酒肴の極意

僕はこのブログに書くネタを思いついた時に忘れないようメモを採るようにしています。塵も積もればなんとやらでいつの間にか結構な量になっているのですが、根がいい加減なものでたまに書いた本人もなんのことやら理解できないメモがあったりします。その中の一つにこんなのがありまして長らく頭を悩まされておりました。

趣向の極意

それが夕べ晩酌をしている時にその料理が酒の肴足り得るための一定の条件ってあるよなぁと思い立ち忘れないように「酒肴の極意」と入力したところ「趣向の極意」と変換された これのことだったのかい(汗) ということで長年の謎も解けたことですし今日は酒の肴のお話です(前振りが長い)。
酒の肴の条件の一つ目、甘いものは向かない。落語できんとんを肴に酒を呑みたがる話がありますがあれはあくまでくすぐり(笑わせどころ)。一般には塩辛いものあるいは甘辛いものがやはり酒には合います。そしてやや濃いめの味付けのものが良いようです。
条件の二つ目、汁物はあまり向かない。酒自体が液体なので液体同士というのはあまり向かないように思います。ま、中にはすまし汁でビールを戴く通人もいらっしゃるようですが。
条件の三つ目、箸で細かく取ってちまちま食べられるものが向く。酒を一口すすっては肴を一口戴くというプロセスを繰り返しますので骨付きのがっつり系の肉を出されてしばらくは料理に専念しないといけないようなスタイルは向きません。同様の理由でラーメンのように一旦丼に向かえば食べ終えるまで専念しないといけないようなものも向かないと思います。
条件の三つ目は特に重要で万国共通みたい。昔のスペインの国王は「ワインを飲むときは必ずタパス(小皿料理)を食べるように」というお触れを出したそうですが、これもそこに通じるんじゃないかな。
おおよそ、この三つの条件を守っていればどんなものでも酒の肴になってしまいます。例えば、塩や味噌で日本酒を呑むなんて強者もいらっしゃいますが僕はありだと思います(塩は苦手なのでやったことないですが、味噌はあります)。酒の種別に合わせて和洋中に拘る必要もなく(日本酒には和食とかウィスキーには洋食とか)、例えばウィスキーに漬物なんてのが意外に合ったりするんですよ。
酒肴に向く料理はまた、お弁当のお菜にも向くことが多いです。お弁当が求める条件が「傷み予防のために味は濃いめに付ける」、「液状物は避ける」、「お弁当箱サイズに収まるよう小さく切り分けられるものが良い(骨付き肉等は収納しにくいので向かない)」と酒肴と被るから当然の帰結なのですが。
ということで(なにがだ)、僕の日々の食生活はお弁当を作る⇒残ったおかずが晩酌の肴になるという非常に合理的なルーチンを構築しております。って、酒を呑む言い訳にしかなってないなぁ。

ラプラスの魔女

東野圭吾の「ラプラスの魔女」読了。以降、いくばくかのネタバレを含むためご注意を。
作家生活30周年記念の意欲作で僕としては極めて珍しく布団の中に入っても眠たくならずに引き込まれた作品でした(僕は入眠儀式として読書をする習慣があるので布団の中で活字を読むと自動的に眠ってしまうのです。ふつう)。
事故としか考えられない殺人が起きたり、家族を喪った男のブログに作為が隠されていたりとミステリーの要素もあるのですがジャンル的にはSFサスペンスといったところでしょうか。有川浩の自衛隊三部作にも似たとんでも設定がバックボーンになっているのですが、有川作品の軸が比較的ファンタジー寄りなのに対して本作は徹底してサイエンス寄りで論理的(誤解を恐れずに言えば理屈っぽい)というあたり如何にも東野圭吾らしい。
僕はリアルタイムでデビュー作「放課後」を読んで以来の彼のファンで、面白い作家が出て来たなくらいには思っていたのですが、正直ここまで化けるとは思っていなかったな。何より凄いのは彼のリリースする作品の多くがあたかも無名の新人が初めて公募に応募する作品のような渾身の一作でホントに応募したら大賞を獲ってしまうんじゃないかと思わせる力作であること。常に過去の作品を越えて何か新しいものに挑戦していこうとしていること。僕は彼のそんな執筆姿勢が大好きです。
本作も過去の自作を全てぶっ壊したいと思って臨んだそうで、頑張ってるなぁというのが窺える力作でした(だから眠くならなかったんだけど)。けれど、彼が狙った過去の作品をぶっ壊す企みは成功しなかったんじゃないかな。この作品は間違いなくこれまでの彼の全ての作品があってこそ書くことができた作品。今までの執筆経験の上に築き上げた集大成的なものだと思うのです。

ところで、本作は脳外科手術により未来を予測する異能を得た男女がキーパーソンになるのですが、ありがちな結末と違ってラストに二人が死ぬわけではありません。なので、続編を書いてくれないかなと我儘な期待を膨らませているのですがどうでしょう。書くとしたら本作を越えるものを期待されるだろうし、相当体力と気力がいるだろうなぁ

