開き直る姿はやはり無責任な大人──というより無知な子供そのものです。
インターネットの文化は空前のボーダーレスを実現しました。書こうと思えば首相にメールを送ることだってできます。誰にプロモートしてもらえなくても勝手に歌やダンスや小説などを多くの人に披露することができます。だから勘違いしてしまうんじゃないかな。発信するのは僕らの自由であり権利であると。匿名で発信するのだからその行為の責任を問われることはないと。けどね、それは体のいい詭弁。誰がやったかわからないだろうという開き直りを免責にすり替えているだけで、もちろん免責されるはずはないのです。

今日は朝から梅雨空。ぼんやりと窓打つ雨を見ているとなんだかそういった世事も遠い国の些末なできごとに思えてきます。相変わらず腹立たしいことや理不尽なことは起き続けているし、これからも絶えることはないのでしょう。けどそれは数千年の人類の歴史の中で繰り返されたことで今更取り立てて騒ぐような話ではありません。怒りに任せた想いを発信するその前に、静かな梅雨空を思い出しましょう。なんだか馬鹿馬鹿しくなってそんなことに時間を割こうとしていた自分が滑稽に見えませんか。それよりは今日の朝食に何を食べるかの方がずっと重要だって気になりませんか。長い目で見れば怒りは発散するよりも鎮めたほうが自分のためにも他の人のためにもなることを僕らは肝に銘じるべきなんじゃないかなとふと思った日曜の朝でした。

テレワーク始めました

今から二十年ほど前のこと。うちの会社は一年に一度、自己申告と言って過去1年の業務を振り返ってこれから先どう進んでいくかを社員ひとりひとりが上司にプレゼンするイベントがありました。会社がどんどん統合されて制度が変わっちゃったので今は簡素化されてしまったけど僕はあの制度は好きだったな。で、プレゼンの最後に会社に提言したいことという枠があって、僕は在宅勤務を提言したことがありました。パソコンと携帯があれば別に出社しなくても仕事はできる。なら、家で仕事をすればオフィスの家賃と通勤費がまるごと浮くから会社の業績が改善されて良いじゃんという趣旨。当時の上司は「うーん」と唸ったあと「労務管理ができないから難しいやろ」とおっしゃいました。ま、言いたいことは分かる。糸の切れた凧みたいにサボるやつが出てくるのは予想に難くない。けど、それっておかしな話ですよね。見張っていないとサボるって小学生の発想じゃん。「そうっすよねぇ」と言いつつも、月々、お給料をもらいながら適当にサボって仕事するって大人としてどうよって内心ではツッコむことしきりでした。
過日、風邪をひいたみたいで寝込みました。熱は下がって復調したのですが咳がはんぱない。同僚たちをドン引きさせることしきり。申し訳なくてカフェテラスエリアに籠もって仕事したりもしたのですが、結局そこの客をドン引きさせているだけで根本的な解決になっていない。そこで、上司と相談してテレワークに切り替えることにしました。テレワークとは働き方改革の一環で働く場所を自由に選べる制度のこと。もちろん、在宅で働くのもOK。そう、二十年の時を経てようやく時代が僕の提言まで追いついて来たのです。
昨日はそのテレワーク初日。朝、起きて朝ごはんを食べてもスーツに着替える必要なし。電車に乗る必要もなし。片道1時間の通勤時間が浮いたのでお風呂に入って洗濯までできちゃった。なんか、新鮮な気分。で、そろそろ同僚たちが出社してくる頃合いを見計らってPCを起動、メールやチャットを使えば問題なく仕事できるじゃん。特にチャットは助かりました。咳がひどくて未だ発声がほとんどできないので文章でやりとりするのは正確でスピーディなのだ。
やがて、ランチタイム。お弁当用に用意していたおかずを並べていただきます。しっかし、厨房と仕事場が部屋続きってシュールだけど合理的だなぁ。
そして終業。PCを畳んだら……家にいる。すぐ夕飯の支度ができる。すぐ晩酌を始められる。外はまだ十分明るいぞ(夏至を過ぎたばかりだし)。ほらね、在宅勤務にしたら良いことが沢山あるじゃん。ただ家で仕事をすると全くといっていいほど体を動かさないのでそこは意図して運動しないといけないかな。ま、2時間の通勤時間が浮いたのでその分、ジョギングなりしましょうか。