古びない芸能

とある落語家がこんなことを問われたそうです。
「古典落語ってのは今の時代に合わない、古い噺なんじゃないですかね?」
すると彼はこう答えました。
「古典ってのは古いって意味じゃない、古びないって意味でさ。だから、江戸の昔に作られて今でも生き残ってる」
一片の真理だと思います。けど、その古びないものに固執してきたことが落語の衰退の一因だったんじゃないかとも思うんですよね。
昨年オンエアされた「昭和元禄落語心中」を鑑賞してそんなことを思いました。戦前から戦後復興期にかけて若手のホープとして活躍した二人の噺家を軸に物語は展開します。方や豪放磊落で親分肌な芸風の助六。彼は実生活が落語の登場人物そのもののような男でなりは汚い、酒癖が悪い、女にはだらしないし、師匠連とはしょっちゅう衝突するという困ったちゃん。けど、高座に上がると客たちを笑いの渦に巻き込んで一番の喝采を浴びる天才肌。方やその助六のしりぬぐいばかりさせられている生真面目な菊比古。彼は日々、芸の研鑽に余念がないがその陰気な顔立ちと張れない声が災いして助六に比べると人気はいま一つ。けれど、艶っぽい女性の演技に開眼して、廓噺、艶笑噺で頭角を現します。
戦後復興が進む中、対照的な二人を悩ませるのは一つ。落語の行く末でした。古典芸能を究めようとする菊比古に対して、時代に合わせて客の喜ぶ噺を模索する助六。二人は反目し合うのではなく、たがいの主張を認め合いながら10年後、50年後、100年後の寄席をどうやったら守っていけるのか、残していけるのかを熱く語り合います。

僕は高校の頃、古典落語にハマりまして、ネタ本などずいぶん読み漁りました。受験生という制約があって寄席に行くなんてことはできませんでしたが、テレビの落語特番なども観ました。あの頃、桂三枝は創作落語に力を入れていたのですが、正直僕はあれが嫌いでした。舞台を現代にしてしまうとどうにも噺が浮ついて薄っぺらく聞こえてしまう(師匠すみません)。見たこともない江戸の町が舞台だからこそ落語という話芸は活きてくるんじゃないのかというのが当時の持論だったのですが、今振り返ってみると聞いたことのあるネタの古典は耳に心地よく、聞いたこともない新作には拒否反応を起こすただの懐古趣味だったのかもしれないと思ったりもします。
僕自身は噺ができるわけでもなし、一人の客として応援することしかできない身ですが、落語がこれからも多くの人に愛されるよう願ってやみません。当世人気を博している深夜アニメの中でも上々の評判を獲った本作。これを機会に落語に対する認知が広まって、一つ寄席に行ってみようかしらんという人が増える効果を期待してやみません。

日常が終わる時

なんか不穏なタイトルですが、日々当り前にやっていることでもいつかは終わる時がくるものです。
例えば、お弁当。お母さんが息子、娘に毎日作っていて、時には倦むこともあるけれどこれだって、息子、娘が卒業を迎えれば終わります。僕も今は日々、お弁当を作ってますが退職すればさすがに作らなくなるでしょうね(お昼は作ってる気がするけど)。
仕事にしろ、学校での勉強にしろ、時には疎ましくて逃げ出したくなることもあるけれどいつかは終わります。辞めたくない、まだまだやりたいと思っても容赦なく終わります。そして、一日一日その終わりの日は近付いているのです。落ちた砂時計の砂が元に戻らないようにその日が遠ざかることはありません。
学校で卒業を何度も経験し、そんなことは分かり切っているハズなのに。この日常が永遠に続くように感じてしまうのは学習能力がないというよりは人の性、本性のようなものなのかもしれません。だから、たまにはこうやって立ち止まり、やがて来るその日のことを思い描いて日常の暮らしぶりを省みるのも意義あることなんじゃないかな?

ゴールデンウィークも半ば。長いお休みを堪能しながらあと5日でその休みも終わってしまうと思い至り、そんなことを考えました。

一人ぼっちに憧れて

何かの小説だったかアニメだったかで小さな子供が一人ぼっちで放り出されるのはかわいそうだというセリフがありました(ま、ありがちなプロットかもしれませんね)。それに異論を唱えるつもりはさらさらないのですが、ふと自分の幼少期を変な子供だったかもしれないと思い至りました。
物心ついた頃から僕は一人ぼっちに憧れていたのです。家族を含めて人に対する執着が薄く(というより皆無で)、いてもいなくても構わないくらいに思っていたところがあります。そんなことを口にすれば叱られるだろうなと考えるくらいの知恵はあったのでそぶりにも見せませんでしたがたまにそういう性格が垣間見えるのか奇異な目で見られることはありました。
他人から見れば情が薄いというのでしょうけど、どうにも僕は愛情(家族愛であれ、友愛であれ、恋愛であれ)というものが理解できなくて所詮誰もが一人ぼっちじゃんと思っていた節があります。むしろ、そういった感情をベタベタして気持ち悪いくらいに思っていました。なので、4つや5つの頃には生計の問題さえなければ一人暮らしがしたいと思うようになっていたのです。
あれから50年。そんな感情はおくびにも出さず適当に人に合わせながら生きて参りましたが、近頃になって思うのです。これって本当に自分だけだろうか? 案外、同じようにそういった感情を隠して「愛情は大切だよね。宝物だよね」なんて言いながら生きてる人って他にもいるんじゃないかなとか思うようになりました。半世紀を経てカミングアウトしてみましたが実際どうなんでしょうね^^
プロフィール

choal29

Author:choal29
酒と料理をこよなく愛するシステムエンジニアです。
食卓応援サイト「Gの食卓」を運営しています。
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