二十年を経てかなった夢。一部の不心得者のサボりで潰えることなく続いていってほしい制度だなと思いました。

書き割りに見えてしまう

僕はよほどのことがない限りお店に文句を言わない主義で店の味やオペレーションに気に入らないことがあっても黙って店を出て二度と行かないようにしています。それはアニメ作品などでも一緒。気に入らなければ切って観なくなるだけでその作品を批判することはあまりしません。
けど、2018年春アニメの「多田くんは恋をしない」についてはそれではなんだか落ち着かなくて、このもやもやした気持ちを分析してみたくなりました。
同作はざっくり言ってしまえばローマの休日の現代版。ヨーロッパ小国の王女様がお忍びで日本に留学してきて知り合ったクラスメイトと恋に落ちるというそんなお話です。ストーリーはかの名作を下敷きにしているので鉄板のはずなのですが回を追うごとに何もかもが書き割りに見えて仕方がない。なぜそう思ってしまうのかちょっと分析してみたくなった次第です。
書き割りというのは歌舞伎の用語で大道具、要は板に屋敷や大樹などを描いて舞台に並べ場面を演出するアイテムです。観客はもちろんそれが本物の土塀でもなければ桜の木でもないことを分かっているのですが、優れた演出家が采配を振るい、名役者が立ち回ればあたかもそこが武家の屋敷に見えたり、吉野の山桜に見えたりするのです。
ところが多田くん~では留学生のテレサが某国の皇女だと言われても「そういう設定」にしか見えない。ただの世間知らずの欧州の田舎育ちの娘にしか見えず、十数年間皇族として生きてきた威厳も覚悟も見えてこない。なのに演出家は一所懸命それらしい演出やセリフを割り当てるものだからますます書き割りが書き割りめいてくるという悪循環を感じるのです。
原因はいくつもあると思うのですがおそらくは演出スタッフの誰一人もが王室の空気感を理解できていないのではないでしょうか? いっぱい資料を集めて、いっぱい写真も集めてそれを継ぎ接ぎしたら如何にも王室でしょと自己満足しているように感じます。ロバート・ダウニーJRはチャップリンの半生を描いた「チャーリー」という作品に主演した際、数年間をチャップリンとして暮らしたと聞きます。同作にはチャップリンの母親役で彼の娘のジェラルディン・チャップリンが出演していましたが彼女をして「お父さんそっくり」と言わしめたとか。あるいは2017年春アニメ「月がきれい」──初めて恋をした中学生のもどかしいような甘酸っぱい気持ちを描いた秀作です──は、企画が立ってから2年かけて中学生の心情やこういった場面ならどう感じてどう動くかが徹底的に議論され、多くの現役中学生へのインタビューも行われてスタッフ自身が中学生の発想と行動原理を身に着けようと努力されたそうです。かえりみて本作でヨーロッパの王室の取材を行ったかといえば否でしょう(きっとそんな予算も時間もないでしょうし)。加えて現役高校生に取材を行ったかといえばそれもNOだと思います。全てが頭の中のイメージだけ、王女様ってこんな感じに世間とずれてるんじゃないかな、初めて王室の気品に触れた高校生はこんなリアクションをするんじゃないかなと素人の観客でも思いつきそうな安易なイメージをこねくり回した印象があります。結果、テンプレートのオンパレード。どこかで見たような絵面を継ぎ接ぎした作品になったんじゃないかと思うのです。
もし、この批評に対していちいち一本一本にそこまで入れ込んでられっかよと反論されるのであればそれはもうアニメを作るのを止めたほうが良い。観客に失礼極まりない行為です。
ということで、おそらくはバックグラウンドが浅いことが本作を書き割りめいて見せる一番の原因だと思うのですがそれを際立たせてしまっているのが演出のまずさ。登場人物に語らせ過ぎです。一例を挙げると9話、王女の付き人兼護衛役のアレクが「あなたはやはり……多田光良を好きになってしまったんですね」と問いただすセリフ。なんでそれを口にする?! と画面にものをぶつけたくなりました。これは秘められた悲恋の物語です。たとえ親しい付き人とは言え秘められた恋をドヤ顔で第三者が語ってどうする。暴いてどうする。僕はアニメの演出は素人だけど小説に置き換えてもここは表情と動作で察してその上で黙して気づかぬふりをさせます。その方が読者は切なくなるから。分を弁えた皇女の付き人らしく映るから。一事が万事で終始語るべきでないことを登場人物に喋らせてしまっていることが本作をますます書き割りめいて見せていると僕は思います。他作と比べるのは卑怯かもしれませんが2018年春アニメの「宇宙よりも遠い場所」の演出とは対象的だなぁとちょっとため息。
同作の演出の一例を挙げると12話、3年ぶりに母のPCを起動する場面。セリフは全くありません。おそるおそる叩く4桁の数字を見て観客はそれが母の誕生日であろうと推測できます。エラーメッセージ──、机上の写真立ての母子のスナップが写される。それを見て一瞬息を呑むヒロイン。恐る恐る叩かれる4桁の数字──。なんの説明がなくても彼女が思いついた2度目の4桁の数字は自分の誕生日だと察せられます。パスワードをクリアして起動するPC。それを見て肩を震わせるヒロイン。
アニメの世界には「語るな見せろ」という演出上の名言があると聞きました。映像作品なのだから。動きを見せる芸術作品なのだから。逆にセリフには最大の神経を払って不用意な言葉は徹底的に刈り込むべきだと僕は思います。
「アニメってテンプレの代名詞か、違うだろ。命を吹き込むってことだろ」、SHIROBAKOの名台詞を掲げて、本作のスタッフにはさらなる研鑽を期待します。ただ、いろいろと勉強にはなりました。

ニュアンスの妙

演劇漫画の金字塔、ガラスの仮面の初期のエピソードにこんなのがありました。ある日の稽古で台本が配られます。書かれていたのはたったの4文字、「はい」、「いいえ」、「ありがとう」、「ごめんなさい」。セリフの暗記は一瞬で出来ちゃうし一見簡単そうに見える課題なのですがこれが意外と難しい。例えば相手が「すみません。駅への道を教えてくれませんか」と言ってきたらいきなり苦戦してしまいます。恐らくそのセリフに対する最も妥当な受け答えは「ごめんなさい」でしょうね。僕もこのあたりの地理には暗くて駅への道を知らないのですというニュアンスです。
物語は姫川亜弓が質問役を買って出て飛び入り参加、その相手役に北島マヤが指名されるという展開になります。「校長先生の名前は?」なんて意地の悪い質問を連投する亜弓にマヤはそつなく答え続けるのですが最後に「お好きなレコードをかけてあげましょう。(なんなりと)おっしゃって」という難題をふっかけてきます。マヤはパントマイムでレコードラックを探す仕草。目当てのレコード(もちろんエア・レコードです)を見つけ出すと亜弓に差し出して「はい」と言います。マヤの天才性を演出する良いエピソードなのですが、惜しむらくは音声のないコミックでの表現だったこと。実際にはこの最後の「はい」は呼吸とイントネーションに物凄く神経を遣う必要があって、例えば別の研究生が全く同じ演技をやっても大失敗する可能性もあるのです。特に呼吸は大事。マヤの演技は相手の姫川亜弓がこのあと「ありがとう」と言ってレコードを受け取って初めて成立するもの。つまりマヤはセリフを発する瞬間に亜弓が言葉のボールを受け取る体勢にあることを見極めなければなりません。もし受け取る体勢になっていなければ、思わず受け取ってしまうようなボールの投げ方をする必要があります。これが難しい。いわば不意打ちを食らわすわけですがそれができるのは努力の範疇ではなく才能の範疇だからです(もちろん、努力で近いことはできると思うのですが)。

ネットニュースで年配のお客様に褒められたエピソードが書かれていました。ところが「ありがとうございます。励みになります」と言ったところ、「いや、そこは謙遜しなさいよ」と憮然とされたとか。また、無礼なお客がいたものですが、それでも客には違いありませんから無視するわけにはいかず、なんらかの受け答えをする必要があります。このケースで最悪の切り返しは相手を説得しにかかること。「いや、わたしが言いたいのはですね……」というのは下の下です。相手はご年配。褒められたら謙遜するものという固定観念に凝り固まっている人にそんなことをしても大不興を買うだけでしょう。僕が考えたベストの切り返しはシンプルに

「失礼しました」

とだけ切り返すこと。で、以降、このお客様に対してはそういう人だと頭において接客すること。けどねこのたった一言の「失礼しました」が難しいのです。呼吸とイントネーションを間違えると慇懃無礼に取られかねない。相手の目を読んでボールを投げるタイミングを図って、いささか不意打ち気味にボールを相手の掌の中に投げ入れる。相手はおやっと手元を見て思わずにやりと笑う。場の空気が緩む。「ありがとうございます。励みになります」という一言を失言から笑い話に変えてしまう。そんな離れ業を要求されるのです。
「はい」、「いいえ」、「ありがとう」、「ごめんなさい」の試練は意外に日常の中に潜んでいます。予期せぬタイミングでいきなり喉元にナイフを突きつけられるように返答を求められることがあります。演技の天才の北島マヤならいざしらず、平凡な一社員、一OLに降りかかる試練は過酷を極めるでしょう。言えることは日々言葉のキャッチボールの鍛錬に励もうよということくらいかなぁ。けど、断言しますが9割以上の人はいくら鍛錬に励んでもこの切り返しは無理だと思います。これができるのなら芸人になれますよ。
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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